第3話 桜散る会議室
――商店街振興自治会・鈴木一郎――
1 午前八時四十分、商店街集会所。
窓の外、桜の花びらが散りかかる。一枚がガラスに当たり、小さな音を立てた。
「一郎、30万円の見舞金チラシは自治会費で刷るのか?」
本田会長の声に、私は資料をめくる手を止めた。
「条例第5条に基づき、周知は市の補助事業です。会費は使えません」
「法の話ばかりだ。金で心が癒せるか?」
会長は、古びた手帳をテーブルに置く。マスキングテープで補修された背表紙、1970年代の町内会名簿の文字がにじんでいる。
「高齢者には郵送申請は無理。手紙の一枚の方が届く」
私は孫の写真を胸ポケットに感じながら、反論した。
「制度を徹底しなければ、未制定自治体との格差が――」
「格差じゃない、心だ」
会議室に、桜の花びらが舞い込んだ。制度の儚さを象徴するように、静かに床に落ちる。
2 午後一時、公民館多目的室。
北・ほっかいどう総合カウンセリング支援センターの職員が、パソコンを開く。
「申請書、こちらです」
私が差し出すと、佐藤真理子さん(50代)は後ずさった。
「30万円で家族は戻りません」
彼女の手には、亡き夫の写真。端が破れ、折り目に涙の跡が滲む。
「制度より、あなたの言葉が必要です」
職員が静かに語りかける。
「地域格差を埋めるのは、紙じゃなく信頼です」
私は、孫の写真を握りしめたまま、口を開いた。
「私も、戦後の飢えを町内会の味噌汁で乗り越えた。それが人情です」
佐藤さんの肩が、小さく揺れた。申請書に、ゆっくりとサインされる。
冷えた会議室の空気が、少しだけ和らいだ。
3 夕方五時、商店街桜並木。
風鈴の音が、冷え込む空気に震える。
「会長……」
本田さんは、手紙を差し出した。
「町内会の手紙だ。読んでくれ」
便箋には、佐藤さんの字でこう記されていた。
――あなたが支えてくれたから、明日も歩けそうです――
私の指が、手紙の端を折り曲げる。
「30万円では買えない、これですか」
「そうさ。制度より人間関係が、傷を癒す」
桜の花びらが、風に乗って通りを渡る。
私は、胸ポケットの孫の写真をそっと撫でた。
「俺も、会長の負けっぱなしじゃ済まされないな」
4 夜七時二十分、自宅台所。
妻が味噌汁の湯気を立てる。
「会議、うまくいった?」
「いや、散々だった。でも、正しい散々さだった」
私は、北・ほっかいどう総合カウンセリング支援センターの名刺を握りしめた。端が少し折れている。
「明日から、申請サポートを始める。制度と人情、両方を」
「あなたも、会長のようになれたね」
妻の言葉に、私は苦笑い。
「まだ半人前だがな」
時計の音が、静かに響く。
桜の花びら一枚、テーブルに落ちた。
明日も、風鈴が鳴るだろう。
私は、名刺を胸ポケットに戻した。
孫の写真と一緒に、温もりを運ぶ道具にして。
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