第2話 緊張

 邸の本部棟を出て、庭園をしばらく歩いたところにある別棟に向かう。と、一階の広い部屋の窓が開いて、十歳くらいの少女が顔を見せた。

「ルイ先生、遅刻だよ~。早く、早く!」

「寝坊しちゃった。ごめん、すぐ行く」

 僕は別棟に入り、少女のいる大きな部屋――『教室』と呼ばれている――の扉を開けた。そこには八人ほどの少年少女が集まっていた。下は十歳前後から、上は十五歳くらいまで。ここはインフィニスの保護を受けたばかりの者に、区域内のルールや生活を教える場所だ。望めば絵を描いたり、歌ったり、物語を読んだりと授業以外の活動も可能になっている。基本的にこの教室にいるのは、島の外から連れて来られたばかりの天使たちのうち、インフィニスの区域で生きることを選択した者たちだ。だが、稀にしばらく区域外で暮らしていたものの、最近になってインフィニスの配下に入った者を教えることもある。今はたまたま十代の子ども中心のこの教室だが、必要に応じてもっと年上でも教室で学ぶ場合があるのだ。

 ルイも四年前、この教室の世話になった身だ。十年前に島に連れて来られて、六年間はどこのクランにも属することなく、便利屋として生きてきた。島で安定した生活を送るよりも、島外に脱出したいと考えていたからだ。もともと家族を持たない<天使>の僕だが、島の外にいる親友のリアンに再会したかった。彼に名前をもらって必要とされたことが、僕の生きる意味になっていたのだ。それが、四年前に――脱出を諦めたわけではないが――行きがかり上、インフィニスに所属することになり、あっという間に幹部になった。一人で裏の世界で生きてきた戦闘能力があれば、幹部になることは難しくなかった。

 島を出たいという気持ちは、今も持ちつづけている。けれど、思いがけず属したインフィニスで過ごすうちに、守るべきものやすべきことが増えてしまった。それをぜんぶ切り捨てていけるほどの強さは僕にはないのだと、教室に立って子どもたちの顔を見るたびに思う。

「――遅くなってごめんね。授業を始めようか。……って、あれ? リュートがいないな。あの子はどうしたの? 風邪でも引いた?」

「……リュートは昨夜からいないよ?」おずおずと一人の少女がそう答えた。

 リュートというのはいちばん年長の十五歳の少年だった。好奇心旺盛で、行動力があり、頑固という点で僕と少し似ている。だから、僕は少しばかりリュートの行く末を心配していた。好奇心や意思の強さのせいで、彼はいつか島を脱出しようとするか、他のクランへ行こうとするかもしれない、と。

 インフィニスの支配区域にいる間は分からないだろうが、他のクランの中には絶対的な忠誠を求める組織もある。あるいは、配下にする代わりに戦闘員として生命を賭けることを求める組織も。さらに、他のクランの区域は治安が悪い場所も多く、心優しい者やまともな者は疲弊してしまうのが常だ。身の振り方を間違えれば、最悪、生命を落としてしまう。

 心配が杞憂に終わればいいのだが、と思いつつ、ルイはローザに電話をしようと部屋の片隅の台に置かれた電話を取り上げた。ローザに言って、リュート捜索の人手を出してもらおう。そう考えていたときだ。教室のドアが開いて飛び込んできた者があった。

 泥まみれであちこちすり傷を作った赤い髪の少年――リュートだった。全速力で走ってきたのか、彼は喋れないほどに息切れしている。リュートと仲のいい十二歳の少年が駆け寄って、水筒から水を飲ませた。リュートは何度もむせながらも、やっとのことでそれを飲み下す。

 少し荒い呼吸が落ち着いたところで、僕はリュートに声を掛けた。

「……リュート、何があった?」

「るい、せんせい……。ごめんなさい……。オレ……ごめんなさい……。こんなことになるなんて……。わざとじゃない。悪気はなかったんだ。こんな大事になるなんて……」

 リュートは混乱して怯えている様子だった。その態度に嫌な予感を覚えつつ、僕はそれを押し殺して彼に近づく。床にうずくまった彼の背中を、掌で撫でた。

「大丈夫だよ。何があってもボスが君たちを守るから。だから、心配しなくていい」優しい声でそう繰り返す。次第にリュートの呼吸が落ち着くのを待って、僕は彼に声を掛けた。「大丈夫だから、何があったか教えてくれる?」

「……オレ……この間、邸を出たときに外で聴いた歌姫の歌が聴きたくて……それで、彼女が歌ってる劇場を探して歌を聴きにいったんだ。そうしたら、あの子……」

「歌姫……?」

 僕は首を傾げた。<天使>たちは外にいる間、娯楽を取り上げられている。けれど、中には歌や踊り、絵など芸術の才能のある者もあって、彼らは島で自由になると創作活動を始める場合があった。その結果、外の世界ほどではないがこの島にも劇場や画廊があり、演劇をする者や歌う者、絵を売る者などがいる。また、この島は制限付きながら外との交流があるが、ギフトを持つ<天使>による絵や工芸品などは『普通の感覚とは違う』ことで外で高価が付くらしい。クランのボスの中には、彼らを庇護して芸術活動を支援する場合もあった。芸術は外部からの客を楽しませる手段にもなるからだ。

 それにしても、リュートがどうしても見たいという歌姫はいったいどこにいるのだろう。インフィニスの区域内の劇場に見に行くならばこんな風に負傷することはないはずだが。

「リュート、歌姫っていったい誰だい? 君はどこの劇場に歌姫を見に行ったの?」

「東の港の……繁華街の劇場……。ラナって子の歌が聴きたくて……」

「東の港!? それってオクルスの支配区域じゃないの!」リュートと同い年の金髪の少女が会話に入ってくる。彼女は眉をひそめてリュートを睨んだ。「信じられないっ……。オクルスは容赦ないことで有名なのよ? インフィニスの配下だって知られたら、どんな目に遭わされるか……」

「ごめん、ソフィア……。ラナって子、なんだか様子が変で声を掛けたんだ。そうしたら、向こうの戦闘員に見つかっちゃった、ルイ……。オレどうしたらいいい? もしかして、インフィニスの区域の人が攻撃されちゃう? 攻め込んだわけじゃないのに?」

 リュートの言葉に僕は一瞬、考えこんだ。

 オクルスの支配地域に別のクランに属する子どもが一人、入り込んだところで、さほど脅威になるとは思えない。インフィニスの区域では他のクランのメンバーの往来や商業行為も一定の範囲で許されているが、問題はさほど起きていないのだから。だが、オクルスは厳格で好戦的な性格のクランだ。敵は必ず叩き潰すし、場合によっては攻め込むこともある。インフィニスが寛大さで長く続いてきたクランなら、オクルスはその逆で恐怖と厳格さで統制を保ってきた。その結果、クランとしてはインフィニスに次いで二番目に長く続いているくらいだ。

 オクルスのボスは、長く一人の人物が続けていた。が、一年ほど前に新たな実力者が現われて、ボスに打ち勝ったことで代替わりをしたという。そのため、オクルスの組織そのものもまだ安定していない部分があると言われていた。その組織の不安定さが、今回のリュートのことにどう響くのか。長い間、便利屋として島のクランの勢力情勢を分析してきた僕にも分からない。だが、いずれにせよ、ボスである僕はインフィニスの配下であるリュートを守るつもりだった。慈悲と寛大、それは先代ボスであるローザから続くインフィニスの精神だからだ。

「大丈夫だよ、リュート。何があってもインフィニスは君を引き渡したりしないし、万が一オクルスが区域に手出しをしてきても好きにはさせない――」

 言いかけたときだった。辺りにサイレンが鳴り響く。その独特の音程とリズムは、邸内の幹部招集の合図だ。

「招集が掛かっちゃった。皆、今日は自習をしていて」

 そう言いおいて、教室を出ていく。走ると薬で抑えた頭痛が顔を出しそうになるが、のんびり歩いている暇はない。かといって、あまり殺気立った様子を見せれば子どもたちを怖がらせてしまうから、庭園を小走りで本部棟へ戻る。

 十分ほどで会議室に人が集まりはじめた。

 インフィニスの幹部は、ボスである僕を除けば五人。今は外交担当のローザに彼女の夫で治安維持担当のユン、インフィニスの区域内の行政を取り仕切る者が二人、そして、戦闘員を指揮するレオだ。けれど、今日は行政担当の二人がそれぞれの管轄区域へ出かけている。そのため、僕と幹部四人で会議が始まった。

「さっき、オクルスの戦闘部隊指揮官から連絡があったわ」ローザが席から立ち上がって説明を始める。「インフィニスの区域に、オクルスの領域に忍び込んだ『ネズミ』が逃げ込んだ、と。彼らの要求は『ネズミ』の引き渡し。庇いだてするようなら、攻撃も辞さないと言っている」

「えらく強硬姿勢ですね。その『ネズミ』ってのは、うちが向こうの区域に放ったスパイか何かなんですか?」

 青い髪の青年――レオが「違うんでしょ」とでも言いたげな様子で尋ねる。僕より一つ年下の彼は、島でローザが手ずから育てた戦闘員だ。かつてはボスであるローザの護衛として、彼女に常に付き従っていた。そのため、ローザのやり方は熟知しているのだった。

「オクルスに送り込んでいる者は無事よ。それについては連絡が取れている」

「あの、その『ネズミ』というのは僕が担当している子どもたちの一人――リュートかもしれません」僕はおずおずと片手を上げて言葉を発した。途端、皆の視線がこちらに集まる。「実はリュートがさっき、怪我をして帰ってきまして……」

 僕は皆にリュートが話していた内容を伝えた。途端にローザは眉をひそめ、ユンは天を仰ぎ、レオは怒りの表情になる。オクルスは好戦的で戦闘員が多いため、いちばん抗争に持ち込まれる状況を避けたい相手なのだ。

「……リュートを先方に引き渡しては、ボス?」レオが鋭く提案する。

「だめです。それはしません」僕は首を横に振った。「レオも分かってるでしょ。それをしたら、インフィニスはインフィニスじゃなくなるって。……それに、こちらに連絡してきたのが戦闘部隊の指揮官だというのが気になります」

「ああ。本来なら抗争はボスの決裁でなければできない。クランの全員を動員できるのは、ボスだけだからな」ユンが慎重な口調で呟く。

「僕もそう思います、ユン。おそらく指揮官の独断的な行為ではないでしょうか?」

「その可能性は高いわね」ローザが頷いた。「オクルスの指揮官は、代替わりした今のボスと首領の座を争っていたと聞いているわ。独断で行動を始める可能性は高いでしょうね」

「だが、ボスの決裁が下りず総力戦の抗争でないとしても、オクルスの戦闘員は多い。ちょっと攻められるだけでも、うちには大打撃だ」

 ユンはうかない顔をしている。それもそうだろう。インフィニスの支配区域にはあちこちに戦いに向かない人々が住んでいる。病人であったり、幼い子とその両親であったり……。彼らを守るためにはそれなりに備えが必要だが、今回は相手の動きがあまりに急だった。攻撃されれば大変な結果になるだろう。

「いったん、先方に掛け合いましょう。インフィニスの区域にいる者の取り扱いは、インフィニスの権限です。それを引き渡してほしいというなら、相応の手続きをと言います」

 僕が言うと、ローザが「それは私が」と立ち上がった。

「ルイはまだ、ボスとして顔を見せるつもりではないんでしょう? 私が窓口として出るわ」

「すみません。ありがとうございます」

 そう言って僕はローザに頭を下げる。

 僕がボスとして表に顔を出さないのは、他のクランの支配区域で情報収集したり、ときには戦闘に加わったりすることがあるからだ。いずれもボスが直接的に関わったとなれば、大事になってしまう。動き方の自由度が失われてしまうのが、僕は嫌だった。ローザはそんな僕の気持ちを汲んで、今もボスの代理として公式な場面で動いてくれる。その好意に、僕は甘えている状態だった。


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