第14話 紅葉の焔

 夜の森は木々のざわめきさえなく、ひっそりと息をひそめていた。


 風の音ひとつない静寂が辺り一帯を支配している中、悠真はただ怜司の手を離さぬよう強く握っていた。


 ──あの夜から、世界は確実に少しずつ軋みを上げている。


 校舎の窓に映る影は不規則に揺らめき形を変え、鏡の奥から覗くもう一つの自分が黄色く黄ばんだ歯をカチカチ鳴らしながら時折、言葉にならない声で呼びかけてくる。


 悠真は夢と現実の境界が薄れていくのを肌で感じていた。


 肌を突き刺す冷たい風が木々の隙間を勢いよく吹き抜けると、ふっと橙色の光が暗闇にゆらゆらと踊るように揺らめいた。


 最初、それを狐火だと思った。だが──それは“誰か”の瞳の輝きだった。


 「……あなたたち、人の匂いが濃いね」


 声は柔らかく、けれどどこか冷ややかで獣のような艶を帯びていた。


 枝の上に座っていたのは、一人の少女だった。


 艶やかな黒髪に紅の混じる髪先。月光を映す金の瞳。背後には、ふわりと九本の尾が揺らいでいる。


 怜司が息を呑む。


 「……妖怪、か?」


 少女はくすっと微笑んだ。


 「妖怪だなんて呼ばれるのは、久しぶりだね。今は“紅葉(くれは)”って呼ばれてるよ」


 紅葉の声は夜気と混じり、悠真の耳の奥をくすぐった。


 彼女の存在は、恐怖と同時に何故か不思議な懐かしさを伴っていた。まるで遠い昔、夢の中で出会ったような──。


 紅葉はしなやかに枝から降り、悠真の目の前にふわりと降り立つ。


 その足元には、狐火が小さく灯っていた。


 「この森には、二つの世界が重なってるの。人の住む現と、魂の残る裏。君たちは……もうその境を踏み越えてる」


 悠真は唾を飲み込んだ。


 「境……って、まさか“鏡の底”のことか?」


 紅葉は頷いた。


 「そう。君たちが覗いたあの影の世界。あれは“裏側”の入り口。管理者が創った、もう一つの現実──」


 怜司が眉をひそめた。


 「管理者? 誰だ、それは」


 紅葉はその問いにすぐ答えず、夜空を仰いだ。


 雲間から月がのぞき、彼女の金色の瞳に光が宿る。


 「この“学園世界”を制御している者。表ではプログラム、裏では神。彼らは物語を創り、君たちの運命を繋ぎ合わせて、永遠に繰り返す。……まるで遊戯のように」


 悠真の心がざらついた。


 まるで誰かが上から見下ろしているような感覚──すべてが台本通りに進んでいるとしたら、彼らの“感情”すらも偽りなのか。


 紅葉は悠真に近づき、その頬に指を添えた。


 冷たくも、微かに熱を帯びた指先。


 「君、名前は?」


 「……悠真」


 「そう。悠真──。君には、見える力がある。だから、世界の裂け目が君を呼んだのよ。本来なら人間には干渉できない“裏”が、君の魂を覚えていた」


 「俺の……魂を?」


 紅葉は微笑んだ。


 「君はね、前にもこの場所に来たことがある。だけど、その記憶は管理者に“削除”された。彼らにとって、君は危険なの」


 悠真の胸がずきりと痛んだ。


 失われた記憶──だが、心の奥が確かに何か朧気で曖昧な何かを思い出そうとしていた。


 紅葉の顔。その金色の瞳。その声。


 「……俺、どこかで……君に……」


 「思い出さない方がいい」


 紅葉がその言葉をすかさず遮った。


 「思い出せば、君はこの世界から帰れなくなる」


 風が強く吹き抜け、森の木々が悲鳴を上げたように揺れる。


 紅葉の九本の尾が広がり、炎のように輝いた。


 「もうすぐ“管理者”が動く。君たちの物語を、別の結末に書き換えるつもりだ」


 怜司が叫ぶ。


 「ふざけるな! 誰かの手で俺たちの人生を弄ばれてたっていうのか!?」


 紅葉の瞳が切なげに揺れる。


 「彼らにとっては遊びでも、私たちにとっては現実。だけど、悠真──君には選ぶ権利がある。この世界を燃やして“現実”を取り戻すか、それとも……この幻想に溶けるか」


 紅葉の手が悠真の胸元に触れる。


 そこから小さな光が零れ落ち、焔のように揺れた。


 「君の心の中に、まだ“鍵”がある。それを使えば、世界の境界を開けることができる」


 怜司が慌てて叫ぶ。


 「悠真! そんなの信じるな!」


 だが悠真の瞳は紅葉をまっすぐ見つめていた。


 紅葉の表情には、恐ろしいほどの真実と哀しみがあった。


 「君が選ぶ時が来る。この世界が焼き尽くされる前に──」


 紅葉の尾が光の柱を描き、森全体が紅に染まった。


 炎の中、紅葉の姿がかすかに揺れ、やがて陽炎のように揺れながら消えた。


 残されたのは、狐火のようにゆらめく小さな欠片だけ。


 それを悠真が拾い上げた瞬間、遠くの空で何か巨大な“目”が開いた。


 ──見られている。


 この世界そのものが、彼らを観測していた。


 怜司の声が震える。


 「……悠真。今、何を見た?」


 悠真はゆっくりと振り返り、月を背に立った。


 その掌には、紅葉の残した焔が燃えていた。


 「俺たちは、もう“物語”の中にいる。でも──俺は、この物語を壊す」


 夜が、軋む音を立てて崩れ始めた。


 空の端が割れ、光と影が溶け合う。


 紅葉の声が遠くから響く。


 ──その炎を信じなさい。


  真実は、必ず燃え残る。


 そして、世界はゆっくりと形を失っていった。

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