祈りの臨界

白衣螢雪

 奥山の闇は、深く沈んでいた。風は途絶え、枝葉のざわめきさえ遠のき、ただ見えぬ呼吸だけが、世界のどこかでかすかに出入りしているようであった。

 湿りを含んだ土の匂いが、静かに満ちている。足もとの地面には、風化した白骨がひとつ横たわり、その肩にすがるように、ひとりの少女の亡骸が折り重なっていた。

 骨と骨のあいだを黒い髪がゆるやかに流れ、触れ合うところで、かすかな擦れる音を立てる。


 篠は、その二つの亡きものを見下ろしていた。白衣は闇の中で浮かび、胸元の面丸鏡がひんやりとした感触を伝えている。瞳の奥には何ものも映さず、ただ静かな底だけが息づいていた。

 やがて篠は、そっと瞼を閉じた。喉の奥でことばがひとつ形を得て、夜気の中へほどけてゆく。


「何度も繰り返してしまうのです。己が死したる存在であると気付かないあなたは、憧れた月を追い求め、あの方へ向かってしまわれる。だから篠は、あなたの御霊が此処へ帰ってくるまで――何千回繰り返そうとも、語り続けるのです。螢雪さまが確かにここに存在したことを、証するために」


 声は色を持たず、奥山の底でわずかに反響し、すぐに闇へ吸われた。

 篠の指先が白骨に触れる。乾いた、軽い感触が伝わり、その冷たさを確かめるように骨の縁をひとすじなぞる。衣の袖がかすかに揺れ、それが音のように闇へ滲んだ。

 そのとき、篠の背に影が落ちた。いつから立っていたのか分からない。

 土を踏む音もなく、静かに在った。

 闇の中心に、般若鬼若は在った。

 面の奥の眼差しは篠と螢雪を離さず、悼みの気配だけが、静かに場を満たしてゆく。


「誠、哀れよ。若き僧に魅入られることがなければ、そなたは死することはなかったであろうに」


 般若の面の奥で、瞳が白骨を映す。

 その映り込みの揺らぎの中から、鬼若の影が静かに滲み出る。

 篠が語り続けた名――螢雪。

 かつて与えられ、やがて手放されたその名を抱く影が、闇にほのかに浮かび上がった。

 篠は螢雪の白骨から視線を外さぬまま、息をひとつ吐いた。


「かつて御影巫さまが慎まれた道を、おばあさまが、澪姉さまが守ってくださった沈黙を、篠はひとつ、踏み越えてしまったのでございますね」


 指先で、折り重なった少女の髪を撫でる。乾いた感触の底に、わずかな柔らかさが残っていた。

 その名残に触れながら、篠の唇には微かな笑みが宿る。

 悲嘆の先でしか生まれぬ、肯定の気配だった。


 篠は顔を上げ、鬼若を真っ直ぐに見据える。


「篠は螢雪さまの記録を詠み続けるうちに、彼の岸から戻れぬ身となっておりました。この身がすでに終焉を迎えた存在であることを、今ようやく、鬼神さまが教えてくださったのでございます」


 鬼若の衣が、月のない闇の中で微かに白んで見えた。

 風もないのに裾が揺れ、衣擦れがひとつ鳴る。その揺れは、灯を手で覆う仕草にも似ていた。


 般若の面が、闇に溶けるようにそっと傾いた。

 哀れみとも嘲りともつかぬ声が、夜気にかすかに落ちる。


「巫よ、そなたの選択は愚かであった。されど――その愚かさこそが、そなたを巫たらしめたのやもしれぬ」


 その声には、ひやりとした刃と、撫でるような温さが、奇妙な均衡で並び立っていた。

 篠は穏やかに微笑み、静かに返す。


「意識をこちらの世界に置く以上、彼の岸から戻れなくなるのも、巫の宿命なのでございましょう。ただ、篠は螢雪さまに魅入られたのではありません。篠が螢雪さまを魅入ったのです。だから、悔いはございません」


 鬼若はわずかに面をそらし、影の奥で目を伏せた。

 般若の口元が、笑みとも歪みともつかぬ形に、ほんの少しだけ揺れた。

 その揺らぎの奥には、冷たさに覆われながらも、かすかに古の情が滲んでいた。


「悔いがないのであれば、よい」


 篠の視線は、鬼の内奥まで届いているようであった。

 微笑みはやわらぎ、慈しみを含んだ声になる。


「鬼若さまは……優しい鬼神でございますね」


 鬼若は鼻先で、静かに笑いを弾ませた。その笑いは冷たく、面の奥に影を残す。


「戯言を織りなすな。麿はただ、こやつの死にざまを笑いに来てやったのよ」


 篠は微笑を崩さず、言葉の奥を見通すように目を細めた。


「螢雪さまの記憶に浮かんだ編笠の老僧……あれは、鬼若さまであったのでしょう。

 螢雪さまが叢雲寺を離れられた後も、老僧の姿を借りて、遠くから見守っておられた。

 宵の一門を誰よりも思うあなたさまなら、ひとり離れた螢雪さまを、ただ置き去りにはなさらぬはずです」


 般若の奥の瞳が、かすかに曇る。

 叢雲寺を去った後、遠くから見守った幾つもの夜――

 ただ一度、どうしても届かなかった手がある。


 鬼若は白骨へ視線を落とし、短く告げた。


「……居合わせておれば、とな」

 篠の表情が、そこでわずかにやわらいだ。

 そのやわらぎに応じるように、鬼若は低く続けた。


「螢雪は、自ら命を絶った。絶望と数多の苦悩の果て、この僧が辿り着くのは、極楽か、それとも地獄か」


 篠は天を仰ぐ。

 雲の狭間から、欠けた月がひっそりと顔を出し、淡い光が白骨をかすめて消えた。


「恐らく、そのどちらにも辿り着くことはございません」


 鬼若もまた、闇の高みを仰いだ。

 天から細い光の道が降り、その上を、ひとつの影がゆるやかに歩んでいた。


 螢雪であった。


 その身は白でも黒でもなく、淡い光の衣に包まれていた。

 菩薩を思わせる輪郭を宿しながら、底知れぬ影を背負っている。

 足もとには光が寄り、闇がゆるく渦を巻いた。

 瞳には計り知れぬ業が沈み、立つだけで夜気がかすかにひび割れた。


 篠は息を吸い、囁いた。


「神にあらず。仏にあらず。鬼にあらず。この魂が織りなすは、救済を拒む無限の業。光が差しても業は芽吹き、尽きることなく巡り続けます。終わりなき輪廻の淵に立ち、自ら選び取った呪いを抱きしめる――その祈りであられるのかもしれません」


 螢雪の視線が、ゆるやかに持ち上がる。

 淡光の衣は風に揺れ、月光にかすかに滲んだ。

 凍てついた瞳の底には、光の名残さえ触れぬ静寂が沈殿していた。

 かつて怯えたその鬼神を見て、今はただ、薄く寂しげに目を細める。

 やがて螢雪は篠を見つめる。

 微かな笑みが口元に浮かぶ。

 それは、深淵から浮かび上がる、届かぬ祈りの笑みであった。


「私は終わっていたのだな」


 篠は微笑みを返し、静かに頷く。


「はい、螢雪さま」


 螢雪の声が、穏やかに落ちる。


「我等は、同じ場所へは行けぬようだ」


 篠の瞳が、ほのかに揺れる。

 寂しさと、嬉しさに似た感情がひとつに溶けていく。


「月に焦がれた螢や巫がおられたのです。ならば――闇の底でなお祈りを抱く螢に、焦がれる巫がいても、よろしいのではございませんか」


 螢雪は、ふと、灯に触れぬように微笑んだ。

 抱き寄せれば壊してしまうと知る者だけが浮かべる、遠ざける慈悲の笑みであった。


 篠は、その微笑の意味を静かに受け取った。

 それでも――と、沈むことを厭わぬ声で言葉を置いた。


「篠は、神に愛されたいわけではございません」


 螢雪は、ゆるやかに目を細めた。

 月光に触れた衣は菩薩のように清らかでありながら、その背には、途方もない闇がひっそりとたなびいていた。

 瞳の底で、焦がれた光がひとすじ揺れ、その痕だけが螢雪の影をわずかに裂いた。


「なれば、篠」


 声は祈りにも似ていた。

 己の祈りではなく、届かぬ祈りを何度も抱えてきた者の声だった。


「修行半ばにして己で己の世界を閉ざした、この愚かな私に。誰の祈りにも還りきれぬ、この行き場を失った魂に」


 一度だけ、影が震える。


「どうか――名を授けてはくれないか」


 その響きは大きくはなかった。

 しかし篠の胸には、重い雫のように落ちた。

 終わりなき業に縛られた者が、最後の祈りとして名を求めた。


 御影巫であれば──ここで沈黙を選んだだろう。


 篠はそっと目を閉じ、ひとつ息を吸う。

 名を授けることは、自らもまたその業に触れること。

 神に背を向け、語りの業へと沈むこと。

 それでも構わぬ、と篠はとうに覚悟していた。

 救うためではなく、消さぬために。

 灯を咲かせる唯一の術が語りであるなら、沈むことさえ、選び取るしかなかった。


 篠は白衣の裾を解き、螢雪の頭上へそっとかけた。

 布が髪に触れた刹那、月なき空から細い光の粒が零れ落ちた。

 面丸鏡は胸先で冷たく揺れ、掌には、布越しに螢雪の孤影が重なっていた。


 篠は、ひとつの運命を見据えるように、静かに告げた。


「我が白衣を纏い、輪廻の縁にて業を背負いし孤の意識よ。巫の篠は、あなたに――白衣びゃくえ螢雪けいせつの名を授けましょう」


 その刹那、白骨がかすかに光を帯びた。

 冷たい光は祝福にも呪いにも傾かず、ただ螢雪の魂の形にそっと触れた。

 名は夜の底に沈み、もう二度とほどけぬ灯として定まり、本来なら言葉の外へ流れ去るはずだった業は、語りの内側に、静かに座を得た。


 鬼若の般若面が、闇の中でわずかに揺れた。

 面の奥の瞳には、語られぬ灯の誕生を見届けた者だけが宿す、深い沈黙の色があった。


 救いとは、光へ還ることばかりではない。

 闇に沈んだ灯を、誰かが語り続けること。

 それもまた祈りのかたちである――鬼若は、声にせぬまま、ただそう思った。

 巫の覚悟と、螢雪の願いとが、ひとつの輪となって闇へ沈むのを見つめながら。


 やがて、厚い雲の裏で月がわずかに滲んだ。

 白き裾が、風もないのにふと揺れ、白衣螢雪の姿は、夜の帳に溶けゆくように淡く滲んだ。


 その影を見送りながら、篠は再び面丸鏡の縁を指先でなぞる。

 そして、白衣螢雪に至るまでの記録を、そっと紡ぎはじめた。

 語る資格を持つのは、同じ因果の底に触れた者だけ。

 ゆえに巫の篠の語りは灯となり、業の底に咲くひとつの祈りとなる。


 語りは終わらない。

 誰の心にも届かぬまま、なお続いていく。

 それでも篠は、奥山の夜ごとに、白衣螢雪の名を――静かに呼び続けていた。

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