第27話「柱歌の道、塔なき峠」

 綾橋の掲示に“遠くでも、家は小さく作れる”の一行を添え、俺たちは夜明けの薄い冷気を吸い込んで歩き出した。

 鈴売りの男は“空鈴(からすず)”の揺れを確かめ、囃子連の頭は太鼓の面を指で撫でて“間”を約束した。橋背の細脈がふっと明滅し、子どもらは“歩き合印”の遊びをしながら手を振った。

 「行ってらっしゃい。――息を止めないで」

 女将の声に、エリナは笑って小さく頷いた。


 北東の肩は、風の噛み方が違った。谷から登る風、稜線を越えてくる風、岩肌で生まれた風――三つの風が、縫い合わせを忘れた布みたいに重なっては剥がれ、白い綾筋は細く伸びたり縮んだりをくり返す。

 腹の底では、あの“硬い二拍”が近づいたり離れたりした。

 ――コツン、コツン。

 輪“ねわ”の眠りではない。綾の歌でもない。乾いた石と冷たい水の境(さかい)で跳ねる、焦らない合図。だが、峠に近づくほど、二拍の縁にざらついた“擦れ”が混じりはじめる。


 峠の手前、黒い玄武の斑が白い綾筋を食い破り、周囲の岩は風で磨かれて刃の縁みたいに鋭かった。

 「塔は立たない。――《柱歌(はしらうた)》で行く」

 アレンが鞘を肩に、短く段取りを置く。

 「根(ね)はリオ。祈りはエリナ。刃は俺の“時打ち”。冷はルーナ。息はマリナ。正時の“光”はカイル。六人で一本。半歩ずつ回り込みながら、針目を撫で落とす」

 「了解」

 それぞれの返事は短いが、胸で纏(まと)った温度は揃っている。


 最初の一歩目、風が“名”を剥いだ。

 エリナの喉が、わずかに開いたまま音にならず、唇が“ここ”のかたちを作るのに、声が外に出ない。

 「“名剥ぎ風(なはぎかぜ)”だ」

 ルーナが眉を寄せる。風の刃が、声の皮膜だけを撫でとっていく。叫んでも届かない。届くのは息の重みだけ。

 「名を脱いで立つ。――《息の家》だ」

 俺は携帯の座(ざ)を遠征仕様に組む。小布は四つ折り、短杭は三本で三角、銀糸の水は“汗”。

 「手順を替える。無・息・時。名は“骨”で置く」

 「骨?」

 エリナが目で問う。

 「舌の付け根で“ここ”の形を作る。喉は落として、声にしない。骨伝いの“在る”だけ渡す」

 マリナが短く祈る――祈りの言葉も剥がれるから、息だけで。彼女の指先が俺とエリナの背を撫で、肺の輪郭を描く。


 「吸って――」

 無拍。置かない。

 風が布を抜け、銀糸の汗がしずかに染みる。

 半拍遅れて、エリナは喉を落としたまま口中で“ここ”の形を作る――名の“骨”。

 コン。

 アレンの“時打ち”が足裏の針を止め、ルーナの冷が白い縁を撫でて暴れを固定し、カイルは光を“切らず”正時の位置に置く。

 半歩。

 針目は刺してくる。半拍早い“置く”が胸の骨へ滑り込もうとする。

 「無を深く」

 喉を落とし、空白ではない“在る”を抱く。

 骨で置いた名が、布の層でほどけずに足元へ降りる。

 ――コツン、コツン。

 硬い二拍は峠の向こうで落ちるだけ。こちらの歩みを乱さない。


 三歩目――“名剥ぎ風”が強まった。

 俺の頬の皮膚が冷えて、歯の根に痺れが走る。エリナの肩がわずかに震え、骨で置いた名が“欠け”へ引き込まれかける。

 「“名拾い”を足す」

 俺は左の指先で自分の鎖骨を二度軽く叩き、胸骨の裏で“ここ”を形にする。骨へ、骨へ。

 マリナが背から肺の入口へ小さな圧を置き、息の道を広げる。

 コン。

 アレンの一打。

 「半歩」

 カイルの光は地表に触れず、正時の“しるし”として空に浮かぶ。そこへ向けて、歩幅の半分を置く。


 峠の縁で、玄武の斑が“吸う”気配を見せた。

 ――コツン、コツン。

 徒輪(かちわ)が古い悪癖を思い出しかける。

 「“ねわ”の残響、借りる」

 俺は喉の奥で、声にならない微かな笑い――眠る子に頷く時の喉の“わだち”を作った。

 名は言わない。名は剥がれる。だが、眠りの“やわらぎ”は風でも剥がせない。

 無・息・時。

 ルーナの冷が薄刃になって縁を撫で、綾の白筋は刀ではなく櫛(くし)で梳(す)かれたみたいに整う。

 徒輪の“吸い”がふっと止まり、硬い二拍は峠の向こうへ身を引いた。


 「半周――続ける」

 縫い目は一箇所ではない。玄武と綾の節が八つ、峠の背骨に沿って並ぶ。

 四つ目の節で、突風が“名の骨”すら剥がそうとした。

 エリナの指が俺の袖へ触れ……ない。彼女は自分の鎖骨を二度叩き、喉を落として“在る”を抱いた。

 彼女は声で祈らず、息の家で立った。

 コン。

 アレンの一打。

 俺は掌を岩へ押し当て、銀糸の汗を薄く伸ばし、半歩を置く。

 「いい」

 アレンの目が笑い、ルーナが肩をすくめる。

 「声はいらない。――在ればいい」


 五つ目の節に、刻みがあった。掘り子の手でも、輪時代の祈り手のものでもない。風に削られた線に、短く深い言葉が残る。

 > “名が風に剥がれる時は、息を家にせよ。

 >  家は名を脱いで立て。

 >  名は帰り道で拾えばよい。”

 エリナが目で読み、ゆっくり頷いた。

 「帰り道で拾えばいい」

 「今は、息で立つ」


 七つ目の節。

 硬い二拍が一度だけ、すぐ傍で落ちた。

 ――コツン、コツン。

 徒輪の円が、ぬめりを帯びて息を吸う。

 「時を置く」

 カイルが光で正時の線を細く引き、アレンが一打で地を“釘”のように止める。

 俺は無拍を深く抱き、喉の笑いで“ねわ”の眠りを思い出させ、ルーナは薄刃で縁を撫でる。

 マリナの息が背にふっと落ち、呼吸が広がる。

 半歩。

 針目は折れた。二拍は峠の向こうへ下がり、ただの地の響きになった。


 最後の節を越えた時、風は急に体温を返してきた。剥がれていた皮膜が戻る感じがして、エリナの唇に小さな音が載った。

 「……こ」

 彼女は照れて、笑った。

 「帰り道で拾えた」

 「そうだ。拾えばいい」


 峠を少し下った窪みに風の影が薄く溜まり、野営に丁度よい窪地があった。布を斜めに張り、小布は枕元へ、短杭は三角のまま嵩(かさ)を減らして置く。

 湯をわずかに立て、家の匂いを強くしすぎないようにスープを温め、俺たちは順に“在る”を確かめた。

 マリナは喉に指先を当て、ようやく祈りの形を取り戻した。言葉は短い。

 「息を守れ」

 ルーナは氷を割り、薄い欠片を口へ――風で乾いた舌をひととき潤す。

 アレンは鞘で地をコン、と軽く一打してから寝具へもぐり、カイルは光の正時を空に溶かす。

 エリナは布の縁を撫で、声ではなく骨で“ここ”を置いた。

 「――ここ」

 音にならない。けれど、確かだ。


 夜。

 星は濃く、峠の背骨は風の上に静かに浮かぶ。

 ふかい地の底で、二拍。

 ――コツン、コツン。

 遠く、さらに東か。急かさない呼びかけ。

 俺は掌を小布の上に置き、無拍をひとつ落とした。

 置かない一拍に、石がやさしく頷く。

 “輪”は眠り、“綾”は歌い、峠では息が柱になる。

 名は、帰り道で拾えばいい。

 今は――在る。


 明け方、風はわずかに甘く、圧計の針は安定した浅い眠りを描いていた。

 エリナは声を取り戻し、祈りを短く置いた。

 「ここにいます。今日も、生きます」

 その言葉が、いつもより少しだけ重く、少しだけ遠くへ届いた気がした。

 俺は紙の端に追補を書き、手引きの“遠征仕様”の章へ貼る。

 > 『息の家』

 > ・“名剥ぎ風”のときは、名を骨で置く(舌の根で“ここ”の形、声にしない)。

 > ・段取りは《無・息・時》。祈りは息だけ。

 > ・帰り道で名を拾えばよい。焦らない。

 > ・《柱歌》に立つ六人――無を抱く者/骨で名を置く者/時を打つ者/冷を撫でる者/息を守る者/正時を示す者。切らず、置け。


 峠の先、空は乾いて透き通り、白い筋は蜂蜜色に淡く光った。

 「もう一つ、向こうに縫い目がある」

 アレンが鞘の背で空を示す。

 「今日も、息で立とう」

 「はい」

 エリナは胸で唄杭を温め、俺は掌を布に乗せ、喉の奥で小さく笑った。眠る子に頷く時と同じ“わだち”。

 ――家は、どこへでも持って行ける。

 布と杭、息と名。必要なら、名は脱いで、息だけで。

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