第七話 孤独

 手からこぼれた命の数が、自分の弱さの証明だった。


 数を数えるのはやめた。両手じゃ足りなくなったあたりで、嫌というほど思い知ったから。


 だから私は、命に順番をつけるようになった。身内か他人か。仲間かそれ以外か。誰を守り、誰を見送るのか。


 本当はこんなことしたくない。できることなら大切なものすべてを守りたい。


 けれど全部を救うなんて、私にはできなかった。一つでも多くを守るためには、選ぶしかなかった。


 それなのに。私の中で、なによりも優先すると決めたはずの命が……。


 嘘じゃない。

 今、目の前で起きたことは紛れもない現実だ。


 朝霞野ツカサが——死んだ。


 作戦では異生物が持ち上げたコンテナの一番近くにいた人が、コンテナを死角にして切りかかる手筈だった。そしてそのコンテナは、私とツカサのちょうど中間の位置にあった。それなのにツカサは、当たり前のように自分から飛び込んでいった。


 次の瞬間、異生物の触手が鞭のようにしなり、音もなく彼の身体をはじき飛ばした。完璧なカウンター攻撃。あの異生物は自分がどう攻撃されるのかを理解していた。


 弧を描いて宙を飛んだツカサは、地面に叩きつけられると、そのままゴムボールのように数回跳ね、さらに背後のコンテナに激突。

 あのとき耳にした骨と金属がぶつかる音が、こびりついて離れない。


「どうして……こうなるのよ……」


 受け止めきれない現実に、心が自分を守ろうと鈍くなる。私はそれを拒絶するように頭を降った。


 負けてたまるか。

 まだ戦える。

 まだ彼を助けられるはず。


「もうダメだ。彼は助からないよ」


 自己複製スティムを取り出した私の肩を、生き残った職員が掴んだ。


「やってみなきゃわからないでしょ!?」


「わかる。死んだのは彼だけじゃない。あいつらだって死んだ。他の職員もみんなだ。私たちは賭けに負けたんだよ」


 思わず声を荒げた私をなだめるように、男性職員は作戦の犠牲となった職員の亡骸を見つめていた。大きな血溜まりができている。胸を触手で突かれ、恐らく一瞬で絶命したのだろう。


「任務は失敗。今から2人で突撃したところで無駄死にだ」


「で、でも……でも……」


 彼が言っていることは正論だった。だからこそ腹が立つ。この覆すことができない現実と、自分の弱さに。


 震える口からは、これ以上の言葉が出てこなかった。


「……せめて遺体だけは回収するわ」


「無茶だ見ろ。近づくことすらできない」


 すでに息絶えたはずのツカサにとどめを刺すつもりなのだろうか。 黒い異生物は緩慢な動きで彼に近づき、一振りの触手で、傍らのコンテナをゆっくりと持ち上げた。


 ハッとした私は息を呑み、咄嗟に駆け出そうと一歩踏み込んだ。それなのに、身体はなぜかそこから動こうとしない。


“経験”が私を止めていた。この距離では、どうやっても間に合わない。今飛び込んでいけば目の前でツカサの身体が圧縮される、その瞬間を直視することになる。


 そしてその光景は、私の精神の耐久域を、確実に、そして簡単に超えてしまうだろう。


 だから脳が私を守るように命令を拒んだ。 「動け」と叫ぶ心に身体は一歩も応じず、ただその光景を遠くから目に焼きつけることしかできなかった。


 コンテナが振り下ろされた瞬間、鈍い衝撃音とともに土埃が巻き上がり、すべてが終わったことを否応なく理解させられた。


 全身から力が抜けていく。

 頭の先からつま先まで、何かがすーっと抜け落ちるような感覚。

 次の瞬間、足が支えを失い、私は膝から崩れ落ちた。


 もう終わりだ。


 こんなことになるなら、もっと早く——


「……おい……何かおかしいぞ」


 職員の言葉に私はぐったりと目線をあげた。異生物は触手を狂ったように振り下ろし、ツカサがいたあたりをコンテナごと打ち据えている。


「斬れてる……!?」


 目を凝らして気が付いた。異生物の触手が目減りしている。巨大な粉砕機に放り込まれた木材のように、異生物がその触手を打ち込むたび先端が切り落とされ宙に舞った。


(一体何が起きているの?)


 異生物は細い触手を何本も束ね一本の太い触手を形成する。そしてそれを、真上からトドメだと言わんばかりに力強く打ちつけた。

 しかし、その触手も斬り刻まれる。異常事態への防衛本能か、距離を取るように異生物は後ろに跳躍した。


 触手が打ちつけられて舞った土煙の中、そこから出てきた人影を見て、私は自分の目を疑った。


 そんなはずはない。彼は確かに死んだはずだ。生きているはずがない。


 だがその人影は確かに、有機再生ブレードを携えていた。

 腕からぶら下がるその刃は、まるで呼吸するように脈動しながら、伸び、崩れ、また瞬く間に鋭利な形を取り戻す。まるで皮膚の下で異物が育ち、表面を突き破って何度も生まれ変わっているような、不自然で不快な急成長。それは時間の流れを無視した早送り映像のようで、人間の感覚から明らかに逸脱していた。


 背中に張りついた飛装は、黒い管の束を彼の全身へと這わせていた。管は皮膚に根を張り、まるで寄生する植物のように彼の肉体へと侵食を続けている。しかし苦悶の気配はない。むしろそれは当然であるかのように、彼の動きに完全に同調していた。


 人影は一歩、また一歩と異生物へ歩を進め——かすかな砂埃を残してふっと消えた。


 目で追う暇もなく、異生物の触手が次々と切り裂かれていく。まるで戦闘そのものが彼の本能であるかのように、迷いなく、淀みなく。


 そして、トドメの一閃が異生物の胸を貫き、捕らえられていた少年の体が、切断された拘束とともに地面へと転がり落ちた。


「なんだかよくわからないが今が好機だ! 助けに行くぞ!!」


「え、ええ……」


 人影と異生物は、少年の存在など初めから眼中にないかのようだった。 両者はただ目の前の敵だけを見つめ、無言のまま激突を繰り返す。私たちの存在すらも初めから無かったかのように、一切の視線も気配も、こちらへは向けられなかった。


 私たちは地面スレスレを滑空し、なんとか少年を救出することに成功した。そして掻い潜った戦場を振り返ったとき、異生物はその膝を地面についていた。


 巨体が揺れ、地面がわずかに震える。──崩れ落ちる、そう思った。


 しかし人影が刃を振り上げたその刹那。異生物は身体をぎゅっと丸め、球体へと変化する。球体を構成する管はドクドクと心臓のように脈打っていた。


「クソッ! あいつ自爆するつもりだ伏せろ!!」


 私たちはコンテナの陰に隠れるようにして伏せた。


 筋肉の塊のような外殻が波打ち、空気を歪ませるほどの圧を溜めたかと思うと——爆発した。キーンと耳鳴りが起きるほどの爆発音。爆散する無数の触手が、四方八方へ向かって音を裂くように放たれ、周囲にあった金属のコンテナが激突の衝撃で歪む。


 あまりの速度に対峙していた人影も反応が遅れ、凄まじい衝撃に巻き込まれた身体が吹き飛んだ。


「この子を連れて逃げてください!」


「き、君はどうするんだ———あ、おい!」


 私は子供を職員に預けると、飛ばされた人影に向かって地面を滑空した。人影は気を失ったのか、侵食していた毛細血管のような管が全身からほどけていく。


 あれほど執拗に刃を生み出していたブレードも、今はぴくりとも動かない。


「ツカサ……」


 気がついたときにはもう、抱きしめていた。力いっぱい、胸が潰れそうなほど。

 彼の体温が、私の冷えきった肌にじわじわ染みてくる。

 ぬくもりが返ってきて、ちゃんとそこにいてくれている。


 よかった……生きてた。ほんとに、まだ。ダメだこんなの、ずるい。


 張りつめてた気持ちが、音を立てて崩れた。


「……もう、離さない。絶対に……離してやらないから」 


 止めたくても止まらない。

 涙も、声も、想いも、どれもこれもが溢れたまま零れていった。




 □




 ちょっとどういう状況か理解できない。


 気づいたら病室にいてすごく身体がだるかった。全身に力が入らなくて、上半身を起こすのがやっとってかんじ。

 それで太もものあたりがやけに重たかった。なんだろうと思って目を向けると、そこには黒紀ミレイがぼくの身体を枕代わりにして寝ている姿が……。


 やっぱり理解できない。


 さらに理解できないのは彼女がぼくの手を握っていたこと。あまりに奇妙だから、ぼくは彼女に気付かれないようにスッと手を抜いた。寝ているうちに勝手に彼女の手を握ってしまっていたのかもしれない。失礼致しました。


 そしてぼくは、ミレイの肩をポンと叩いた。


 一回では起きなかったので二回ポンポン。二回目は強めに。


「ん……」


「どうも」


「ん!?」


 起き上がったミレイはぼくの顔を見るなり、大きな瞳をぱっと見開いた。でもそのあとすぐにいつもの仏頂面に戻る。彼女は髪の毛をわしゃわしゃと軽く流すと、ジャンプに失敗した猫のように椅子に座りなおした。


「それで、これはいったいどういう状況なわけ?」


 ぼくはミレイから説明を聞いた。


 端的に言うと、鞭で弾かれたぼくが出しちゃいけない音を出して死んで、その後復活。あの化け物を退けて、子供も救出完了って……。


「やっぱり理解できないな」


「ほんとのことなんだからしょうがないでしょ」


 自分ってこんな人間だったのか、って思う瞬間があると思う。自分でも知らなかったような自分の一面がわかっちゃう瞬間。今がまさにそれなんじゃないだろうか。

 大抵そういう一面って知らなくてもよかったってことが多いよね。ぼくもこんな自分知りたくなかった。


「あの怪物は最後どうなったの?」


 自分のこともそうだけど、あの黒くて巨大な人型異生物はいったい何だったんだ。ドローンも撃ち落とすし、ぼくらの飛行戦術についても理解があるようだった。


「結局正体は分からず仕舞いよ。あなたを吹き飛ばした後に、振り返ったらもういなかったわ。ドローン数機で追跡したけど、どれも途中で撃墜されたみたい」


 ミレイはバッグの中からPCを取り出して、戦闘シーンを見せてくれた。撃墜されたドローンのカメラだけは辛うじて生きていたらしく、画角と画質と内容が最悪なバイオレンス映像が映し出されている。


(うわぁ……これ絶対曲がっちゃいけない方向に曲がってるよ……)


 自分の該当部位をさすってみるが、特に異常は見られない。傷はすべて嘘みたいに治っているみたいだ。


 ミレイが剥いてくれたリンゴをかじりながら、ぼくは質問する。


「気になってたんだけど、どこなのここは? 窓ないし……病院って感じでもないような」


 生活感のない白い部屋には窓がなかった。医療設備は整っているし、部屋の外には人が忙しなく動いている気配もある。病院というより実験室が連想できるような部屋だ。


「組織の管理する病院よ。組織のダミー会社の工場敷地内にあるの。だから普通の病院とは違うわけ」


 リンゴをかじりながらぼくは妙に納得していた。

 異生物絡みの事件に巻き込まれ、どう見ても普通じゃない傷を負った民間人を運んできては、ここで治療とかしているのだろう。


 しばらくすると、部屋の扉がコンコンと二回ノックされた。ぼくは訝し気に扉を見る。


 あれ、ぼくのことをお見舞いに来てくれる人なんていたっけ? 

 いや待てよ。そうか、もしかしたら栗崎先輩が……!


 扉が開くと、ぼくの期待は斜め上の方向に裏切られた。


 そこに立っていたのは、見慣れた中性的な顔をした青年だった。


「む、ムツキ……」


「久しぶり。ツカサ」


 病室に入ってきた彼を見た瞬間、言葉が喉に詰まった。


 嬉しい。でも、そんな何事もなかったような顔をされると何だか悔しい。


 そんな感情がごちゃごちゃに胸の中で渦巻いて、部屋にはただ、重たい沈黙だけが流れている。


「あーわたしはおじゃまみたいねー」


 黒紀ミレイは、抑揚のない声でそう言うと、ぼくが途中まで食べていたリンゴをお皿ごとひょいと手に取り、そのまま部屋を出ていった。


「あ、あのムツキ。ぼくは……」


 言え。言うんだ。


「ツカサ。ボクは別に——」


「ごめんなさい。ぼくは君にずっと嘘をついてた」


 頭を下げた。ムツキが今どんな表情をしているのかはわからない。


 一瞬の沈黙がやけに長くて、息苦しい。


「まあ、確かに。ボクのことを虚言癖とか言って馬鹿にしてた君のほうが嘘つきだったとは……流石にショックだったけど」


「それは本当に、ごめん」


 今までついてきた嘘もそうだけど、一番許せなかったのは、ムツキの好意をぼくが受け流していたという事実だ。


「傷つけるつもりがなかったとは言わない。最初から君に関わらなければよかっただけの話なんだ。でも、中途半端に関わって、引くに引けなくなって嘘をつき続けたのは……ぼくが弱かったからで……」


 ぼくの真面目なセリフを聞いたムツキは、頭を掻いた。


 そして何もない天井をしばらく眺めると、プッと噴き出す。


「な、なんで笑うんだよ……」


 こっちはこんなに本気で気持ちを伝えているのに。


「いやだってさ、ツカサがこんな真面目なトーンで話すなんて、ちょっと信じられなくて。ぷっ……君って、いつもどこか心ここにあらずで、ひょうひょうとしてるっていうか……そんな奴だったじゃないか」


 そんな奴だったのかぼくは。

 なんか物事を常に俯瞰してるキャラみたいでちょっと恥ずかしいんだけど。


「それは……そうかもしれないけど。ぼくは本気で君に謝りたくて……」


「そもそも、どうしてツカサがボクに謝らなきゃいけないんだよ。君は自分の仕事をしてただけだろ? ボクの母さんの命だって君に助けてもらったし」


「でもぼくは君の好意をないがしろにしたんだよ? 君はぼくのこと友達だと思ってたかもしれないけど、ぼくはそんなこと思ってなくて」


「わかってた。君がボクとお友達ごっこしてたって」


「……」


「でもそれでよかったんだ。話し相手ができて、友達を家に呼ぶことだってできた。母さんが作りすぎた夕飯を我慢して食べきることもなくなった」


 わからない。じゃあ、全部わかってて付き合ってたって言うのか。


「それに、君は途中からほんとの友達だったよ。体育倉庫でボクが倒れてたとき、ボクのために怒ってくれた。マルくんたちに相変わらずの切れ味で言葉を飛ばしてくれたじゃないか」


 気絶してると思ってたけど、あのときムツキは起きてたのか。


「でも、ムツキの父親の死因については……ぼくはそれを知ってて君を否定した。それは紛れもない事実であって……」


「あれは……組織の人からその話も聞いたけど、ツカサが悪いわけじゃない。いきなり深刻な話を切り出したボクがいけなかったんだ。ボクがツカサの立場でも、同じことをしたと思う。それに死因がなんであれ、ボクの父さんが戻ってこないことには変わりないし……あー、なんか話がこんがらがってきたけど……結局ボクが言いたいのは……えーっと……友達同士だからって、嘘がないのはあり得ないってこと。そのほうが不自然だし、気持ち悪いよ。だからもう、ツカサが謝る必要はない。最初からそんな必要ないんだけどね」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に絡まっていたものが、すっとほどけていくのがわかった。責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただそう言ってくれたその声に、心の鎖がゆっくりと溶けていく。


 そうか。許してほしかったんじゃない。ぼくはムツキに友達として認めてほしかったんだ。


 そう思った途端、肩の力が抜けて、呼吸まで少し楽になった気がした。


「じゃ、じゃあ。これからもぼくらは友達ってこと?」


「もちろん」


 ムツキが差し出した手をぼくは握り返した。


「これからもよろしく。虚言癖」


 ムツキはニヤリと笑う。


 おいおい、いきなり切れ味鋭いじゃないか。


「ほんとに悪かったから、そのあだ名はやめてくれ」


 その後、ぼくはムツキがどうしてここにいるのかを聞いた。どうやら彼の記憶処理は結局間に合わなかったようで、情報局は示談交渉に持ち込んできたらしい。多額の金額を振り込む代わりに今回のことは他言無用。契約書まで持ってきて、随分と段取りがいい脅迫だったそうだ。

 でもムツキは、あの柏木ミナコ率いる都市伝説研究部のメンバーだ。お金を振り込むから異生物との接触をなかったことにしてくれなんて、そんな条件を飲むほど一般人はしていない。

 ムツキは組織の人間に自分が異生物の声が聞こえることを力説し、自分をぼくと同じ訓練生として雇ってくれないかとその場で志願した。そして組織は、それを了承した。手間を省ける上に、眉唾ながらも異生物の声が聞こえるという能力を持つ少年を戦力として迎えられるのなら、組織として反対する理由はなかったのだろう。


「まあ、母さんを説得するのは骨が折れたけどね。そっちの方をどうにかしてほしかったよ」


「じゃあ、ムツキは訓練生になったってこと?」


「いや、まだ正式な通知は来てないけど」


 ぼくは初期の入学試験を思い出して、頬が引き攣った。


「え、どうしたのツカサ?」


「今から身体を鍛えておいたほうがいい。じゃなきゃあの地獄を生き残れないから」


 ムツキの顔が硬直した。どうやら組織から試験があることは聞かされていなかったらしい。その成績によって、どの局に配属されるかが決まることも、この様子じゃまだ知らないみたいだ。

 でも、そこまではまだ伝えなくてもいいだろう。


「ツカサ。絶対君たちに追いつくから」


「うん。待ってるよムツキ」




 そこからは、他愛もない話で盛り上がった。ぼくに友達が少ないのは秘密を守るためだったんだと冗談めかせば、ムツキは「ただのコミュ障を組織のせいにするな」と即座に言い返す。オカルト研究部の部員4人中3人が組織所属だってバレたら、さすがに部長に殺されるな、なんて割と本気でヒヤッとする冗談まで飛び出して、笑い声がしばらく止まらなかった。


「そういえば、ここの病室に来るまでに、ひとつ気になったことがあったんだ」


 帰り支度を済ませたムツキは、急に思い出したかのように口を開いた。


「なにが?」


「ツカサの名字は朝霞野だろ? 珍しいから他に見たことなかったんだけど、病室の札に同じ漢字で書いてあったんだよ。もしかしたら、君の親戚かもね」


 それを伝え終わったムツキは、母親の看病があるからと病室を後にした。ムツキが出ていくと、入れ替わるようにしてミレイが入室してくる。


「お友達とは仲直りできたの……ってちょっと! どこ行くつもり?」


 ヨタヨタとした足取りで出て行こうとするぼくの肩をミレイは掴んだ。


「ちょっとトイレに、漏れそうなんだよ」


「駄目。ここでしなさい」


 何だその冗談は。と思ったけど、ミレイの顔はマジだった。


「君にそっちの趣味があるとは思ってもみなかったよ。冗談はさておきほんとにどいてくれ」


「本当にトイレ行くだけよね?」


「……そうだよ」


 どうして彼女がぼくの行動にここまで固執するのかはわからなかった。ムツキが言っていた部屋まで向かおうとすると「そっちじゃない」と言って執拗に軌道修正してくるし。病室に戻ろうとすれば「トイレはどうしたのよ」と詰めてくる。


 泣く泣くぼくは行きたくもないトイレの個室に逃げ込んだ。出したくもないのにここまで見られているような気がしてズボンを下ろし、ひんやりした便器に腰を下ろす。


 そして、まだぼんやりした頭で、脳内の映画アーカイブを必死に漁った。


 何かヒントになる場面はなかったか。逆境、窮地、形勢逆転——。

 不可能を可能にする映画の主人公ならこんな時どうする?

 おそらく彼女はトイレの前でぼくを待っている。出てくるまでいつまでも腕を組んで待っているつもりだろう。そして、ぼくが向かうべき病室はこの階から2階上がった場所にある。


 最短ルート、換気ダクト、診察室でイチャイチャしてる先生と看護士。


 数多頭の中に鍵となりそうなワードが湧いてようやく……。


「いや、彼女を巻くのは無理だ」


 との結論に至ってしまった。君たちだって、あの鬼気迫るような目で睨まれてみればわかる。美しさと恐怖に戦慄した身体が、石になってしまうに違いない。


 仕方なく今日の夜にでも病室を抜け出そうと思って手を洗っていると。


「出口、そっちにもあるんだ」


 出口が二つあるタイプのトイレだった。


 彼女が透視能力を会得していないことを祈りつつ、ぼくは反対側の出口からスタスタと早歩きで病室へと向かった。


 階を登るたびに、心臓が早鐘のように鳴る。息が切れているせいじゃない。この先に自分がずっと求めていた何かが待っているはず。そんな予感が、足元の景色さえ滲ませていく。


 視界の端が曇る。平衡感覚が頼りない。すれ違う人々の顔も、白衣も、ただの色と影に溶けていく。


 このときだけは、病院という名の現実が、見知らぬ異界の皮をかぶっていた。


「朝霞野だ……」


 呟く。


 ムツキが言った通り、病室の札には確かにぼくと同じ苗字が一言一句違わずに書いてあった。


 扉の取っ手を掴んで、一瞬迷った。カメラがどんどん後ろに飛んで、意識が身体から離れていくような感覚。

 もしこの扉を開けたらどうなる。ぼくはなにと直面するのだろう。それは扉を開けるまで確定しない。それなのに、ネガティブな未来ばかりが頭の隅をよぎった。


「待って!!」


 廊下の向こう側から聞こえてきた誰かの声も無視して、ぼくは扉を開いた。


 病室の中には一つ、ベッドが置いてあった。


 その上には女性が穏やかな顔で眠っている。


 顔を見てすぐに、その人がぼくにとって何者なのかを理解した。鏡で見る自分とそっくりの面影が、そこにはあった。


「お母さん……」


 確証はない。記憶がないから。この奇跡的な再会を前にしても、彼女と一緒に何かをしている記憶が湧き上がってくることはなかった。


 そもそも彼女をどう呼んでいいかすらもわからない。


 でも、それでも確かにわかるんだ。


 彼女が自分の母親だってことが。


「あ、あの……」


「……」


 相手はずっと寝たままで、こちらに顔を向けてすらくれない。初対面お母さんはいきなり過ぎて流石にまずかったか。よし。ここは最初から丁寧に説明してって、その前にまずは謝罪をしないと。


「急にすいません。ぼ、ぼくも、朝霞野って……言うんですけど……」


「……」


 あ、あれ。やけに口が乾くな。返答がないし、なんか自分の声も今までにないくらい震えてるし。


 無視されてる? それともぼくのことなんてとっくに覚えていない? あーいや、そりゃそうか。よく考えてみれば最低でもぼくが記憶を失ってからは会ってないわけだし。息子の声をすぐに思い出せなくても仕方がない……のか?


 怖い。沈黙が過ぎるごとに、自分の中で負の感情が倍加した。

 そこに答えがある。自分は何者で、どういう人間で、なんのために生まれてきたのか。


 堪えきれなくなったぼくは、このときは本当にどうかしてた、ベッドの上にいる母親の肩を揺らした。


「……」


 それでも反応はなかった。これは無視してるとか、眠ってるとか、そういうレベルじゃない。


 頭の中に浮かび上がった最悪の結末は、押さえ込もうとする度に肥大化していく。


 認めたくない。


 認められるはずがない。


「……植物状態なのよ」


 白衣を着た先生と思われる人物と共に、ミレイは病室の中に入ってきた。


「いま、なんて?」


 気づくと、首に職員証を掛けた白衣の男がベッド脇の椅子に腰かけていた。視線の先には、沈黙の中で静かに横たわる母がいる。男の瞳には医師としての冷静さより、ひとりの人間としての哀しみが色濃くにじんでいた。


「まあ、よくある話ではあります。異生物が原因と思われますが、それ以外は全くわからない。彼女がどうしてこうなってしまったのか、どうすれば元の状態に戻るのか。一切が不明です」


「よくある話……?」


「先に言っておきますが。これは君たちを責めているわけではありません。我々も君たちにはとても感謝しています。でも、異生物を抑制することだけが課題ではないのです。その後処理は、それと同等、もしくはそれ以上に組織にとっては大きな課題なんですよ」


 なにも考えられない。息が苦しい。

 頭の中に先生の声がただ流れ込んでくる。


「現状では我々の技術を持ってしても、彼女を目覚めさせることはできません。指や腕を生やすのとは訳が違うんです」


 ——永久的植物状態。


 先生はこれ以降も詳しい説明を行ってくれたが、ぼくの記憶に残ったのはこの単語だけだった。


 慰めの言葉をいくつか置いて、先生は病室を後にする。


 黒紀ミレイはなにも言わなかった。まるでこの展開を恐れていたかのように、苦い顔をしていた。何度かぼくに声を掛けようとあたふたしていた気がする。

 でも結局かける言葉が見つからなかったのか、傍に添えられていた花の水を替えに行ったまま戻ってこなかった。


 ぼくは何をしていたんだろう。1時間、数日、数週間、ベッドの前に立っていたような気さえする。


 その後のことはよく覚えていない。


 母親に言葉を掛けたところで返答はないし、医者が無理だと言ったことをぼくが覆せるとも思えなかった。


 気がついたら自分の家にいた。いつも通り流れるような動作でソファに座り、電気もつけずテレビのリモコンを押した。


 ひたすら画面を見つめて、再生される映画を脳みそに流し込んだ。絶望も感動も救いも、それらを表現するはずの全てのシーンが、ただの動きにしか見えない。


 主人公が叫び、ヒロインが泣いてる。


「なんだよそれ」


 それだけしか、解らなかった。




 ◇




 あれから数日が経った。


 たとえ超兵器に国ひとつが焼かれても世界が止まることはない。地球の裏側ではきっと、誰かが笑っているのだろう。

 ぼくの経験なんて世界から見ればありふれた不幸の一つだ。毎日どこかで人が死に、誰かが泣いている。


 そんな感じで、どうやらこの世界は自分を中心に回っているわけではないことに薄々気がつき始めた頃には、当たり前のように昇ってくる太陽に憎しみを覚え始めていた。


 学校には行かなきゃいけないし、任務だってこなさないといけない。


 けれど不思議なことに、ぼくの毎日はどこか淡々と、いつもと変わらず過ぎていった。


 確かに母親が植物状態ってのは衝撃的で、最初の頃は上手く心が転がらなかった。一週間くらい学校を休んだ気もする。でもよく考えてみたら、今のぼくの記憶に彼女との思い出は一切ない。失うものが無ければ、悲しむことも傷つくこともないことに気がついた。


 状態としては最初と何も変わらない。ただ勝手に期待して、勝手に裏切られただけ。

 今日だって高校に行って授業を受けた。昨日は組織からの要請で異生物だって殺した。


 小石を踏んだ車のようなものだ。一瞬、わずかな衝撃はあったけれど、その後の生活は何事もなかったかのように滑らかに進んでいた。


「はぁ、はぁ……」


 肩で息をする今のぼくは、コンクリートでガチガチに固められた組織の訓練施設で模擬戦闘を行っていた。学校が終わったあと、無性に身体を動かしたくなったのだ。


 目の前には、体育館どころかグラウンドが丸ごと収まるほどの巨大空間が広がっている。コンクリートの床面と壁面には赤と黒の警戒線が引かれ、内部の機構が唸るたびに壁のような障害物がせり上がってくる。


 こちらが設定した環境設定によって、わずか数秒で見慣れた平面が変化し、フィールドが形成されていく。照明が真紅に反転し、天井から吊り下げられた三次元的な動きをする異生物を模した訓練機械が一斉に動き出した。四脚で疾走するもの、宙に浮かぶもの、全てがぼくらを殺すための設計だ。


 ぼくはブレードから刃を伸ばして、金属の機械を斬りつけていく。空中に身をひるがえし、後ろから背中を刺そうとしてきた対象にダメージを与えると、ウーンという低い音とともにだらんと機械の動力が切れた。


 黒の異生物。あいつに比べたらこんなもの、ただの肩慣らしにもならない。


「これじゃだめだ」


 設定しておいたすべての対象を倒し切ると、ビーという終了の警告音の後に、バンッと白色のライトがフィールドを照らした。


 フィールドから出たぼくは設定モニターの前に立ち、他の職員のものを参考にしようと履歴をスクロールする。するとそこで、見慣れた名前を目にした。


「先輩……?」


 栗崎先輩の名前がそこにあった。日に何人くらいの職員がこの施設を利用しているかは知らないけど、スクロールした回数を考えるとたぶんそこまで前の設定ではない。


 ぼくは詳細も見ずに、その設定を選択してみた。


 再びフィールドの真ん中に立つ。機構内部が新しい設定を読み込んでいる音が聞こえる。せりあがっていた障害物たちが床面に収納され、吊り下がる訓練機械は所定の位置に配置された。

 そして、バンッという音とともにすべての光が消えた。平面フィールドは完全な闇に包まれ、どれだけ目を凝らしても何も見えなくなった。


 ぼくは一瞬戸惑ったけど、すぐに栗崎先輩の意図を汲み取った。


 異生物との戦闘においては、相手が光の当たる至近距離に近づいてくるまで、こちらはひたすら「待ち」の状態に置かれることになる。360度全面に気をめぐらせて警戒をするあの空気感を、この闇は完全に再現していた。


 暗闇に慣れてきた目が、視界の端に敵の一端を捉えた。それに向けて光を放つと、対象の輪郭が浮かび上がり、ぼくはそいつに斬りかかる。照射した光によって一瞬照らされた空間の範囲内、そこに映る他の対象の輪郭を完全に記憶し、ぼくはまた斬りかかる。


 明滅、記憶、斬りつけ、明滅、記憶、斬りつけ。その動作を無心で連鎖的に繰り返していく。


 ぼくは首をひたすら振ってなるべく視野を広げた。しかし、捉え損ねた対象によって背中に突進を食らう。体勢を崩したぼくは、ダメージを最小限にするため地面すれすれで空中に浮き上がった。


『敵はどこ? 見ようとしちゃだめ』


 スピーカーから声が聞こえてきた。栗崎先輩の声だ。彼女がモニター越しにこちらを見ている。


『一度踏み込んだなら判断しないで。答えを考えてる間に次が来るよ』


 そのとき突然、白色のライトがフィールドを照らした。照らされたフィールドには、死亡判定を受けた機械がミノムシのように吊り下がって静止している。


 その中で一体、人型の巨大な機械が直立してこちらを見ていた。その機械の背面から、突撃型のドローンが数機放たれ、線を引くように向かってくる。飛翔したぼくは、空中でドローンをかわしながら敵の背後をとった。


 ——いける。


 しかし、ブレードを振ろうとした瞬間。


「がっ!?」


 後頭部に激しい痛みが走り、床に落ちたぼくはあっけなくブーと死亡判定を受けた。


 お仕事終了といわんばかりに、機械たちは元の待機位置へとはけていく。


 うずくまって頭を押さえるぼくのもとに足音が近づいて、顔をあげた。


「あちゃー、痛そう……なんか冷やすものいる?」


「い、いえ……結構です。でもどうして……?」


「あの人型のやつ。正面からだと死角になってるんだけど、後ろに向かってドローンをもう一匹射出する設定にしてあるんだよね。だから前に射出された数匹はおとりってわけ」


 ぼくの疑問はそちらではなかったが、答えてくれた先輩に向かって「そっちじゃないです」とも言えず、あわせて返答する。


「でも先輩……見ようとしちゃだめだって、さっき言ってたじゃないですか……」


「あれ? そんなこと言ったっけ?」


「言いましたよ」


「えー、ごめん(笑)」


 こちらをからかうようにはにかんだ先輩が伸ばしてくれた手をつかんで、ぼくは立ち上がった。コブになってそうな後頭部を手で押さえながら、歩いていく先輩の後ろをついていく。


(でもあの設定……どこか似ていた?)


 直近で戦った中では随一の強さを誇る黒の異生物。その動きが頭から抜けないぼくは、魂が抜けたようにぐったりと吊り下がる人型の機械を見てぼんやりと思った。




 ◇




「元気ならいいんだけどね」


 訓練施設から出てしばらく歩いた。今は、第四区のちょっとした公園のブランコに座って栗崎先輩と2人。先輩はぼくの調子がいつもとは違うことを心配して、この後ゲームセンターに行く約束をしてくれていた。


「でもツカサ君が訓練するなんて、珍しいこともあるもんだ」


「訓練……というかただ身体を動かしたくなっただけですよ。それよりも先輩、あの設定は?」


「あーあれ? あれはまだ私が特生にいた頃だから、結構昔に設定したやつだよ。他の職員からも結構人気でさ、高難易度設定とか言われて、最近でもまだ使ってる人がいるみたいだね」


 だからそこまでスクロールしなくとも表示されたのか、とぼくは納得する。

 確かにあれは高難易度設定だ。


「まだ使ってる人いるのかなーと思って見に行ったら、そこにいたのがツカサ君で、しかもかなりいいとこまで行ってたでしょ? だからつい口を出したくなっちゃったってわけ」


「ちなみに……あの人型のを倒したらそれで終わりでしたか?」


「どーだったかなー……。随分昔のことで忘れちゃった」


 首をかしげながらブランコをゆるく漕ぐ先輩の横顔を見た。この人も昔はかなり強かったのだろう。


 そのときの先輩に稽古をつけてもらえたら……なんて少し思った。


「今日はわざわざ付き合ってくれてありがとうございます。でも、見た目ほど萎んでないので、このあとは大丈夫ですよ」


「そっか」


 栗崎先輩の長いまつ毛が横からだとよくわかる。彼女はいつもそのまつ毛の下の優しい瞳で、ここではないどこか遠くを見つめている。


 人に優しくなれるのは痛みを知っているからだと誰かが言った。先輩の痛みはなんだろう。ぼくのこのかすり傷程度の痛みも、いつかは優しさに変わるだろうか。


「耳を澄ましてみたらね、深刻な悩みを抱えた少年のため息がどこからともなく聞こえてきた気がしたんだけど……私のお節介だったみたい。じゃあ、ゲームセンターにはまた連れてってよ」


「ぼくが連れて行くんですか?」


「当たり前でしょ。ツカサくん度胸あるんだから、たまには私をリードしてよね」


 栗崎先輩は「約束だからね」と言って、栗色にまとめた髪を揺らして立ち上がった。


「お友達が来たみたいだし私はこれで。さらばだ〜」


 ふざけた仕草でニヒッと笑った栗崎先輩。目線の先には黒髪の仏頂面美人が見える。

 先輩は鎖を揺らしてブランコから飛び降りると、どこかに行ってしまった。


「と、隣いいかしら?」


「自由席だよ」


 入れ替わるようにして座った黒紀ミレイは、久しぶりに話すせいか、顔が強張っていて少し気まずそうにしている。


「あの……えーっと……」


 落ち着かない様子でミレイは手をモジモジさせる。


 君はそういうキャラじゃない。喋ることくらい考えてから座ればいいのに。


「そ、そういえば……あなたが学校を休んでるときに、部長が全校集会で集団催眠の実験をしようとして、私とムツキで放送室を占拠してよくわからない催眠音声をかけてこいって……言われたんだけど、知ってる? 放送部は以前から部長と色々あったらしくて、なかなか部屋に入れてもらえなくて、それで結局——」


「無理して喋らなくていいよ」


「……」


 さっき打った後頭部がズキンと痛んだ。


 公園で遊ぶ子どものサッカーボールがこちらに転がってくる。ぼくはそれを拾って向こう側に投げた。母親らしき人物が軽く会釈して何かを子どもに言うと、また元の遊びに戻って行く。

 少しだけ辛い沈黙が続くと、黒紀ミレイは口を開いた。


「月並みなことかもしれないけれど……あなたの今の気持ちが少しはわかるつもりよ。私も大切な人を失ったことがあるから」


 ここでそれは誰? なんて聞くほど、ぼくは無責任じゃなくなったつもりだ。


「ありがとう」


 とりあえず、そう感謝してみる。そうすれば場の空気が崩れないと思ったから。ここに差し込むべきセリフはこれだと思ったから。


 ミレイの気持ちが嬉しいのは事実だった。でもその言葉に共感することはできない。

 だってそうだろう。きみは失ったものの価値を知っていた。その人と過ごした日々や失ったものの輪郭をちゃんと覚えている。だからこそ悲しむことができるし、想える。


 でもぼくは違う。何を失ったのかすらわからない。その人がどんな声で名前を呼んだのか。どんな手で、どんな顔で、ぼくを見ていたのかもまったく思い出せない。


 いつもひとりだ。底が見えない真っ黒い穴を覗いているような感覚がいつもある。手の届かないその深さを想像するたびに、どうしようもない孤独感に襲われる。


「結局最後まで本当の気持ちはわからなかったけれど……私にとってその人は、特別な人だったんだと思うわ」


 ベンチに座るミレイの横顔が、茜色に染まっていた。公園の遊具が長く影を引き、鳥たちの鳴き声が遠ざかっていく。


「でも失ってからよ。その気持ちに気がついたのは」


 無くさないと大切さには気がつかないってやつね。


「で、その人とはどうなったの?」


 意味のない会話だとわかりながら、ぼくは規則的に言葉をはめる。


「その人は戻ってきたわ。でもその人が戻ってきたら、傷つくことがわかってたから……私はなんとかその人が傷つかないようにって色々したんだけど……」


 あるあるだ。その人のためを思ってやっていたことが、結局は自分のためだったって。B級恋愛映画でよく観るやつ。


「結局全然ダメ。結果はその行為が、私の自己満足だったってことが露見しただけだったわ」


 プルタブの音が、乾いた空気に小さく響いた。


 ミレイは缶を唇にあてるとひと口、静かに飲んだ。傾けた首筋が夕陽に透けるように白い。肌の下をなぞる血管すら見えそうで、ぼくは思わず目を逸らした。


(ん? それだけ?)


「えーっと……」


「これだけよ。オチとかないから」


 彼女は言いたいことは言い切ったと言った顔で、ジュースを飲む。


「つまり……?」


「つまり私は思ったのよ。究極的には人の心なんて読めるわけないんだし、だったら自己満足でもその人のためを思って行動した方がいいって」


 ミレイは「これは私の意見だから」と言って、開いてないジュースを渡してきた。ぼくは「どうも」と言ってそのジュースを飲む。


「それ、私のオススメ。いつかのココアのお返し」


 飲んだことのない味だった。白濁した液体に、なんとか菌配合と書かれている。初めて口にするのにどこか懐かしい気がしたのはきっと、開発者たちの努力の賜物なのだろう。


「その味、忘れないで」


 黒紀ミレイは、ブランコからゆっくりと降りた。


 お返しはもう済んだらしい。


 ぼくは去っていくその後ろ姿をぬるくなったジュースを飲みながら見つめた。


 栗崎先輩も黒紀ミレイも、それぞれの過去を背負って生きている。ぼくは正直、今の自分もこの環境も全て捨ててこの街から逃げ出したい。母親のあんな状態、過去のぼくならまだしも、なにも知らない今のぼくが背負っていい現実じゃない気がする。


「はぁ……」


 強がって失敗した。やっぱり栗崎先輩とゲームセンターに行けばよかった。彼女ならこんなとき、ぼくにどんな言葉をかけてくれただろうか。

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