第2話
あの朝から一週間ほど経った、金曜日の夜。
地下鉄のホームから改札口に向かおうとして、背後から声をかけられた。
「こんばんは」
聞き覚えのある、穏やかで落ち着いた声。振り返ると、そこにいたのは「変人さん」だった。
「先日は、どうも」
ラッシュ時とは違う、少し着崩したスーツ姿の彼は、困ったように眉を下げて笑っていた。
「驚かせてしまいましたか。いえ、決して危害を与えたいわけではないのです。あの時、あまりに熱心にこちらを見ていらっしゃったので。少し、お話がしたいと思いまして」
彼の物腰はあまりにも丁寧で、紳士的ですらあった。
私は戸惑った。いや、この人は子供の泣き声に興奮してしまう人なのだから、さっさと逃げないといけないはずだ。
それはそうなのだが……彼の誘いを断るのは、何だかとても勿体ない気がして、結局は社交辞令の笑みを浮かべながら、私は彼の後をついていくことにした。
駅近くのホテルのラウンジは、彼の雰囲気にぴたりと合っていた。
重厚なソファに向かい合って座ると、彼は単刀直入に、静かな声で語り始めた。
「あの光景を見て何となく察しがついているかもしれませんが、わたしは幼い子供が泣き叫ぶ際に出す、あの金切り声がとても好きなのです」
彼は自分の行為を、恥じるでもなく、誇るでもなく、まるで研究成果を発表する学者のように淡々と説明した。
「無邪気な子供は大人では決して再現出来ない純粋なエネルギーに満ちています。彼らが恐怖や不快感で泣き叫ぶ時、それが発露されるのです。あの純粋な生命の流動とでも言うべき音に、わたしは、どうしようもないほどの昂ぶりを覚えてしまうのです――」
表情は真剣そのものだ。発言の内容は変質者丸出しなのに。
流石に「そうですよね」と相槌することもできず、ただ黙って彼の熱弁を聞いていた。
不思議なことだが、これだけ理解不能で難解なのに、嫌悪も退屈もしない。
「話しがお上手ですね」
思わず出た言葉に、彼の目が少し大きくなったが、すぐに余裕に満ちた顔つきに戻った。
「会話が上手くいくかは、聞く人次第です――間違いありませんよ」
それとなく勤務先などを聞いてみると、おおよその見立て通り、それなりに名の通った会社で、なおかつ出世頭とも呼べる人物だった。
世間話の流れのまま、彼はカバンから、あの時手にしていた黒い棒状の機械を取り出して見せた。
彼曰く、害鳥駆除に使う超音波発生装置を自分で改造したもので、大人にはほとんど聞こえないが、子供にとっては不快な高周波……例えば蚊の飛行音をとても大きくしたようなものに聞こえるらしい。
「これを様々な場所で使い、子供たちを泣かせます。その声が『作品』に値するなら、付属マイクで録音を行います。このマイクは指向性が非常に高く、ノイズキャンセリング機能も優れていますから、ピンポイントで狙った子の泣き声だけをクリアに録音できるのです」
彼は自分の集めた音を『作品』と呼び、定期的にそれらを聞き返し、タイプごとに分別、棚卸しをする。その中で特に優れた『作品』を厳選し、傑作選を作るのだと語った。
コレクションの数は既に3桁に達しているらしい。
「――あの子も、あのままうまく伸びていれば、傑作選入りは間違いありませんでした」
あの子――異常に暴れていた男児もまた、私が見かける以前から、何度も検証を重ねた結果のためであったらしい。頂点に達していたところで、私の視線に気づいたということだ。
「ごめんなさい、せっかくのお楽しみに水を差してしまって……」
「いいんですよ、あの日のことなら、あのお父さんの濁った声が混じってしまったので、どちらにせよ、止めにするつもりでしたから」
彼は代金を黒く輝くカードで払った。
すべてがチグハグなのに、とてもサマになっている。
「あなたには、わたしのこの行為が異常なものに映るでしょう。自覚はしておりますよ。ですが、わたしにとって、あれは世界で最も美しいものなのです」
彼の言葉に、私は返す言葉が見つからなかった。常識が警鐘を鳴らしている。
おかしい、異常だ、関わってはいけない、と。けれど、心の奥底で、別の声が囁いていた。
――面白そう。
驚くほど素直な、私の本心だった。
・
その週末、私は恋人である彼の部屋にいた。
二人で映画を見て、他愛ない話をして笑い合い、一つのベッドで眠りにつく。彼の穏やかな寝息は、私に絶対的な安心感を与えてくれる。
彼のことが、心から好き。愛している。
その気持ちに、嘘偽りは一切ない。
だから――私はそっと身体を起こし、眠る彼の顔を覗き込む。
愛おしさを込めて頬を撫で、指先はゆっくりと首筋を滑っていく。そこにある、温かい生命の流れ。
そして、両の手のひらで、彼の首を包み込んだ。最初は、優しい愛撫のように。
けれど、次第に、指先に力を込めていく。
「ん……ぅ……」
彼の喉から、苦しげな声が漏れる。規則的だった寝息が乱れ、首筋の脈がトクントクンと早く、力強くなっていくのが、私の指先にダイレクトに伝わってくる。そのリズムが、私の鼓動と重なっていく。
その生命の鼓動が、彼の苦悶の声が、私の耳には何よりも甘美な音楽として響いた。
もっと、聴かせて。
彼の眉間に皺が寄り、閉じられた瞼が微かに震える。
皮膚の下で硬直していく筋肉の感触。漏れる息が徐々に熱を帯びて、私の手首を湿らせていく。その全てが、今この瞬間にしか存在しない、彼だけの音楽。
「いいよぉ……すごく、いい音……」
恍惚とした呟きが、私の唇から零れ落ちた。
苦しみの頂点で、彼の喉が「ヒュッ」と短く鳴った。
まるで、弦が切れそうなヴァイオリンのようだ。その刹那の音こそが、私が求めるクライマックス。
恍惚としたため息。私はパッと両手を離す。
静寂が戻った部屋で、私は自分の高鳴る胸を押さえた。
彼を愛している。とても愛している。誰にも渡さない。
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