第九射 無知と不穏と筋肉と
「先・生・か………」
ルナの光のみが差し込む薄暗い部屋の中、少女が呟いた。
部屋の中にはいくつかの棚が配置されており、その全てにぎっしりと薬品らしき瓶が詰められていた。そこそこの広さを持つその部屋には薬品棚以外にも様々な物が配置されている。椅子、机、水道やガスなどのインフラも通っていた。例えるならば、そう。
理科室そっくりだった。
「数少ない私の顧客……ミル・ラガン・ドラグノフからの発注が無くなったと思ったら、無名の人間からの発注依頼が届いた……彼女ではなく、彼がアレを使っていたとすれば辻褄は合うな」
上の縁がない眼鏡をクイッと持ち上げ、位置を直す。細身で長身なその体に無骨な白衣を纏い、いかにも科学者らしい服装だ。腰まで伸びた赤髪は手入れされていないのかボサボサで、あまり堅苦しい印象は感じない。
片手に持った試験管に入った液体を、フラスコに入った小さな石のような物体にかけるように注ぐ。すると何がどう反応したのか、液体が粘着質な固体へと変質していった。
「まぁ、何はともあれ彼が良き理解者であることを願うばかりだな……」
少女は小さく微笑む。
夜はルナの輝きを主役に、まだ更けていく。
静かな街を置いて。
◇
石造りの廊下を歩く。季節は春。嵌め込まれた窓から射し込む暖かな陽光と吹き抜ける春風が眠気を誘うが、今日の俺はお布団とさよならを告げた身、そう簡単に眠りの誘いに乗ることは無い。
だなんて下らないことを考えながら、俺は職員室を目指していた。
昨日会えなかった職員達、そして校舎の案内を買って出てくれたティゼに会うためである。
あまりに広い校舎を徒歩で進むこと十数分。ようやく職員室にたどり着いた。昨日とは違い、中からは活気に溢れた音が響いてくる。
扉を開き、中へと入る。昨晩何とか半分程読んだ書類には職員室での俺の席も記されていたのでそこへ向かう。
ありふれた、ごく普通の机と椅子だ。小さめの書類棚が備え付けられている以外に変わった所は無い。
「なんと言うか、こういう所だけ常識的だよなこの世界……」
とんでもない不条理と不合理の中にある普通は却って異端に見えてくる。と、急に声をかけられる。
「あれ、なんだか見覚えのある顔だな……君、名前は?」
背後を振り向くと、理性的な黒い瞳と後ろで一つにまとめられた藍色の長い髪、長身に良く似合うパリッとした黒いスーツを着たお姉さんの姿があった。
どうやら彼女は俺に見覚えがあるようだが、俺は全く記憶にない。一体どちら様だろうか?
「名前……ないんですよね」
一応本当の事を伝える。ここにいるということは教師なのだろうし、今後関わることもあるだろうと考え、わざわざ嘘をつく必要は無いと判断した。
「名前が無い………あぁー!」
突如叫び声を上げるお姉さん。
「あのクソ生意気なガキンチョのヒモ!」
「誰がヒモだ!」
断じて。断じてヒモでは無かった。ハズだ。
「完全に思い出したわ!あんだけ人前でイチャコラしといて結局捨てられたんじゃない!いい気味ね!」
どうやら師匠と何か確執があるようだ。
「えっと……ウチの師匠のお知り合いで……?」
「はぁ!?私の事覚えてないの!?天才スナイパー、峯岸零みねぎしれい……こう言えば分かるかしら?」
「いえ、全く」
「何でよぉぉぉ!?」
いや、本当に。聞いたことすらない。
「会ったじゃない!名乗ったじゃない!あんたたちに散々邪魔されたじゃないのぉぉぉぉぉ!!!!」
ぐわんぐわんと肩を掴んで揺さぶられるが、そんなことをされても思い出せないものは思い出せない。まじでどちら様なんだこの人……
「ふんっ、もういいわよ!次会ったらぶっ飛ばしてやると思ってたけど……あんたをぶっ飛ばしたって意味無いもの。今度ミル・ラガン・ドラグノフを連れてきなさい!けちょんけちょんにしてやるんだから!」
最初のクールで知的な印象から一転、子供のように怒りながら去っていった。
本当に誰だったんだ……
◇
荷物を整理し、一度職員室を回ってみたが他に見知った顔は無かった。数人と話し色々情報を得たのだが、どうやらここにいない教師がまだいるらしい。
今後関わることもあるだろうし、気長に待つとしよう。
彼らとの歓談を終え少し経つと、マジパにティゼからのメールが届いていた。
『約束通り、今日は私がヴェルメイユ・ファミリアを案内するね!正門前で待ってるから、早く来てー!』
一年前の彼女と変わらない、明るい調子が伺える。
『すぐ行く』
とだけ返し、マジパをポケットにしまい、職員室を出た。
また正門まで歩くことになってしまったが、ティゼがそこで待っているというのだから仕方ない。急ぐとしよう。
◇
その後正門でティゼと合流し、半日かけて学校全体を案内してもらった。
彼女にこうして案内してもらえていなければ、確実に迷子になっていたことだろう。
そうして案内も終わり、ティゼも午後から授業があると言うので職員室前で解散した。
その時、マジパにメールが届いていた。差出人は月影・フォーサー・ヘイムダル。どうやらまた面倒事のようだ。
◇
「早速だけれど、君には拳銃の扱いを学びたいという学生への授業を担当して欲しい」
「早速も早速ですね……」
昨日と何一つ変わらず美しい校長室。そんな完璧な空間に完璧に調和するヘイムダルを目前に、ただ一つこの場を乱す要素である俺は居心地の悪さを感じながら立っていた。
「そう、だから早速と伝えたわけさ。まぁ初めての経験だろうし、今日の午前は他の教職員の授業を見てみるといい」
ニコニコと微笑むヘイムダル。
「いや、他の授業を見に行くったって拳銃の扱いを教えることと他の技能を教えることは全く違うんですよ!?そりゃあ授業の進め方位は分かるかもしれないですけど……」
「何を教えれば良いのか分からないって?」
「……はぁ、まぁそういうことです」
俺は一応この人に師事していたのだが、俺が経験したような過酷な修練をさせる訳にも行かない。師匠に師事した期間も短かったし、そもそもどちらも人外レベルの才能を持つ人間だ。そんな彼らの教えをそのまま伝えたとしてもほとんど伝わらないだろう。
「簡単だよ。君が必要だと思ったことを教えればいい。彼らに足りない物を、君の知識と技能で埋めてあげればいいのさ」
簡単に言ってくれるが、本来見ただけで何が足りないのかなんて分からない物だ。しかも俺は場数を踏んで成長してきたので、ほとんど感覚でやっている。俺の技能をそのまま論理的な思考に落とし込むことは不可能に近い。が……
「分かりましたよ……やりゃいいんでしょやりゃあ!」
この人に期待されると、どうも断りにくい。なぜだか分からないが、どうしても結果を残したくなってしまう。彼に認められたいと思ってしまう。
「全能男め……」
そう不満気につぶやく俺の顔は、きっと笑っていた。
◇
「ってな訳で、授業参観しに来た」
「なるほどねぇー。それで、なしにぃはどうして私の授業を選んだの?」
特に理由があった訳では無いのだが……
「強いて言うなら一番興味があったからかな。ティゼがあれからどう成長したのか、ティゼはちゃんとやれてるのかとかね」
「むぅー、からかってるの?私だってあの時とは違うんだから!ちゃんと先生やれてるよ!ね、皆!」
ティゼが振り向くと、そこには数十人の生徒達がいた。ティゼの担当は体術なので、その中にはバルデや鏡花、レイサの姿もある。
「まぁ、その、うん。たまに病院送りになる人が出る点を除けば……」
「いや、ダメだろ。ちゃんとやれてたら怪我人は出ねぇから」
「アタシはちゃんとやれてると思うけどなぁ」
……聞き捨てならないセリフが聞こえた気がするのだが。
「そ、そんな事もあったかなぁ……ちょ、なしにぃ!?逃げないでよ!私ちゃんとするからぁぁぁ!!!」
ティゼが泣きながら追ってくるのを後目に、脇目も振らず駆けていく。
「逃げて正解だな」
バルデの言葉に、数人の生徒達はうんうんと頷きながら同意した。
◇
「で、俺の所に来たって訳か」
「そういう訳です」
今度はエリオのところへとやって来た。
どうやら彼の担当は変異種の中でも動物の肉体構造を手に入れた者達への教育のようで、つややかな毛並みを持つ獣人の生徒達が集まっており、異世界ファンタジーかとツッコミたくなる。まぁ異世界ファンタジーなのだが。
「俺んとこは病院送りになるヤワな奴は来ねぇからな。槌の嬢ちゃんやお前と違って得物を使わねえってのもあるが」
それもそうか。得物を完全に制御しきることは難しく、実戦訓練など、時には大怪我に繋がることもある。だが、己の力のみでぶつかり合う彼らのような人々が行う実戦訓練は完全に制御された力のぶつかり合いだ。手加減も容易だし、怪我人が少ないのにもうなずける。
「まぁ授業っつっても俺たちがやれることは実戦訓練とトレーニングくらいだ。役に立つかは分からねえが、見てく分には構わねえよ」
と、お許しを貰えたのでじっくり観察させてもらったのだが、やはり先の言葉通り、今日は筋トレしか行わなかった。筋骨隆々な獣人達が腹筋、背筋、腕立てやベンチプレスなどを行う様は壮観だったとだけ記しておこう。
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