第28話「雪線の綾、息の家」

 峠を越えると、風の匂いが変わった。乾いた冷えに、砂糖をひとつまみ落としたみたいな、きらきらした匂いが混じる。雪線(せっせん)が近いのだ。

 白い綾筋はここでは細く痩せ、ところどころ霜の針で縫いとめられている。足裏で拾う二拍――“コツン、コツン”は遠い。代わりに、耳ではなく肌の表で、微かな“擦(す)れ”が走る。

 「凍ての“無音の逆綾”だな」

 アレンが鞘の背で岩を撫でる。

 「半拍早い“置く”が刺さるんじゃない。音そのものが凍りついて、返らない。無(な)しを“無”に引き下げようとする」

 “無”を、空白に堕とす罠。俺たちの“無拍”は“在る”だが、ここでは“在る”が霧散して“無い”に変わりかける。


 「《息の家》を詰める」

 俺は小布を四つ折りにして風上へ斜め、短杭は三本で三角に、銀糸の水は“滴”ではなく“汗”。布の端を雪面から指二本ぶん浮かせ、“霜花(しもばな)”のつく余地を作る。

 「段取りは《無・息・時》。名は骨。……今日は“影印(かげいん)”を足す」

 「影印?」

 エリナが首を傾げる。

 「息が凍って白くなる。白い影の長さで《無》の深さを合わせる。鈴は鳴らさない。“空鈴(からすず)”の揺れと、息の影を合図にする」

 鈴売りが置いていった空鈴を腰へ結わえ、錘の戻りを確かめる。音は出ない。戻りだけが“在る”。


 一歩目。

 吸って――置かない。

 吐息が布の縁で薄く白く伸び、空鈴の錘が振れて戻る。

 半拍遅れて、エリナは喉を落としたまま、舌の根で“ここ”の形――名の骨――を作る。

 コン。

 アレンの“時打ち”は刃でなく“骨”で鳴る。ルーナは冷の薄刃を“撫で”にだけ使い、縁の乱れを整える。マリナは背に触れず、空気の脈を読むみたいに“息の輪郭”だけを示す。カイルは光を切らず、細い正時を空へ置く。

 半歩。

 ――返ってこない。

 無音の逆綾が、返事の“気配”すら凍らせて封じる。空白になりかける《無》。

 「“無”を厚く」

 喉をさらに落とし、腹の底で抱く。空白にしない。影が一寸、長くなる。

 「骨」

 エリナの口内で“ここ”がもう一段、はっきりする。

 コン。

 足裏で拾うものがなにもないのに、足は乱れない。影が拍を見せるからだ。


 二歩目、三歩目――。

 雪に刺さる霜針の帯が、綾筋の上に留め金みたいに点在している。そこを踏むと、ほんの小さな“ピシ”という氷鳴(こおりな)りが起き、偽の正時を耳に作る。

 「切らない。――置く正時だけだ」

 アレンが短く言い、カイルは光を低く、空鈴の戻りに揃えて天へ置く。

 “ピシ”という耳の誘惑は、空鈴の無音の戻りに食われて消えた。

 「無・息・時。半歩」

 エリナの肩が少し楽になる。喉は落ちたまま、骨で名を置き、息の影で“間”を測る。無音の逆綾は“無い”へ連れ去ろうとするが、影は奪えない。


 雪線を渡り、尾根の陰で風を避けて小休止した。

薄い陽が布に透け、霜花が四弁の星で整列する。

 「手引きに“雪線章”を足そう」

 俺は膝上の紙へ、簡潔に書き連ねた。

 > 『遠征仕様・雪線章』

 > ・鈴は鳴らさず、“空鈴”の戻りを見る。

 > ・《無・息・時》。名は骨(舌根で“ここ”の形)。

 > ・息の影で《無》の深さを合わせる。影が短いときは無を深く。

 > ・布は四つ折り、端は雪面から指二本。霜花に“在る”を見せよ。

 > ・氷鳴りは偽の正時。切らず、置け。

 > ・湯気は少し。家の匂いは強くしない(井や裂け目を起こす)。

 アレンが追記する。

 > ・刃は鳴らさない。鞘で“骨”を打て。

 ルーナが細字で添える。

 > ・冷は“固め”より“撫で”。縁の乱れだけ整える。

 マリナは一行。

 > ・声が剥がれたら、息だけで祈れ。

 カイルは正時の印を細く描き、点を三つ並べた。


 午後、古い鉱夫道の切り通しに、丸い穴が口を開けていた。縁は厚い霜で縫われ、奥は青い。

 「“氷の井戸”だ」

 縁に古い刻み。掘り子の文字に、凍てで摩耗した輪時代の祈りが重なっている。

 > “冬は声が砕ける。

 >  名は骨で置け。

 >  氷は歌わず、息で光る。

 >  湯気は少し。裂け目は寝かせよ。”

 > “名が凍る日は、帰り道で拾え。

 >  息は、家だ。”

 俺たちは井戸へ“切らず、置く正時”で挨拶し、布の端を指一本ぶんだけ下げて霜花の列を観察した。

 「歌わない井戸だ」

 影が拍の代わりを務め、奥の青は静かに呼吸をしている。

 「井戸を起こさない。――記録だけ」

 位置、霜花の向き、氷鳴りの強さ、風の筋。手引きに“井戸に触れぬ規(のり)”を追補して紙を畳む。


 その先で、地の底の“硬い二拍”がふた拍、近くで落ちた。

 ――コツン、コツン。

 続けて、雪面の下、非常に浅い層が“吸う”。徒輪(かちわ)の薄皮が、綾筋の上に張り付いていた。

 「《柱歌》――息だけで組む」

 アレンが合図し、俺は三角の短杭の中心に膝を落とし、掌を雪面へ。布は四つ折り、空鈴は腰で揺れ、影印は足元に。

 「無」

 喉を落とす。影が一寸、伸びる。

 「骨」

 エリナの“ここ”が舌根で形を取り、影がわずかに濃くなる。

 「時」

 コン――ではなく、鞘の“触れ”だけを足裏へ置く。切らない正時。

 ルーナの冷が縁を撫で、マリナの息が背中の輪郭を柔らげ、カイルの光が低い空に細く置かれる。

 半歩。

 徒輪の“吸い”がひと呼吸だけ止まり、硬い二拍は地の下へ引いた。


 「もう半周」

 無・息・時。影印を見て、空鈴の戻りを見て、半歩ずつ。

 途中、凍霧(とうむ)が流れ込んで、影が短くなる。

 「無を深く」

 喉を落とし、腹で抱く。影が戻る。

 氷鳴りが偽の正時を耳に押しつける。

 「置け」

 耳に従わず、空鈴の戻りに正時を置く。

 八つの節を撫で落とし、徒輪の薄皮はただの霜へ戻った。


 夕刻、雪線の端で風がいったん止み、遠い空が蜂蜜色に薄く見えた。

 「今夜はここ」

 アレンが布を低めに張り、短杭を浅くかませる。

 火は小さく、湯気は薄く。家の匂いは“少しだけ”。

 スープをすすりながら、俺は“雪線章”の末尾にもう一行、追記した。

 > ・“名剥ぎ風”では、名は無理に取り戻さない。息で立ち、帰り道で拾え。

 > ・霜花と空鈴を“見える拍”に。耳の拍は欺かれる。

 エリナは唇に少し声を戻し、細い音で名を置いた。

 「ここ」

 声は短く、骨と同じ輪郭で落ち、布の縁の霜花が一つ、ふっとほどけた。

 マリナが微笑む。

「祈りは短く、息で長く」


 夜。

 星は近く、冷は浅い刃で頬を撫でる。

 ふかい地の底で、また二拍。

 ――コツン、コツン。

 遠く、さらに東。呼ぶ拍。急かさない合図。

 俺は小布の上に掌を置き、無拍をひとつ落とした。

 置かない一拍に、雪面の下の石がやさしく頷く。

 “輪”は眠り、“綾”は歌い、雪線では息が見える。

 名は、帰り道で拾えばいい。

 今は――在る。


 明け方、空の青が薄く緩み、圧計の針は浅い眠りのまま安定していた。

 俺たちは布を畳み、空鈴の紐を固く結び直し、手引きの束を革袋にしまう。

 「手引きは“遠征仕様”が一応の完成だ」

 アレンが頷き、ルーナは雪面に軽く氷の線を描いた。

 「戻りながら各所へ置いていこう。綾橋にも、谷の旅籠にも」

 カイルが光の正時を空から外し、マリナは喉に指先を軽く置く。

 「息を守れ」

 エリナが短く笑い、名を置く。

 「ここにいます。今日も、生きます」

 その言葉は雪の上に薄く座り、風に剥がれず、霜花は一つだけ、静かにほどけた。


 帰路の前に、東の肩をもう一片だけ確かめる。

 尾根の陰で、古い刻みが見つかった。

 > “綾の道は、冬に見える。

 >  輪の眠りは、家の湯気で起きる。

 >  湯気は少し。

>  名は骨。

 >  帰り道で拾え。”

 俺は紙片に写し取り、手引きの末尾に貼った。

 “雪線章”は、これで本当に完結だ。


 肩を返すとき、遠い深層で二拍がまた落ちた。

 ――コツン、コツン。

 雪線の向こう、まだ見ぬ綾の細道。

 「焦らない。手引きを配って、家を広げて、戻ってくる」

 「はい」

 エリナは唄杭を胸で温め、俺は喉の奥で小さく笑った。眠る子へ頷く“わだち”。

 布と杭、息と名。

 家は――どこへでも持って行ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る