第二部・第16話(最終話)「虚名の終焉——真実の声と共に」

一 名だけが歩く


 朝告読の巻末に、不自然な行が増えはじめた。


 《本日の独唱物語:———》

 名はある。だが、内容が空白のまま“成立”印だけが押されている。

 該当の人物に聞けば「確かに立った」と言う。だが、触沈の相手も、陰室の記録も、公沈の揺れも残っていない。


「……**虚名(きょめい)**だ」

 イリスが秤の針を寝かせ、冷たい声で言った。

「声も沈も置かず、“立ったことにする”だけの名。——物語の帳面に、影のない行が増えている」


 セレスティアは目を細める。

「制度の“形”に寄生している。独唱簿、聴き手の作法、公沈——どれも“印”が付く。印だけを盗る方法を、誰かが広めた」


 レイナは剣の鍔を指で叩き、低く言った。

「正面から斬る相手じゃない。写し身だ。斬れば街の方が傷つく」


 カイルが太鼓の面を二度、素手で押した。

「返りがない。なのに“済”になってる。……音で言えば空打ちの連打」


 ミュナは芽を抱え、首を震わせる。

「“名”だけが歩いて、根が置いてけぼり……芽が迷う」


 その夜、裂け目の縫い目に、薄い笑いが走った。

 写印鬼(しゃいんき)ミメティカ。

 形だけを真似て生きる、外の寄生種。

 合奏の海が「形式」を持ったことで、渡って来られるようになったのだ。


二 虚名の仕組み


 翌朝、対唱裁きが開かれた。

 壇上に出てきたのは、顔のない“紙の束”のような輪郭。

 声はどこからもせず、告読の文面だけが空中に並ぶ。


『独唱簿:押印/聴き手:返礼済/公沈:揺れ記録——該当ナシ(免除条項適用)/陰室:混雑のため代替処理——成立』


 イリスの指が止まり、目が細くなる。

「……“代替処理”。制度の穴を縫ってる」


 セレスティアが檀の上で短く告げた。

「穴を埋めるのではない。——“印の前に痕を置く”。第二部で学んだ解き方を、名にも適用する」


 痕——触沈の握圧で生じる掌の温度の差、陰室の壁が吸い込んだ湿り、公沈の石鉢のごく短い沈下、聴き手の返礼で揺れた空気の微弱な渦。

 どれも数にしづらく、偽造しにくい身体と場の跡。


 イリスが頷く。

「印(インク)より先に痕(スカーフ)。名の成立条件を“印”ではなく“痕の連鎖”に倒す。

 ——痕連(こんれん):触→陰→公→聴。四つの痕が順で繋がったときだけ、名が立つ」


 レイナが壇の縁に縫い紋を刻む。

「計れないときは順で守る。虚名が最も嫌うのは、“順番に触れ合う”こと」


 カイルが太鼓を傾け、面の裏へ手を差し入れる。

「音じゃなく沈黙の渦を拾う打ち方に変える。……痕は鳴らないが、面は覚える」


 ミュナは祠の庭に“受け土”を増し、触沈の握手の足下へ影露を薄く撒いた。

「靴の“重みの跡”も、痕になる」


三 聴き手の審問(オーディエンス・ヒアリング)


 それでも、虚名は狡猾だった。

 広場の片隅で、偽の返礼を配り、「返礼をしたつもり」にさせて回る。

 ——聴き手の作法さえも、形だけにする。


 セレスティアは告げた。

「聴き手の権利に、聴き手の審問を加える。返礼は“評価”でなく“印”でもない。

 あなたが何を受け取り、どれを返したか——短く物語で聞く」


 イリスが形式を出す。

 返礼三句:

 《受けた——(主題/躊躇/痛み/喜び)》

 《沈めた——(どこで/誰と)》

《贈る——(何を/いつ)》


 レイナが笑う。

「剣でも同じだ。『受けた/沈めた/返す』を言葉にすると、嘘が入らない。身体が拒否する」


 カイルが面を叩かず、手のひらで押す。

「“返礼した気”に、反応がない。痕が残らない」


 ミュナが頷く。

「物語は芽の水。偽名は、水を吸わない」


四 虚名焼き——燃やすのは紙


 昼下がり、虚名の束が広場へ降りた。

 告読の行だけを増やし、独唱の窓を塞ぐ。

 人々の掌に配られた偽返礼は、薄い光を放ち、気持ちよさだけを残す。


 セレスティアは王印を上げ、静かに宣言する。

「虚名焼きを行う。——燃やすのは紙だけだ。人は裁かない」


 イリスが痕連の札を掲げ、痕の有無で名前を二つの盆に分ける。

 痕連ありは“留”。

 痕連なしは“浮”。

 留は陰室の泉へ沈めて守り、浮は公沈の縁へ運び、燃やす。


 燃えるといっても、火ではない。

 公沈の石鉢が一拍だけ深く沈み、浮名の“紙”は無名合唱の漂いにほどける。

 ——虚名は、物語の底に混ざらず、海の栄養だけに変わった。


 レイナが目を細める。

「“敵”じゃなく、肥やしにしたわけだ」


 カイルが肩を叩く。

「空打ちも、面の“癖”として残せば、次は叩きやすい」


 ミュナが笑う。

「倒すより、土に返す方が、根が喜ぶ」


 ミメティカの輪郭が揺れ、広場の縁で薄く散った。

 形のない笑いは消え、漂いだけが合奏の底へ落ちた。


五 真名返し


 だが、問題はここで終わらなかった。

 虚名の被害に遭った市井の者たち——「自分が独唱したと思い込まされた」者たちの顔が青ざめていた。

 恥。怒り。疲れ。

 制度的には救った。けれど、心が置き去りだった。


 セレスティアが静かに言う。

「制度で守れない場所は、儀で縫う」


 王路の中央に小さな壇が組まれた。

 名前は呼ばない。ただ、ひとりずつ壇に上がる。

 手順は四つ。

 一、名を伏せて沈を置く。

 二、聴き手が三句で返礼する。

 三、“いまの声は誰のものか”を本人が最後に名乗る。

 四、名を海へ沈め、痕連をもって“真名(まな)”として返す。


 老人が上がり、一拍の沈を置いた。

 返礼の三句が幾つも重なり、その最後に彼は言った。

「——私は、昨日の“空の成立印”ではない。今日の“重い息”だ」


 王都の海が、静かに揺れた。

 虚名の薄膜が、そこで音もなく剥がれた。

 壇を降りる足取りは、来たときより軽い。


 カイルが小さく笑った。

「“名乗り”は最後に置くから、名が“痕”に従う」


 イリスが告読に新しい項を加える。

 《真名返し:本日二十件。全件、痕連成立》


六 外の偽名、外の裁き


 裂け目の向こうでも、虚名が増えていた。

 縫い橋の先で、向こうの者たちが同じように「立ったことにする」札を配り、外の陰室が疲弊しかかっていた。


 セレスティアは縫い目に向かって礼をし、対唱裁きを申し出た。

「こちらの規則を、そのまま向こうに適用しない。——鏡でやろう」


 イリスが鏡札を掲げる。

 外の拍に合わせた痕連と三句返礼。

 向こうの“手”がうなずき、外の虚名も漂いへほどけた。

 こちらの真名返しの壇の対が縫い橋の向こうに現れ、客唱がそこで名乗りをした。


 ミュナが目を細める。

「“片面だけ”を正しても、また歪む。……両面を縫わないと」


七 大合奏憲(けん)の夜


 すべてが整った夜、評議庁の屋根に灯が並んだ。

 第二部の旅路で編み込んだ数多の作法が、一枚の布に織り上がる。


 セレスティアが宣言する。

「大合奏憲——この地の“拍の憲(のり)”を布告する」


 イリスが条文を読み上げた。


独唱の権利:すべての者は、一度は独唱者として立つ権利と義務を持つ。最小要件は沈。


沈の公共性:沈は権利であり、公共財。触沈/陰室/公沈により共同で守る。


聴き手の権利と義務:聴き手は独唱を必ず聴かれ、応答・沈・返礼で応じる。評価は禁止。


対唱裁き:外来の合唱は、縁・階・四相・独唱の四規則のもとでいつでも検証可能。


虚名の無効:印の前に痕を置く。痕連なき名は“漂い”へほどき、物語の栄養とする。


名の謙抑:名乗りは最後に。名は痕に従う。


鏡の礼:外と内は、互いに鏡の作法で縫い、どちらか一方だけを正さない。


 条文が読み終わると、王都は息を合わせて沈み、ゆっくりと上がった。

 遠い裂け目の向こうでも、同じ沈が落ち、同じ返礼の粒がきらめいた。


八 終わりではなく、続きとして


 広場の独唱窓に、ひとりの子が上がった。

 星砂の季は薄れ、影露が静かに濡れている。

 子は胸いっぱいに息を吸い、短く歌った。


 《ぼくは きょうも 立てた》


 聴き手の三句が重なり、公沈の石がわずかに沈み、陰室がやさしく息を吐く。

 痕は揃い、名は最後に帰る。

 虚名はどこにもいない。

 あるのは、真名だけ。


 レイナが剣を見下ろし、鞘に触れる。

「斬らないで済んだ戦、いくつ目かしら」

 カイルが太鼓の面を撫でる。

「叩かない一打で守るの、やっと板についたな」

 ミュナが芽を撫で、笑う。

「芽は、眠って起きて、また眠る。——街も同じ」


 イリスが巻物を閉じ、空を見上げる。

「偏差、良好。……でも、完全じゃない。完全はいらない。縁が消えるから」


 セレスティアが俺を見る。

「第二部——ここまでで、輪は結べた。

 沈黙、律、歓喜、凍結。外なる拍。合奏の海。独唱と聴き手。虚名の終焉。

 ——次は、第三部。輪の外へ、旅に出る」


 胸の刻印が、静かに熱を持った。

 ルミナの声が、薄明の風に乗って届く。

『よく編んだ、整律官たち。

 次は“拍の源(みなもと)”。

 和を求めて、最初の鐘へ——』


 遠い地平で、まだ名もない“最初の音”が、一度だけ震えた。

 誰のでもない。世界の、最初の独唱。

 そこへ向かう道は、ここから続いている。


 俺は王鈴の欠けに触れ、仲間と視線を交わした。

 王路は開けている。

 合奏の海は呼吸している。

 真名は守られた。

 ——そして、旅は続く。


第二部・完

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追放された俺、神々に拾われ最強へ──気づけば世界一の美女たちに囲まれていました 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_

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