第4話 子供の絵が守るもの

【施行4日目・母の記録】


――市立桜丘小・PTA副代表・川村彩――


1 午前九時五分、小学校音楽室。


 ピアノの蓋に積まれたPTA資料の束。『犯罪被害者支援条例と子育て環境』という見出しが、蛍光灯を反射して眩しい。


 私は赤いマーカーを握りしめ、通学マップの危険箇所を指でなぞる。


「条例第7条に基づき、市は学校と連携して見舞金制度を周知します。30万円の申請書は――」


「川村さん」


 挙手が上がる。保護者Aさん、子供を背に抱えたまま立つ。


「30万円で安心は買えません。通学路の信号機が壊れたままです」


 声が震え、マーカーが手から滑る。インクが床に点を打つ。


 窓の外、桜の花びらが散り、教室の床に静かに舞い降りる。制度の儚さを象徴するように、すぐに誰かの足に消される。


2 午後一時半、商店街。


「おう、彩ちゃん、総会はどうだった?」


 本田会長が、掲示板に貼った手書きの紙を押さえながら声をかける。マスキングテープの端が剥がれかけている。


「会長……この『北・ほっかいどう総合カウンセリング支援センター』の連絡先、本当ですか」


「ああ、1970年代からの付き合いだ。文字がにじんでいるが、温もりは変わらん」


 会長は古びた手帳を開き、町内会名簿のページを示す。マスキングテープで補修された背表紙、にじんだインクが「地域の絆」と読める。


「制度より、あの手帳が心を支えるんですね」


「そうさ。数字より人の顔が先だ」


 風が吹き、桜並木がこすれて音を立てる。私の胸ポケットには、子供の通学マップが折りたたまれている。


3 夕方四時十分、市営住宅前。


 錆びた手すりに手をかけ、冷たい風が指を撫でる。


「佐藤さん」


 先日の遺族、真理子さんが振り返る。手には子供の描いた絵画――「町内会の会長が守ってくれる」。紙の端が破れ、色鉛筆の線がにじんでいる。


「見舞金より、子供が通う小学校で話を聞いてほしい」


「話?」


「同じ思いをした子供たちに、町内会の手紙を読んであげて」


 私は、PTAの講話企画を瞬時に立てる。


「明日、学校で本田会長を招きます。制度より、地域の目が子供を守ることを話してもらいます」


 真理子さんの目に、初めて光が差す。夕暮れの風鈴が、冷えた音を立てる。


4 夜八時、自宅。


 子供が寝静まり、ダイニングテーブルに絵画を広げる。


「今日の日記、書く?」


 妻が紅茶を置く。


「うん、制度と人情の境目を」


 私はペンを走らせる。


――30万円の数字は、通学マップの赤い印を消せなかった。でも、会長の手帳のにじんだ文字が、子供の絵を守ってくれた――


 机の上、北・ほっかいどう総合カウンセリング支援センターの名刺。端を折り曲げ、胸ポケットに滑り込ませる。


 明日の朝刊には小さな記事になるだろう。


 しかし、子供の絵の中で、本田会長は大きく手を振っている。


 制度より、地域の目。


 私は、子供の絵にそっと手を添えた。


 桜の花びら一枚、テーブルに舞い降りる。


 新しい朝が、静かに始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る