第3話「獣人の里、枯れた泉」

 森の夜は長い。梢の間を渡る風が、獣骨の鈴を微かに鳴らし、月明かりが地面の斑を明滅させる。

 アリアに導かれ、俺は獣人族の里へ向かった。踏みしだかれた獣道は途中で消え、後は彼女の嗅覚と耳が頼りだった。足取りは軽くはないが、隣で揺れる尾の律動を見ていると、不思議と体の芯に火が灯る。


「レオンさん、あと少しです。……ただ、驚かないでくださいね」


 アリアの声が、夜露のように落ちた。

 最後の藪を抜けると、そこには丸太と縄で築かれた柵、獣皮と木の皮で葺いた屋根の家々、そして中心に――枯れた泉があった。


 泉の周りに、老いも若きも獣人たちが集まっていた。皆、耳を垂らし、尾を弱々しく揺らしている。土器の底はひび割れ、桶の中には、泥水が指二本分。


「姫が戻られた!」


「アリア様!」


 歓声が上がるや否や、彼らの視線は俺に移った。警戒と期待が混ざった、真剣な目だ。

 アリアは一歩進み、胸に手を当てて告げる。


「この方はレオンさん。森で魔物から私を救ってくれました。――そして“土”を動かし、“根”を呼びました」


 ざわり、と空気が波打つ。

 長老らしき白髪の獣人が杖を突き、俺の前に立った。額には小さな角。しわに刻まれた目元は深く、だが濁りはない。


「旅の者よ。拙者は長老のガラン。この泉は、代々、里の命脈であった。だが一月前より水が細り、三日前に……完全に枯れた。井戸も、川も、同じく痩せ細っておる。――おぬしの力、試させてはくれぬか」


 俺は思わず枯れた水面をのぞき込む。底が見える。石がひび割れ、泥が白く乾いている。

 喉が鳴った。俺の中で、あの「根」を動かしたときの熱が、ゆっくりと、確かな輪郭を持って立ち上がってくる。


(村人の力――耕し、育て、巡らせる力。水脈は土の血管だ。なら、探せる。繋げることも)


「やってみます」


 俺がそう言うと、アリアの顔がぱっと明るくなった。長老は静かに頷き、里人たちが輪を下がる。沈黙。夜風。土の匂い。


 俺は泉の縁に膝をつき、掌を泥に置いた。

 目を閉じる。体の熱に耳を澄ます。

 土は冷たい。けれど、どこか懐かしいぬくもりがある。指先の骨まで沁み入る、祖霊のゆりかごのような気配。


(――聞かせてくれ。地の声を)


 意識が沈む。暗がりに細い糸が走る。糸は幾筋も重なり、やがて細い川になる。

 枯れた根、詰まった石、崩れた層、途切れた道。

 見えない地図が、掌の裏に浮かんだ。


「詰まり……岩盤の割れ目が塞がってる」


 口が無意識に動いた。

 俺は手をずらし、土の中へ、想像した形のままに指を伸ばす――感覚だけで。

 すると、脳裏でぶつぶつと固い石の粒が鳴り、次いで湿った土の感触がまとわりつく。

 遠くで、微かな水音がした。


「もう少し……もう少しだ、来い」


 呼ぶ。

 水は生き物だ。怯え、迷い、逃げても、道があれば集まり、流れる。

 俺の掌を中心に、土の“毛細管”が繋がっていく。

 やがて――


 ぽつ。

 泉の底が濡れた。


 誰かが息を呑む。

 ぽつ、ぽつ、ぽつ――。

 弦をはじくような音が続き、乾いた泥が黒く染みを広げた。


「もういい、休め!」

 ガランの声が飛ぶ。だが俺は首を振った。


「まだです。今繋いだ管は細い。すぐにまた詰まる……“動脈”を掘り起こさないと」


 目を閉じたまま、両手を底に広げる。

 熱が燃える。全身の血が沸き立つ。

 指先から、根がひとすじ伸びる。石を抱き、静かにずらし、ひびに楔を打ち込む。大地が軋む低音が骨伝導で響き、俺は歯を食いしばる。


「――っ!」


 瞬間、掌の下で何かが“割れた”。

 遠い地の底で、圧し殺されていた水が、解き放たれる。

 泉の中央で小さな渦が生まれ、泡がはじけ――


 ぶわ、と水柱が立った。


 歓声が爆ぜた。尾が一斉に跳ね、耳が立つ。

 乾いた土はたちどころに泥へ、泥は水鏡へ。

 冷たい飛沫が頬を打ち、胸の熱と混じり合って、涙腺が勝手に震えた。


「やった、やったぁ! レオンさん、すごい!」


 アリアが駆け寄って抱きつく。彼女の体温と、濡れた毛並みの感触。

 俺は思い出す。笑われ、捨てられたギルドの空気。

 それとは真逆の、無条件の歓喜が今、俺の周囲にある。


「ありがとう、旅の者。いや……レオン殿」


 ガランが膝をついた。長老が膝をついたのだ。

 慌てて俺も腰を浮かせるが、ガランは手を上げて制した。


「礼を言わせてくれ。水は命だ。老いも子らも、この冬を越せる。――里は恩を忘れぬ」


 里人たちが水瓶を持って走る。最初の一杯を、アリアがすくって俺に差し出した。

 銀のひしゃくに映る月と、水面に揺れる灯。

 俺は両手で受け取り、一息に喉を潤す。冷たい。甘い。土と木の、静かな甘さだ。


「っ……生き返る」


「ふふ。うちの水、誇りなんです」


 アリアが微笑む。尾が嬉しそうに左右へ。

 その笑みが胸のど真ん中に刺さって、言葉にできない何かがほどけた。


 ――俺は、ここにいてもいいのだろうか。



 その夜、里はささやかな祭りになった。

 焚き火の周りで肉が焼け、草笛と太鼓が鳴る。子どもたちが尾を追いかけて輪を作り、長老は古い歌を口ずさんだ。

 俺は火のそばで毛皮を乾かしながら、肉をかみしめる。外はまだ冷えるが、骨の内側が柔らかく温かい。


「レオン殿」


 ガランが近づき、腰を下ろす。

 火の粉が星に混ざるのを見上げながら、彼は静かに切り出した。


「泉を枯らした“最初の原因”に、心当たりはあるか?」


「岩盤の割れ目が塞がってました。自然の変動にしては、妙に“均一”でした。……誰かが、わざと」


「やはり、そうか」


 ガランの顔に陰が落ちる。

 彼は焚き火の向こう、闇に沈む森を見た。


「一月前から、森に“道理の通らぬ動き”が増えた。群れぬはずの魔物が群れ、夜も昼も境目があいまいになる。――人の術の匂いがする」


 人の術。

 魔法使いか、術者の徒か。

 俺の胸に、にわかに冷たい棘が生まれた。浮かぶのは、ギルドの顔だ。剣士カイルの、あの薄笑い。

 彼は、利益のためなら汚い仕事も躊躇わない。

 だが、里の泉を枯らすような“間接的な虐殺”を、本当に?


「……確かめたいことがあるんです。明日、泉の上手(かみて)にある石山を見せてください。水脈の“入口”があるはず」


「よかろう。案内役は――」


「私が行きます!」


 アリアが弾む声で割り込んだ。尾が元気よく跳ねる。

 ガランはわずかに目尻を緩め、うなずいた。


「よし。……それと、レオン殿」


「はい」


「里はおぬしを“客人”として遇する。だが、願わくばもう少しだけ留まってはくれぬか。娘(こ)らも、おぬしの話を聞きたがっておる」


 娘ら? と首を傾げる間もなく、肩に影が落ちた。


「ふふ、姫ばかり独り占めはずるいわ。――あなたがレオン?」


 ふっと香草の匂い。

 振り向くと、黒髪の獣人の少女がいた。耳は小さく、毛並みは光沢のある黒。瞳は深い緑に冴えている。

 腰には包帯と瓶、肩には薬草袋。

 アリアが紹介する。


「レオンさん、彼女はミラ。里の“薬師”で、幼馴染です」


「はじめまして。助けてくれてありがとう。泉が戻らなかったら、私の“仕事”はほんとに終わってた」


 ミラは乾いた笑みを浮かべ、俺の手をとった。指先が暖かい。


「明日、石山に行くんでしょ。薬草の採れる場所、私が一番よく知ってる。案内させて」


「あ、あぁ……助かる」


 ミラはアリアに向かって、わざとらしく肩をすくめてみせた。


「姫、あなたまた突っ走ったでしょ。森の見回りに一人で行くなんて」


「だって、里が心配で」


「その結果、魔物に飛び込む。……はぁ。レオン、あなたがいなかったら、私は姫の棺に薬草を供えてたかも」


「ミラ!」


 二人のやり取りに思わず笑いがこぼれる。

 焚き火の火勢が上がり、星が増え、笑い声が夜に溶けた。


(俺は、ここで――役に立てる)


 胸の奥で小さく、しかし確かな音。

 ふと、背筋に冷たい視線を感じた。

 反射的に振り返る。暗い林の縁。何かが、いる。


 闇は、闇のままだった。

 だが、俺の皮膚の上で、女神の光がめらめらと細く燃える。



 翌朝。空は薄い牛乳のように白かった。

 里の上手へ向かう小道を、俺たちは三人で進んだ。先頭はミラ、次いでアリア、最後尾が俺。

 木の幹に残る削り跡、踏み荒らされた苔、斧の節目。

 人の痕がある。新しい。二日前、いや――昨日の朝。


「ここをまっすぐ行くと、石山の腹に洞(ほら)が開いてる。昔は湧き水が落ちてたけど、今は乾いてる」


 ミラの言葉どおり、やがて岩肌が剥き出しになり、口を開く暗い穴が現れた。

 穴の周りには見慣れない焦げ跡。粉のような粒子が散っている。


「……魔法の燃えかす、だ」


 鼻がつんとした。

 近づいて指で摘む。冷たく、乾いて、軽い。

 魔術触媒の“灰”。しかも、貴族が使う上質なもの。


(なんでこんなものが、こんな辺境に)


 洞の奥に入る。

 足元は湿っているが、水はない。壁には無数の傷――楔を打ち込んだ跡。

 奥へ奥へと進むごとに、胸の熱がえぐられるように痛んだ。

 水の道がねじ切られている。人為的に。


「誰かが意図して、水脈を塞いだ」


 言葉が出て、二人が息を呑む。

 俺は膝をつき、壁に掌を置いた。

 昨日と同じく、目を閉じる。

 深く潜る。

 土の糸の断面がずらりと並び、ざくり、ざくりと切られた傷が幾筋も走る。

 ただ塞がっただけじゃない。――“どこか”へ導き直している。


「待って。……水、どこへ行った?」


 アリアが近寄る。ミラが懐から白い石を出して、薄紫の光を灯す。洞が柔らかく照らされる。

 俺は壁に耳を当てた。

 微かな音。滴の合唱。遠い、だが確かに、まとまった流れの轟き。


「この下じゃない。――“向こう”だ」


 洞の横壁に、かすかな隙間。

 そこから、涼しい風が流れ込む。

 俺は手刀で軽く叩き、力の線を通す。石が剥がれ、拳二つ分の穴が開いた。さらに広げると、向こう側に別の通路。

 そこに――足跡。革靴の跡。細い。踵の釘が王都仕立て。


 鼓動が強くなる。視界の端が熱を帯びる。

 俺は一歩出た。すると、冷たい声が洞の奥から跳ねた。


「――誰?」


 女だ。

 鋼のように張りのある、低い声音。

 次の瞬間、白い閃光が走り、俺たちの足元をかすめて石の床を焼いた。焦げた匂いが鼻腔に刺さる。


「危ない!」


 アリアが俺を抱き寄せる。ミラが素早く香草の粉を撒き、煙幕を上げる。

 煙の向こうに、ひとつの影。

 黒い外套、深くかぶったフード。杖の先に紫の光。

 フードの隙間から覗く瞳は、冬の湖みたいに澄んで冷たい。


「水脈を勝手にいじっているのは、あなた?」


 女は言った。

 俺は前に出る。胸の熱が、恐怖と怒りを同時に煮立たせる。


「答えるのはそっちだ。なぜ泉を枯らした」


「枯らしていない。“繋ぎ直した”のよ」


 女の視線が、俺の掌に落ちた。

 次いで、わずかに驚きが走る。


「――あなた、地脈が見えるの?」


 俺は答えなかった。代わりに、女は杖を収め、フードを少しだけ持ち上げた。

 銀糸の髪がほどけ、白い肌に冷たい光が滑る。

 美しい、と思った――反射的に。

 だが同時に、胸に重い鉛が落ちた。

 その顔を、俺は知っている。


 元仲間――僧侶リナ。

 ……ではない。

 似ている。だが、彼女はもっと大人びて、目の底に“計算”の光が宿っている。


「自己紹介をしなきゃいけないわね。私はセレナ。王都アルヴァン魔導院・外勤調査局」


 魔導院。外勤調査。

 公の機関だ。

 彼女は続ける。喉に氷を流し込むような冷静さで。


「ここから南東に、王国が管理する“新しい灌漑の集水槽”がある。干ばつ地帯を救うため、私たちは水脈の“経路変更(リルート)”をしている。獣人の里の泉は、その計画の“犠牲”――になるはずだった」


 アリアが震えた。尾が固く巻かれる。ミラは唇を噛み、薬草袋を握りしめる。


「犠牲、って……! 人の、生活の、命の――」


「だから、私は“最小限の影響”で済むように“回廊”を残した。昨夜、誰かが勝手に塞いだ“詰まり”を、あなたが解いた。――あなたの介入で、全体バランスが崩れる」


 セレナの瞳が、俺をまっすぐに射抜く。

 罪悪感ではない。抗議でもない。

 ただ、計算式が狂ったときの、静かな苛立ち。


「……あなたは、誰のために“正しい”を選ぶの?」


 洞の天井から、ひとしずくが落ちて弾けた。

 水音が合図のように、三人分の呼吸が重なる。

 アリアが俺の腕を掴む。ミラが一歩前に出る。

 俺は、掌を石に当てた。

 胸の熱が、ゆっくりと燃え上がる。


「俺は“村人”だ。目の前の村――里を守る。

 大局の論理は、まず“ここ”が潤ってからだ」


 言ってから、震えが止まった。

 セレナは短く息を吐き、杖の先の光を消す。


「ならば、交渉しましょう。あなたが“ここ”を守り、私が“向こう”を救う方法を。

 ――ただし条件がある。あなたの“村人”の力を、私に貸すこと」


 アリアとミラが同時に「ダメ」と言いかけ、俺は手を上げて制した。

 女神の声が遠い記憶の底から浮かぶ。


『目覚めを促す者を探し、仲間を得よ』


 セレナは敵か、味方か。

 その答えは、まだ出ない。

 だが、この世界の“正しさ”は、一つではないのかもしれない。


「……話を聞こう」


 俺がそう言うと、セレナはほんのわずかに――ほんのわずかにだけ、微笑んだ。


「賢明ね、村人。――まずは地図を共有しましょう。水脈の“全体図”を」


 彼女が外套の内から巻物を取り出した瞬間、洞の外で獣の咆哮が轟いた。

 空気が振動する。岩が粉を吐く。

 ミラが顔を上げ、アリアが耳をそばだてる。


「……群れの、足音。多い。――来る!」


 黒い影が穴口を満たす。

 昨日の魔狼とは比べ物にならない、肩までの高さがある“群狼”。

 瞳は赤く、よだれは黒い。

 その背には――銀の札。

 王都の“狩猟印”。


 セレナの眉がぴくりと動く。


「早すぎる……何者かが、群れを


“けしかけた”」


 俺は立ち上がり、掌を地へ。

 根が呼吸する。土がひらく。

 アリアが短弓を構え、ミラが薬包を指で弾く。

 セレナは杖を掲げ、紋章を空に刻む。


「――なら、まずは話より先に、“ここ”を守る!」


 洞の入口で、最初の狼が跳んだ。

 牙が光る。

 俺たち四人は、同時に前へ踏み出した。


(続く)

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