龍華良宵
正徳二年――秋。
奥の院の夜は、言葉を拒むように静まり返っていた。
霧が石畳を覆い、月の光だけが細い道の奥へ、ひそかに滲み込んでいた。
風はなく、枝葉の影すら息を潜める。
その沈黙のただ中に、ひとりの僧が立っていた。
龍華良宵――
黒衣をまとい、御廟橋の手前に佇む姿は、闇に溶けるほど無音だった。
空海の霊廟を背に、瞳には天満月の光が宿る。
その輝きは、慈悲の灯であり、菩薩の境地をかすかに映していた。
静寂ではない。喪失と祈りの果てに、なお燃え残った慈悲の炎だった。
十五にして入山し、修行五年。
精神は無垢の珠のように、極限まで澄み切っていた。
――数珠がひとつ鳴る。
その小さな震えが、夜の静寂をわずかに裂いた。
良宵は息をひそめる。
祈りは呼吸よりも先に、世界へかすかに触れた。
霧がひと筋ほどけ、沈黙の深みに、ひそやかな綻びが生まれた。
「良宵」
声が届いた瞬間、月光の筋がわずかに歪んだ。
世界の奥から誰かが名を呼んだのではない。
名が、呼ぶ者を求めて揺らいだ――そんな気配だった。
霧の裂け目から現れた影は、形より先に、存在そのものが滲み出た。
白い衣――
巫の篠が授けたその衣は、観音を思わせる静かな光をまとっていた。
だが、清らかさの裏には、触れればひび割れそうな闇が縫い留められている。
螢雪は薄い灯のように滲みながら姿を結んだ。
白衣は月光に触れた水面のように、静かに揺れ、螢雪の輪郭に遅れて寄り添った。
良宵の胸の奥で、数珠がひとつ強く鳴った。
それは祈りではなく、警鐘に近い震えだった。
「……螢雪」
声に応じるように、螢雪の瞼が闇の綻びへそっと触れるように開いた。
瞳には、人の理では測れぬ業の光が宿り、月光をわずかにきしませた。
「白衣螢雪――
巫に与えられた名だ。
業の底に沈んだ私に、残されたただ一つの呼び名。
……気づけば私は、死を忘れ、幾度も幾度も彷徨っていたらしい。
お前を探しに」
螢雪が言葉を落とすたび、奥の院の静寂がかすかに軋んだ。
結界の表層は揺れず、ただ見えぬ次元の縁だけが裂け、世界の輪郭がひそやかにずれた。
祈りでも呪いでもなく、輪廻の底に滞った深相が、夜そのものを押し返していた。
良宵は数珠を握る指に、知らず力を込めていた。
目の前にあるものは、もはやかつての友ではない。
白衣にまとわる影は、聖域の均衡をそっと試す手のようだった。
それでも良宵は、目を逸らさなかった。
雲間の月が、螢雪の輪郭を淡く染める。
そのひとすじの光に、良宵はかすかな灯を見出した。
手を伸ばしたのは衝動ではない。
祈りとも使命ともつかぬ、境の見えぬ行為だった。
「螢雪よ、彼岸へ渡れ。
この身は、その業をともに抱く覚悟を定めている。
陰の淵に留まるな。祈りの手は、今もお前を求めている。
掴め。お前という光は、まだ消えてはおらぬ」
それは、他の誰にも向けられたことのない、ただ一人の魂に捧げられた声だった。
螢雪がゆるやかに笑んだ。
触れればひび割れる
螢雪の唇がわずかに動いた。
その瞬間、時は刹那の名を失い、凝り固まった。
気づけば、声が先に落ちていた。
「違う」
良宵の声を追うように、螢雪の音が静かに満ちた。
──私に二度死ねと言うのか。
良宵は反射のように一歩を踏み出した。
石畳に触れた足音が、夜気を微かに震わせた。
「違うのだ、螢雪。
私は……いつの日も、お前の救いを願っていた」
そこまで言ったとき、喉がひとつ詰まった。
良宵の瞳が苦渋に滲んだ。
滴は頬を伝い、石畳に痛みが落ちた。
「力で彼岸へ送ることを、私は選べなかった。そなたが仏ならざる仏へと化す前に、この手で送るべきだった。私の弱さだ」
言葉の終わりで、良宵の声はかすかに掠れた。
胸の奥で千切れた祈りの端が、呼吸のたび音もなく揺れた。
螢雪はゆるく目を細めた。
良宵の背に広がる聖域の結界と、月の静寂が、まるで彼を庇うようにたゆたっていた。
だが螢雪の視線はそこへ向かわず、虚ろな闇の奥に、どこにもない場所を探していた。
ふたつの視線は交わらず、断絶のただ中で、螢雪の唇がわずかに動いた。
「泣くな、良宵。お前の涙を見るのが、私は何より悲しい」
ふいに、一羽の蝶が降りてきた。
月光を受けた翅が、二人のあいだに儚い呼吸をつくる。
蝶は螢雪の手に留まり、静かに羽を休めた。
螢雪はその小さな命を見つめ、声を落とした。
「私の浅き許しで、お前の涙が拭えるなら……」
螢雪の指がわずかに閉じた。
翅が砕け、光が散り、夜気の中で細い音もなく絶えた。
良宵は息を殺した。
胸の奥で、なにかが音もなく奪われた。
螢雪は、静かに告げる。
「衆生済度の誓願を捨てよ」
その声は、慈悲の名を帯びぬまま、ただ一本の刃として落ちた。
霊域が沈黙の器となり、白衣の輪郭だけがひそかに揺らめいた。
それが痛みか、祈りか――
良宵には判別できなかった。
螢雪は蝶の残骸を見下ろし、まぶたをひとつ伏せた。
「祈りは誰も救わぬ。すべては空へと帰す」
螢雪の音は夜の底に沈んでいった。
良宵は数珠を胸に掲げた。
珠が月光を宿し、黒衣の縁がわずかに震えた。
螢雪は、ゆっくりと瞳を閉じた。
その一動だけで、夜気がひとしずく張り詰めた。
「灯は風に揺れ、雨に濡れ、いずれ消える。
祈りは人の夢に帰す。
温もりも希望もない。ただ、儚い影が残るばかりだ。
……嵯峨野の地蔵を語った秋を覚えているか、良宵。
語らぬ者にこそ語りかけよ――そう言い合ったな。
今なら分かる。沈黙に向けた言葉は、祈りの形をした夢にすぎぬ」
声は静かに沈み、冷たい双眸が良宵を縫いとめた。
「良宵――衆生を救うと願うその心こそ、執着の炎だ。
いずれお前自身を地獄へ誘うだろう。
私を救いたいと願うその想いもまた、空に散る幻。
その誓願を、ここで断ち切れ。
その願いを、今ここで捨てよ」
「出来ぬ」
その一言が、奥山の闇を鋭く裂いた。
石畳に落ちる影が長く伸び、月光の境がわずかに揺らいだ。
光と闇は、静かに線を分かたれた。
「この良宵──その願いだけは裏切れぬ」
ふたりのあいだに、深い沈黙が落ちた。
螢雪はまぶたをひとつ伏せた。
「……そうか」
その響きは、祈りを拒む者の静かな諦念だった。
白衣は風に融け、月光の縁から淡く剥がれ始める。
「救済を拒むこの意識は、もはや光とは交わらぬ」
「……龍華良宵」
その響きは夜の底に沈み、どこにも還らなかった。
輪郭が月に滲み、影がほどけるように揺れる。
良宵は一歩、前へ出た。
「白衣螢雪よ」
低い声が、夜気の深淵をすくい上げた。
溶けかけていた白衣の輪郭が、わずかに止まる。
「我が大願が執着であるなれば──
この身ごと抱き、地獄へ堕ちよう」
その言葉は、光でも闇でもない、ただひとつの覚悟として奔った。
月光が細い刃のように震え、闇は息を潜めた。
「私の朋友は、最期まで己の修行を全うした。
万象が拒もうとも、私だけは決して責めはせぬ」
螢雪はゆるやかに顔を上げ、良宵を見つめた。
その瞳には、愛おしさと――どうしても届かぬ距離とが、静かに刻まれていた。
螢雪は瞼を伏せた。
唇だけが、わずかに揺れた。
ただ、十五の秋と同じ笑みを返した。
祈りを拒むことでしか守れなかった、ひとりの赦し。
月光が一度だけ、ふたりを結んだ。
螢雪の影は風の綻びへ吸い込まれ、奥山の闇へと静かに溶けた。
霊域は、ただ沈黙へと還った。
残された良宵の掌には、わずかな熱が残っていた。
それは光でも闇でもなく、ただ誰かを想うという行為が遺した、ひとつの痛みの温度だった。
良宵はその熱を確かめるように、そっと指を組んだ。
掌の内で、数珠がかすかに鳴る。
その祈りが、ときに誰かを傷つけると知りながら――
良宵はなお、印を結んだ。
月光が背を照らし、黒衣の影だけが参道に伸びた。
奥の院は何も答えず、ただ深く沈黙していた。
その沈黙の底で、良宵の誓いだけが、かすかな灯として息づいていた。
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