第16話 参観日の乱反射
~ ルールひとつで空気は冷える。けれど守られた約束は、子どもの心を温める ~
参観日の朝。四年二組の黒板の端には、いつもの「教室の約束」と、もう一枚、昨日配った案内を貼った。
《授業中の撮影はご遠慮ください/最後の五分に記念撮影タイムを設けます》
チョークで下線を引き直し、椅子の列を少し後ろへ下げる。保護者の席と、子どもの世界のあいだに、ほんの少し余白を置くためだ。
子どもたちが入ってきて、保護者の視線がふわりと揺れる。「成長したね」と口の中で言うような顔が並ぶ。僕は一礼し、深呼吸を一つ。
「本日はお越しいただきありがとうございます。子どもたちが安心して学べるよう、最後に五分だけ写真の時間を設けます。どうぞ、授業中は見守ってください」
言い切ると、前列の父親が軽く頷いた。緊張が少しだけ緩む。
一時間目、国語。先週の“吹き出し空白”を少し進化させた。挿絵の人物を三枚並べ、空白の吹き出しに「今ならなんて言う?」とだけ書く。子どもたちは視線を走らせ、手を挙げる。北川が「びっくり」と言い、さやかが「悔しい」と続ける。後列の大翔が、机の端をとん、と指で叩いてから「……助けてって言うかも」と言った。保護者席から、わずかな吸い込む音。僕はうなずき、黒板にゆっくり書く。助けて、と言える。
教室の温度が上がっていくのを感じていた。そこへ――背後で、かすかな電子音が鳴った。
振り返ると、後方の通路で一人の父親がスマートフォンを胸の高さに構えている。録画の赤い丸が光る。周囲の保護者が一瞬だけ顔を見合わせ、子どもたちの視線がパッと後ろへ流れた。岡崎の肩がぴくりと強張る。大翔が僕の方を見て、机の上で手のひらマークを描いた。
時間が伸びる。僕はチョークを置き、声を落とした。
「――一度、止まろう」
子どもたちの目がこちらに戻る。僕はゆっくりと父親の方へ歩き、身をかがめ、できるだけ小さな声で言った。
「すみません。ご案内の通り、撮影は最後の五分でお願いしています。今は、子どもの安心を優先させてください」
父親は戸惑いと苛立ちの混じる目で僕を見た。
「うちの祖父母に見せたくて……仕事で来られない家族もいるんです」
「お気持ちは、よくわかります。ですから、最後に個別に黒板前での撮影時間も設けます。今は、約束を守ることで、教室を守らせてください」
父親は視線を泳がせ、スマホを胸ポケットに戻しかけて、また取り出した。
「……いま撮った分は、消せばいいんですか」
僕は一瞬迷い、でもはっきりとうなずいた。
「ありがとうございます。ここで消していただけると助かります」
固い沈黙。すぐ隣の席の母親が小さくうなずき、「ルールなので」とだけ添えた。父親は無言で画面を操作し、録画リストを空にした。僕は頭を下げ、教壇に戻る。
板書の続きに戻る前に、僕は子どもたちへ向き直った。
「さっきの助けての話に、もう一つ。言えないときは、合図でもいい。伝わったら、それで十分だ」
大翔がこくりとうなずき、岡崎の肩からわずかに力が抜けた。保護者席の空気も、ゆっくりと座面に沈んでいく。
授業は再び動き出した。意見が行き交い、板書が積み上がる。最後の五分、僕は約束通り「写真タイムです」と告げた。保護者が立ち上がり、子どもと目を合わせながら静かにシャッターを切る。さやかの母親が「上手に読めたね」と囁き、北川の父親が不器用に親指を立てる。後方の父親も列に並び、岡崎から一歩距離を置いてシャッターを押した。レンズ越しの笑顔がぎこちない。それでも、約束の中で撮られた記録は、たしかに空気を乱さなかった。
参観が終わると、保護者は順に頭を下げて帰っていった。廊下に出たところで、先ほどの父親が立ち止まり、僕に向き直る。
「……さっきは、すみません。うち、下の子の入院があって、妻が来られなくて」
言葉の端に、疲れが滲んでいた。僕は思わず姿勢を正す。
「教えてくださってありがとうございます。事情がある中で、来てくださったんですね」
「はい……。でも、ルールはわかりました。最後に撮れたので、大丈夫です」
「もしよろしければ、今日の板書の写真も学校のカメラで撮って、学校から共有します。必要ならクラス全員へ同じものを」
父親の目が少しだけ和らいだ。
「それはありがたいです」
短く会釈して別れたあと、僕は胸の奥の張り詰めた糸が一本、ほどけるのを感じた。
職員室に戻ると、彩花が椅子から半分立ち上がってこちらを見た。
「どうでした?」
「……途中で撮影が入りました。でも、止めて、最後に写真タイムで収めました。録画も消してもらえました」
彩花は大きく息を吐き、笑った。
「初動、完璧。いまは止める、代わりを用意する、ができている。子どもの顔、崩れませんでした?」
「大翔が合図を出して、岡崎が……少し、楽になった顔をしました」
「それがすべてです」
小谷もこちらへ来て、肩をぽん、と叩いた。
「線を越えたら止める。止めたら、代わりを返す。いいライン引きだ」
午後、僕は学校のカメラで板書を撮り、全保護者に共有した。メールの文面には、今日のルールと、写真タイムでのご協力への感謝、SNS掲載を控えてほしい理由を守りたいからの言葉で書いた。禁止の文ではなく、翻訳の文で。
夕方、岡崎の母親から返信が届いた。
「今日はありがとうございました。息子が先生が止めてくれたと言っていました。家で助けての合図の練習をしました。写真も大切にします」
短い文のうしろに、見えない重さがそっと下りていく。僕は椅子の背にもたれ、天井の蛍光灯を見上げた。
夜。アパートでノートを開き、今日を言葉に置く。
「禁止は、守りたいものの言い換え。止めるときは代わりを用意する」
そしてもう一行。
「レンズが向くとき、子どもの心はどこを見るか」
参観の教室で、大翔が合図を出してくれた瞬間のことを思い出す。僕が見るべきは、いつだってそこだ。
ペンを置いたとき、スマホが震えた。彩花からだった。
「今日の対応、学年で共有していいですか。マニュアルじゃなく現場の言葉として。
それと、来週の学年発表会の舞台づくり、二組にリード役をお願いしたいです。やれますか?」
胸が、また少しだけ強くなる。
「やります。やりたいです」
送信して、窓を開けた。夜風が入ってくる。久しぶりに、冷たい空気が気持ちよかった。
次は学年発表会。意見がぶつかる。けれど、その衝突は前へ進む音になるはずだ。
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