第3話 白昼の一撃、夜の灯り──名は灯り/灯りは道

1 戦支度──道具は剣より先に


 夜明け前、鐘が三つ。

 王都の北側、武具庫の前で**アモン(治安維持庁)が札の束を配っていた。札にはでかでかとこう書かれている。

 「深追い禁止」「市民方向禁射」「穴=避難導線」「夜戦禁止」。

 札の下に細い行を足したのはロノウェ(言語)**だ。「読めない者は印を覚えろ。×が“撃つな”、◯が“通せ”。」


 **レナード(精霊)**は井戸の縁を撫でて水脈の音を聴き、**フォカロ(水資源)**は桶の列の“向き”を揃える。桶は武器じゃない。けれど今日、刀より役に立つ。

 **マルバス(公衆衛生)**は路地の角に薬箱を括りつけ、**キマリス(食糧)**はパン粥の鍋を各詰所の火床へ運ぶ。腹が減ると秩序は崩れる。胃は士気の第一線だ。


 **ハルファス(参謀総長/中央軍)**は地図卓に石を置いた。「中心線は井戸群に沿わせろ。水の近くで戦え。火には水」。

 **ガープ(右翼)**は矢束の目録札を検分し、「残量を叫べ。棚卸みたいに」。

 **グラシャラボラス(左翼)**は笑ってからきっぱり言う。「追うな。穴を守れ。穴は人の逃げ道だ」。


 私は王の顔をつくりながら、肩の虫鎧を撫でた。今日の色はつや消しの黒。羽音は落ち着いたテンポで、心拍のメトロノームみたいに刻む。

 ルシファーが小声で問う。「陛下、胃は」

「鳴いてる。でも、歩幅は合ってる」



2 霧の前哨──言葉で釘を打つ


 霧が低く這い、双頭鷲の赤旗が何筋も白を裂いてくる。

 行軍太鼓の湿った振動が腹に響き、遠方にフェルナンド守備隊司令の声がかすかに届いた。「崩すな、押すな、揃えろ!」


 私は**ボティス(外交)**に短文を渡す。

 > 「非戦条件三項:亡命奴隷の不追及、市民への不戦、祈り場の不可侵。受諾なら通行を開く」

 返答の見込みは薄い。けれど“投げた事実”は残る。見える言葉は、のちの裁きの線になる。


 **ビフロンス(ネクロマンサー軍)**が盾列を上げた。骸骨は軽くて音が小さい。ゾンビは重くて踏ん張る。ワイトは指揮伝達が速く、デュラハンは騎乗のまま視線で命令を通す。

「誓約を再確認。市民接触禁止、墓地と祈り場は不可侵、徴発は代価支払い。盾は人のために、剣は秩序のために」


 **フェネクス(詩人)**は広場の布告板の前で短い声出しをしていた。

 > 「名は灯り/灯りは道/道は国」

 子どもの輪が復唱し、声が街の壁で跳ね返って薄く私の背へ届く。呼吸が整う。王の顔が、今日も破綻しない。



3 初弾──黒い雲とゼロの被害


 公国軍の角笛。雨のような弩の黒い雲。

「盾上げ」ヴァブラの合図で、アンデッドの盾列が一歩前に。矢は骨と木にばちばち突き立ち、**後列の“生身”**が一斉に息を吐いた。

 被害はゼロ。それを“見て”生きている兵が落ち着く。戦いはまず、視線の安定から。


「反撃、間引き射、三呼吸で二連!」オリアスの声。

 こちらの矢は市民導線側に死角を作るよう落ちる。射角の帳尻を合わせるための杭の位置は昨夜のうちに赤白で印を打ってある。線で撃つ。

 ザガンの小隊が丘陰から囮を出し、追ってきた敵斥候をわざと避難導線から遠ざける曲線に乗せる。

「市民方向は撃つな!」──号令は重なり、戦列には**“穴”**が用意される。人が逃げるための穴。譲るための戦い方に、公国兵の顔がこわばる。



4 市街の火──札と桶で消す


 城下の路地で火の手。潜入兵の油。

 アモンの角笛。「第七・第八分隊、火点三! 井戸二から連水、路地五番は逆風、蓋を閉めろ!」

 **グレモリー(風俗取締)が怪しい布商を壁へねじ伏せ、瓶に灯心を差して火を点ける。炎の濁りを見て言う。「松脂だね。退去、没収、“ウソつきました札”**掲示」


 タフィーラド(エルフ)は茨を一刀で払って穴を確保し、カフィーゼ(コバルト)は倒れた梁を片手で支え続ける。

 レナード(精霊)は油煙を抑える清めの詠唱。

 近衛のケロベロスとアスタロトは救出・誘導を最優先。剣より先に担架が走る。それが王の命。

 私は手の甲で汗を拭いながら──胃が、きゅ。仕様だ。動け。



5 右翼・中央・左翼──三枚の布


右翼(ガープ)

 練度の高い小隊を噛み合わせのように出し入れする。「三列目、交代! 矢束の残量を叫べ、値札の棚卸みたいに!」

 兵は笑う。緊張の角が折れる。矢束には目録札、誰でも残量が見える。見える管理は戦にも効く。


中央(ハルファス)

 深く薄い防御。押せば下がり、下がれば噛む。

「中心線は井戸線に沿わせろ。水が近い場所で戦え。火に勝つのは水」

 ビフロンスの盾列が水際で踏ん張り、生身は回廊のように流れて疲労を分散する。


左翼(グラシャラボラス)

 獣のように笑って、兵には厳格。「追うな。穴を守れ。穴は人の逃げ道だ」

 戦列に切れ目を作り、**市民の欠片(ピース)**をすり抜けさせ、敵の楔を空振りにする。

 線の幾何で戦うのだ。



6 公国の圧と綻び


 数は公国。角笛は唸り、槍の森が押し寄せる。

 フェルナンドの声は枯れている。「崩すな、押すな、揃えろ!」

 だが綻びは、言葉から始まった。


「奴隷を返せばいいだけだ!」

「違う、人を売るなという話だ!」

「名を呼ばれる国に行きたい……」


 下士官の怒号。「黙れ!」

 兵は目を逸らし、槍の穂先がわずかに震える。これは恐怖ではない。秩序に負けている。

 後方のヘルマン・グロイエル伯は泡を飛ばす。「逃げるな! 財産は金だ! 金を守れ!」

 誰も返事をしない。兵の多くに金はない。だが名は誰にもある。



7 白昼の一撃──膝を撃て


 霧が割れ、陽が差し、影が短くなる時刻。

 ザガンが片手を挙げ、オセと目配せ。「今だ。膝を撃て」

 矢束が低く落ち、敵前列の膝を穿つ。殺さない。立てなくする。

 医官は前へ出ざるを得ず、列が乱れる。アミーは小さな風刃で敵旗の“白”だけを切り落とす。旗は秩序の象徴だ。象徴を曖昧にする。


 **ウァレフォル(情報)**の報告通り、左翼の小丘は湿地。

 ウァラクがわざと後退し、追う騎兵が泥に足を取られて横転。

 フェルナンドはすぐさま後列を前に出して破綻を繕う。いい指揮官だ。だが冷静さは数に勝てても、名には勝てない。



8 小さな戦場──寺子屋の机の下


 市内の寺子屋。

 アレクサンドルが子どもたちを机の下に入れ、読み札を握らせる。「いいか、自分の名を声に出して。『リナ』『カイ』『ミルド』……そう、声は灯りだ。怖くない」


 壁の避難絵図は文盲でもわかる。角には赤(道)、井戸には青(水)。

 **ラファエル(法学僧)**は首に汗をしたたらせながら、“ラ・ファ・エ・ル”と板書の真似をして子らを笑わせる。

 フェネクスは小さく歌う。「名は灯り/灯りは道」。

 **ボニファティウス(記録僧)**のペンが止まらない。宗教は守る。けれど、線を引くから共存できる。



9 市民の記憶──二つの証言


 昼下がり、私は一度だけ広場に戻り、市民の声を二つだけ拾った。


 ひとつはミルド。震える手で布告板の端に自分の字をなぞり直していた。

「わしは、ここにいる」

 拙い字に、線の影が伸びて、消えない。


 もうひとつはロッツ。労役を終えた元伍長が新しい市民札を受け取っていた。

「名を返されたら、守る側に立ちたくなった」

 名は胸に入る。腹は粥で満たす。両方要る。



10 午後の均衡──勝ちに行かない勝ち


 前列が一歩進む。グラシャラボラスが笑う。「ここで追えば華だが、華は要らん」

 ビフロンスが頷く。「深追い禁止。盾列、二歩下がれ」

 兵の胸がすうっと軽くなる。勝ち色が走る瞬間ほど秩序は崩れる。勝ちに行かない勝ちを叩き込む。


 私は王旗の陰で胃を撫でる。

 ルシファーが囁く。「陛下、顔は保てています」

「胃は泣いてるけどね」

「胃薬を増やします」

 笑いが、すぐ消えて、顔が戻る。王の顔は筋トレだ。



11 捕虜の運び──公開の檻


 前線が一度大きく吸って吐いた隙に、捕虜が臨時法廷へ運ばれた。

 布の天蓋、石卓、三脚の椅子。椅子は高くない。法は低い位置から届くものだ。


 ベレト(司法)が座り、右にマルコシアス(判官)、左にフールフール(奴隷保護・捕虜担当)。

「名を」

「……第三連隊伍長、ロッツ」

「ロッツ。市民に矢を向けたか」

「向けていない。向けさせられそうになったが、命令を無視した」


 証人が頷く。「確かに、こいつは俺の腕を掴んで矢を落とさせた」。

 マルコシアスが目を閉じ、ひと呼吸置く。「越境武装。軽罪、労役三十日。期日を以て解く。名を刻め、ロッツ」

 ざわめき。

 別の捕虜が震える声で叫んだ。「俺は市民を斬った! 命令だった! 俺は……!」

 ベレトの声色は変わらない。「大罪。公開の場にて極刑。抄録は掲示する」

 斬首は手短に、儀礼は簡素に。見える法が都市の熱を下げる。復讐ではなく裁き。王の道。


 さらに二件──

 一人は放火未遂。宗教衣を着た袖の内から砂糖松脂の閃燃筒。

 レラジェが火口だけを射抜いて無力化していた証拠を掲示。罪状は宗教冒用による治安攪乱。罰は終身労役、公国への返還なし。

 もう一人は略取。避難導線で荷を奪い、子を突き飛ばした。

 「穴は人の命」とベレト。鞭二十+市外追放、追放の間の保護は免除せず(餓死させないため)。罰と保護を同じ札に書く。線は細いが、折れない。



12 敵陣の影──フェルナンドの水袋


 幕舎の陰。フェルナンドは水袋を握りしめ、唇を濡らした。

(秩序で押されている。夜戦がない。灯りが多い。兵は疲れ、名を思い出してしまう)

 帷が揺れ、下士官が囁く。「司令、兵が五十ほど逃げました」

「方向は」

「……王国側へ」

 フェルナンドは目を閉じ、短く言う。「追うな。背を向けた兵は斬るな。斬れば、背が増える」

 負け方を知っている。だからこそ、兵の名を無駄にしたくない。

 後方でヘルマン伯は歯ぎしりし、聖庁の使者へ毒を吐く。「虫の王が人の法を語る? 僭称だ!」

 使者は何も言わない。白と金の衣は、今日はただの布だ。



13 夕刻の書状──順番の宣言


 陽が傾く。私はボティスに書状を持たせた。

 > 「捕虜交換、負傷者の相互保護、祈り場の不可侵。これが非戦条件。退くなら、人のために退け」

 伝令が敵陣へ。ヘルマンは地に叩きつけ、靴で踏む。

 フェルナンドがそっと拾い、折り目を正す。「人の法を踏むのは、人ではない」



14 日没──夜戦はしない


 日が落ちる。

 私は三の合図を命じた。「街路灯増灯。夜戦禁止。人の時間を終わらせる」

 灯りが一斉に強くなる。虫の輪は高度を上げ、空の目印になる。

 公国軍は闇に助けられない。夜の恐怖に寄りかかれない戦は、彼らには初めてだ。

 フェルナンドは軍旗を引き、整然と退く。兵の足取りは重いが、潰走ではない。彼は兵の名を守った。


 私は胸の内でひとつだけ息を長く吐く。胃薬のキャップをコツ。仕様。



15 戻る名、残る灯り


 王都。

 アモンの巡回は避難者名簿に戻った名をひとつずつ刻む。

 リナは掲示板の自分とカイの名に指を這わせ、肩で息をして笑った。

 ミルドは拙い文字をもう一度書く。「ミ・ル・ド」。名は灯り。灯りは道。

 ガロスは詰所で水を一杯飲み、義足のベルトを緩める。「俺は今、守る側だ」



16 臨時会議──華は要らない


 夜の政庁。

 ハルファスが報告。「死者少数、軽傷多数。市民の死者ゼロ」

 **ベリト(財政)が収支板を掲げる。罹災支出の欄が赤く、下に寄進(任意)**の欄。

 **ラウム(金融)が言う。「寄進は自由、税は秤。寄進の名で徴税は禁止」

 フルカス(宗教)が頷く。「祈り場の赤札は働いた。明日は黄色札(静音)**を加える」


 私は短く言う。「深追いの華は要らない。勝ちの形は、明日の朝の布告板に出る」

 ルシファーが微笑む。「陛下の胃は」

「二つ目が欲しい」

「増やしておきます」

 場が和む。すぐ引き締める。王の顔は呼吸だ。



17 捕虜交換──法の橋


 翌朝。白旗。フェルナンドの封蝋。

「捕虜の返還を求む」

 ルシファーが判決台帳を置く。革表紙には全員の名と判定が並ぶ。

「重罪は裁き済み。軽罪・無罪は段階的に解放。交換条件は三つ。負傷者の相互保護/祈り場の不可侵/市民への不戦」

 使者は台帳をめくり、呟く。「……戻った者たちは何と言っている」

「名で呼ばれたと」

 喉が鳴る音。「伝える。秩序の話として」


 その日の午後、最初の返還列が国境を渡り、公国の幕舎で囁きが走った。

「裁かれた。だが生きて帰れと言われた。名で」

 囁きは火より速い。列に走る亀裂は、熱ではなく冷気から入る。



18 市の再建──仕事板と黒粥


 戦の翌日でも朝は来る。

 シトリー(労務)が仕事板を立てる。家屋修繕、石運搬、配水路清掃、読み書き補助──札に賃金と時間。

 ブルソン(文化)は楽師の許可札を配り、夕刻の広場演奏を時限的に無料にした。

 キマリスは配給所で言う。「三日分の乾パンは今日で終わり。明日から黒粥」

 ベリトは収支板を大書で掲げる。数字は誰にでも見える字で。見える数字は不安を減らす。


 ロノウェは二言語+妖精語の掲示を増やし、ラウムは秤の公開時刻を掲げる。

 イドラド(ゴブリン)は検定鋼の“L”刻印を眺めてニヤリ。「針は真ん中、俺も真ん中」


 私が市場を歩くと、マルタ婆が声を飛ばす。「陛下、聖なるスープ。胃に効くよ」

「材料は」

「塩と時間、あと値切り回避の祈り」

 笑う。胃が少しだけ軽い。



19 宗教の線──布告・完全版


 中庭で**フルカス(宗教)**が朗読する。鐘の余韻と競うように、言葉が段々に広がる。

1. 信仰の自由を保証。

2. 祈り場・墓地・聖遺物は不可侵。赤札を掲げる。

3. 信仰の名を用いた暴力・略取・焚書は大罪、公開裁判へ。

4. 改宗強要を禁ず。

5. 聖職者は人名札を携行し、名を隠してはならない。

6. 埋葬・婚姻・寄進は選択可能。権利と義務は書類で守る。

7. 上記に反する私法は無効。ただし善き慣習は公示して延命可。


 フェネクスが一行を添える。「名は祈り/祈りは灯り/灯りは道」

 タフィーラドは胸に手を当て、「樹葬許可、感謝」。

 レナードは水面に星を浮かべ、カフィーゼは石の角を面取り、イドラドは供えの重さを量る。

 宗教は守る。線を引くから、守れる。



20 六大将軍の“手”


 その日の夕刻、私は六大将軍の詰所を回った。

 オセは弓の“低射角”を兵に叩き込み、「膝は倫理だ。殺すな、立てなくすればいい」。

 アミーは風刃の出力下限を調整させ、「旗だけ落とす練習」を百回。

 オリアスは“間引き射”のカウント法を子どもにもわかるように板書。

 ヴァブラは盾列の足幅を六寸で揃え、写真(風の記録板)に残す。

 ザガンは囮の動線を赤線で引き直し、ウァラクは湿地図に青の斜線を増やした。


 私は言う。「戦いの技は倫理と一緒に教える。市民被害を減らす技は、国の誇りだ」



21 公国の軋み──二つの文書


 公国首都。ヘルマン伯は聖庁の石回廊を怒りで踏み鳴らした。

「悪魔の札は僭称! 奴隷は財産、財産権は神聖不可侵!」

 聖庁の老司教は瞼を伏せる。「調査団を出す。秩序が乱されるなら、正す」

 廊下を出たヘルマンは拳を握る。掴むものが見えないから、なお握る。


 一方、フェルナンドは静かな筆致で報告書をしたためた。

 > 「敵は見える秩序で戦う。壊すだけでは勝てぬ。兵の名を奪う戦は、こちらの背を増やす」

 冷静な字。こういう相手がいちばん怖い。



22 夜の虫と王の胃


 夜。

 私は鏡の前で王の顔を三分。眉、目線、口角、歩幅。厨二病スライダーは今日は二割。

 肩の虫鎧が「おつかれ」とさわめく。かわいい。

 ルシファーが湯気の茶を差し出す。「布告は剣より遅い。しかし遠くまで届く」

「条文は消耗品。胃薬も消耗品」

「名言にしますか」

「フェネクスに止められるやつ」


 ストラス(顧問)がファイルを抱えて入る。「“線の巡回見学ツアー”に他国から二件。見せる外交、効いています」

「胃薬の在庫は?」

「増やしました」

「優秀」

 窓の外、眷属の輪がゆっくり回る。広場の灯は落ち、布告板だけが淡く光る。

 端でミルドが背伸びして、小さく書く。「ありがとう」。

 誰にも気づかれないくらい小さい。でも、確かに、そこにある。



23 翌朝──読み上げと線の手入れ


 朝の広場。アレクサンドルが読み上げる。「リナ、カイ、ガロス、ミルド……」

 呼ばれるたび、小さな拍手。自分の名が他人の口から出ると、人は体温を取り戻す。

 パランド(妖精)は余白に星を描き、ロノウェは二言語札を増やし、ラウムは秤のL刻印を磨く。

 ガロスは少年隊に言う。「赤は道、青は水。覚えたら次の子に渡せ」



24 法の更新──三枚の札


 政庁の前でベレトが新しい三枚の札を掲げた。

• 「夜戦禁止の恒常化」:灯りの増灯と詰所交代時刻を固定。

• 「避難導線の常設」:赤線の恒常保守、破線は“臨時”を示す。

• 「捕虜裁判の抄録ルール」:判決の要旨+証拠の掲示を義務化、反論提出箱を設置。


 ボニファティウスが「抄録の言い回しを柔らかく」メモし、フェネクスは詩板に**「夜は人のもの」**と書いた。



25 戦後の商い──値札は神より正直(マルタ婆談)


 夕方の市場。マルタ婆とドルフ(鍛冶屋)とロノウェの三つ巴。テーマは**「値札の字体」。

「婆ちゃんの“銅貨一枚”の“一”、細すぎ。読めない」

「細い方が上品だよ」

「上品は読めるの先**」

「やだわ、また正論」

 ラウムが肩を震わせて笑う。針は真ん中。字は太く。今日の勝敗はロノウェ(2勝)、マルタ婆(ボケ1勝)、ラウム(笑い1勝)。引き分け。


 私はブラックダイヤモンドの欠片を光にかざし、「王印を打った加工品だけ王室の取引対象。無印は没収」

「了解、王様」ゴブリンの店主が歯を見せる。**“見える規格”**は怒りより納得を生む。



26 婚姻窓口──式は自由、権利は書類


 午後、婚姻登録所。壁にはフェネクスの標語「婚姻は式の美しさと書類の硬さでできている」。

 窓口のシトリーが声を張る。「三本建てです。教会婚/登録婚/名札証婚。扶養・相続は登録で。愛称併記OK、読み替え禁止線にご注意を〜」

 ラウムは扶養控除の図解、ベレトは婚姻詐欺罰則の札。

 ラファエルが横でメモる。「名の優越──神に見せる名でもあるから、か」

「そう。名が先」

 宗教と権利は喧嘩しない。線を引けば、並べて置ける。



27 外交の“見せる”──匿名は沈黙


 灰色のローブの密使が来る。胸には匿名札。

 ボティスは微笑んで切り捨てる。「匿名札は王都では無効。名を示すか、沈黙を守って帰るか、どちらか」

 渋々名乗る。「……グロイエル伯の書記、ウィルベルト。交易停止の通達を」

 ルシファーの声は氷。「通達は国境を越えない。越えるのは条約だけ。止めるなら相互に止めよう。塩と鉄、どちらが先に尽きるか、試す?」

 書記は汗を拭い、「検討する」とだけ言って退いた。サレオスが屋根の影で指を二本。裏の仕掛け、二つとも不発。ウァレフォルの情報線は今日も強固。



28 小事件──婚姻詐欺の芽を摘む


 小さな騒ぎ。偽の証人を連れてきた婚姻詐欺。

 ベレトの眉が跳ね上がる。「名の偽装は魂の偽装。公開する」

 シトリーが手順を読み、「筆跡照合」「顔札対照」「ウソつきました札の準備」。

 アレクサンドルが板書で「名の偽装の何が悪いか」を図解。子どもが見学している。

 偽証の二人は顔を伏せ、名札を正しく出し直した。線は人を恥に導き、善に戻す。



29 夜警──サレオスの“暗殺ギャグ”は控えめに


 サレオスが夜警ブリーフィング。「今夜の目標は静寂と発見。暗殺はしない。いや、必要ならするが、しない。ギャグはする」

「最後の要らない」私とルシファーの声がハモる。

 レラジェは火口だけ撃ち抜く訓練を五回。ウァレフォルは匿名札の流通を潰し、**オロバス(青少年)**は夜の窓口で悩み相談。

 フォルネウスは灯りの詩を壁に貼った。「名があれば、帰れる」



30 遠国のざわめき、こちらの静けさ


 その頃、公国ではヘルマン伯が喉を枯らし、「悪魔の札は秩序の敵だ!」と叫ぶ。

 ラファエルの報告は冷静だ。

 > 〈名の札が恐怖を減らし、赤線が行列の苛立ちを減らしていた〉

 エゼキエル団長は報告書に二本の線を引く。「対話」と「火」。

 フェルナンドは一行で締めた。「線があるところに秩序がある。線の撤去は敗北だ」



31 王の夜──条文と胃薬は消耗品


 部屋に戻る。鏡の前で王の顔を三分。眉、目線、口角、角度。厨二度は控えめに二割。実務回だから。

 「布告は剣より遅い。けれど遠くまで届く」ルシファーの常套句。

 「条文は消耗品。胃薬も消耗品」

「それ、名言にしない?」

「詩人委員長に止められます」

 ストラスがファイルを置く。「巡回見学ツアーの申し込み、さらに二件」

「胃薬の在庫は?」

「増やしました」

「よくできた副大統領だ」


 窓の外、眷属の輪。広場の灯が落ち、最後に布告板だけが淡く光る。

 端でミルドがまた背伸びして、小さく書いた。「ありがとう」。

 ──誰にも気づかれないくらい小さい。でも、確かに、そこにある。


「名を守る。人を守る。秩序で勝つ」

 今日も、守れた。明日も、線を一本。胃薬も一本。



32 補遺──三人の小さな物語


(一)リナの手紙

 夕暮れ、リナは寺子屋の机で短い手紙を書いた。「おかあさんへ。わたしたちは、名で呼ばれています。赤い線は道で、青い線は水です。黒い線は、王さまの髪。うそです。ほんとは、王さまの虫です」

 アレクサンドルが笑って朱を入れる。「虫の輪、ね」


(二)ロッツの朝

 市民札を受け取ったロッツは、門の見張りに立つ。通る列に声をかける。「名札を見せてくれ」

 ある老人が震える手で札を出す。ロッツは微笑して字を読んでやる。老人は頷いた。

「名を読める者は、守る側に向いている」ベレトの言葉を思い出す。


(三)フェルナンドの机

 公国の兵営。フェルナンドは机に紙を三枚並べ、退却・再編・訓練と書いた。

「膝を守る盾、旗の替え、夜の灯り」

 線を引く。彼は負け方を知り、次を準備している。敵に欲しいが、今は敵だ。



33 終章──朝の輪郭


 まだ夜なのに、最初の鳥が鳴く前。

 広場の灯は少しずつ落ち、布告板だけが淡く光る。

 板には今日も新しい名が増えていた。

 ミルドは自分の拙い字を撫で、「わしは、ここにいる」。

 ガロスは義足の紐を締め、「今日も穴の見張りだ」。

 リナはカイを抱いて息を合わせる。「赤は道、青は水」

 カイは眠たげに頷く。「黒は、お母さんの髪」

 私は窓辺で、遠い灯と虫の輪を見つめ、ゆっくり息を吐いた。


(戦は続く。外交も、策謀も、裏切りも、これからだ。けれど、やることは同じ)

 名を守る。人を守る。秩序で勝つ。

 その三つを、もう一度、心の中で並べ直す。


 夜の際がほどけ、朝の輪郭が生まれた。

 そして北から、かすかな角笛。双頭鷲の影は薄い。

 灯りの海は、今日も人の時間を守る。


 最初の鳥が、鳴いた。

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