ビューティフル・ノイズ・コレクター

脳幹 まこと

第1話


 月曜の朝。普段より30分早く家を出たのは、昨夜なんとなく見ていた占いが「今日のラッキーアクションは、普段と違うことをする」なんて、ありきたりな言葉を囁いていたからかもしれない。

 私――ユカは、変哲もない事務職のOL。こんな些細な非日常にさえ、ほんの少し胸を躍らせてしまう、ごくごく平凡な女だ。


 地下鉄のホームは、いつもの時間帯よりも幾分か人が少ない。

 やってきた車両に乗り込むと、幸運にも座席が一つ空いていた。通勤で立たずに済んだのはいつ頃ぶりだろう。深く腰掛けて息をつくと、車内に甲高い赤ん坊の泣き声が響き渡った。

 車両の連結部近くに立つ若い母親が、必死にあやしている。手足をばたつかせ、何をしても嫌がる様子にすっかり困り顔だ。


 周囲の乗客はというと、あからさまに顔をしかめる人、ヘッドホンの音量を上げる人、無関心を装ってスマートフォンの画面に視線を落とす人と、反応は様々だ。

 悪気があるわけではないのだろう。満員電車の閉鎖的な空間で響く子供の泣き声は、誰にとっても耳障りなのだ。どうしてそう思ってしまうのかは知らないけれど、きっとそういうものなのだろう。

 私はぼんやりと、窓の外を流れていく景色を眺めていた。


 ふと、ある一点に目が吸い寄せられた。窓に反射してちらりと映るスーツ姿の男性だ。


 歳は30代半ばくらいだろうか。身長はざっと見て170後半、清潔感のある髪型に、彫りの深い顔をしている。がっしりした体格、それにぴったり合ったスーツ。カルティエの腕時計に、よく磨かれた革靴。

 一見すれば、仕事ができそうなサラリーマンといった雰囲気だ。

 親子から数メートル離れた場所に立って、二人の様子を窺っているように見える。


 けれど、その男性の表情は――周囲の乗客たちが浮かべる表情とは全く違った。泣きじゃくる子供の方をじっと見つめ、その口元が、ほんのわずかにだが、緩んでいるのだ。

 それは決して「微笑ましい」といった温かいものではない。陶酔と興奮が入り混じった――クリムトの「ユディト」のような――そんな表情だ。


 時おり、目をゆっくりと閉じ、やってくる音を味わっている。クラシック音楽を聞いている時の聴衆のように。

 こうして、件の親子が降りていくまでの数分間、男性はずっと子供の泣き声に聴き入っていた。


 その日から、私は度々、30分ほど早く電車に乗るようになった。そして、数回に一回、あの人を見かけた。

 彼はいつも同じように、泣きじゃくる子供を、うっとりとした表情で見つめていた。



「――でね、その人、今日も感じてたの」


「うわ……ヤバいね、それガチモンじゃん」


 週末の午後、友人のマキの部屋で、私はあの人の話をしていた。

 マキはローテーブルに置かれた私の分のコーヒーを淹れながら、呆れたように、でも少し面白そうに相槌を打つ。


「ヤバいよねぇ……でもさ、別に何かしてるわけじゃないんだよ。ただ、泣いてるところを見てるだけ。それも、すっごく幸せそうに」


「まあ、実害がないならどうぞご勝手にだけど……。でも、子供の泣き声聞いてエクスタシーって、どういう神経してんのかね」


 マキは「あたしには分かんないわ」と肩をすくめた。彼女の部屋は、壁という壁に黒い防音シートが貼られている。部屋の隅にはギターやベースが数本立てかけられ、足元にはエフェクターボードが無造作に転がっていた。

 学生時代、私と一緒に吹奏楽部に入っていたマキは、私が途中で辞めた後も音楽を続け、今では社会人バンドでベースを弾いている。


「てか、アンタも物好きだよね。そんなヤバそうなの、普通は避けるんだけど。わざわざ観察するあたり、アンタもだいぶキてるよ」


「だって気になるじゃん」


 そう言うと、マキは目を細めて、ため息をついた。


「そういうとこ、昔から変わんないよね」


 その言葉の意味を、私は知らないふりをして、ぬるくなったコーヒーを一口すすった。



 一ヵ月後。


 私はその日も、いつもの車両で「変人さん」――心の中でそう呼んでいる――に遭遇した。

 変人さんの乗る車両では、必ず・・子供が泣く。どんな親子連れでも、彼が近くにいると子供が自然と泣き出す。確かに赤ん坊や幼児は事あるごとに泣くだろうが、いくらなんでも100%はあり得ない。


 そのカラクリもまた、何度も様子を見てみると分かってきた。

 子供が泣き出す少し前、彼はスーツの袖口から、棒状の黒い装置のようなものを引っ張り出す。そして、装置の先端をそれとなく子供の方へ向けているのだ。

 そうすると、子供はぐずり、そして泣くのである。


 今日の男の子もまた、同じ手順で泣きはじめた。初めて見る子だが、その暴れ具合は傍から見れば「迷惑」でしかないほど激しいものだった。

 父親は申し訳なさそうに周囲に何度も頭を下げ、息子に何があったのかしきりに聞いている。しかし、息子は意に介さず泣き喚くばかりだ。


 もちろん、変人さんはそこにいた。しかし、その様子は普段ともまた異なっていた。冷静を装いつつ、目付きは明らかに興奮した人のそれだ。

 彼は腕時計を見る仕草をしながら、手元にある装置を触った。


 少しすると、子供は床に倒れこんでジタバタし始めた。叫び声はより甲高いものとなり、父親の発言にも怒気がこもるようになってきた。

 乗客達の視線も、面倒事を避けるものから、父親を突き刺すものに変わり始める。


 これはさぞかし、絶頂してるだろうな。


 そんな彼の様子を見ようとした。


 そして――彼がこちら・・・を見ているのに気付いた。


 しまった、と思った。けれど、彼の表情は意外なものだった。

 慌てた様子も、怒った様子もない。静かに私を見つめ、ほんの少しだけ興が醒めたような顔をしただけだった。


 やがて到着を告げるアナウンスが流れ、電車のドアが開いた。

 親子が足早に出て行き、変人さんもまた、何事もなかったかのようにホームに降りていった。


 私はしばらくその場から動けなかった。心臓がまだバクバクと音を立てている。

 あの人は一体、何者なんだろう。

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