第二部・第7話「外なる拍——異界からの侵入」
一 裂け目の向こう
夜空に走った裂け目は、稲妻ではなかった。
音を持たず、光も持たないのに、胸の奥だけを逆なでする“ざわめき”を放っている。
王都の塔の先端が微かにうなり、祠の火は芯だけを震わせ、王鈴の輪郭が何度も位置をずらした。
「秤が……“単位外”を示してる」
イリスが灯籠を覗き込み、顔をしかめる。
「沈黙・律・歓喜・凍結、どれにも分類できない。——“外なる拍”」
セレスティアは息を整え、王路を見下ろした。
「迎え路は結んだ。なら、来る前に“迎えの器”を置く」
レイナは剣布を巻き直し、肩で笑う。
「見えない相手ほど厄介ね。刃を立てず、刃を置く」
カイルは太鼓の革を撫で、低く囁いた。
「返ってくるか分からない相手に、まず“返せる面”を作る」
ミュナは芽吹きを掌で包み、こくりとうなずく。
「知らない風でも、根は揺れないように」
——裂け目が、開いた。
音がなかった。
しかし、耳の中にだけ“群れすぎた細音”があふれた。
針の先で机を千回はじいたような、砂粒が硝子に降るような、意味を持たない微小拍が、いっせいに押し寄せる。
「……“名を持たない拍”の洪水版だ」カイルが顔を歪める。
「むら拍より細かい。三拍柵じゃ受けられない」
「単体で意味がないから、影にも落ちない」イリスが指を折る。「沈黙でもない。律にも乗らない。歓喜にも凍結にも、変換できないまま増殖する」
王都の空に見えない雨が降った。
屋根が微かに震え、凧鈴の糸が蜘蛛の巣のように粘つく。
路地の小石でさえ、音なき“さざめき”に擦れ合って疲れていく。
「“摩滅拍”だ」
俺は王鈴を逆さに持ち、輪郭を地に置いた。
「意味を運ばないまま、面を削る拍。——これが“外”」
二 擦り減る街
その夜のうちに、王都は目に見えない疲れを溜めた。
祠の火は消えないが、芯が痩せる。
太鼓は破けないが、膜が薄くなる。
人は倒れないが、笑いが短くなる。
詠の席で読み手が言葉を落とした。
「……“重さ×拍”、本日は……」
次の語を探すあいだに、声が粉になって落ちる。
影歌に触れた女が眉を寄せた。「影が立ち上がる前に、輪郭が擦れる……」
迎え札へ伸びた指が途中で迷い、札の表面が“紙やすり”のようにざらついた。
「このままじゃ、制度そのものが摩耗して“読めなくなる”」イリス。
「歯止めを」セレスティアが短く言う。
ルミナの声が胸に降りた。
『外なる拍は、意味ではなく“量”で侵入する。
——量で受けるな。“粒度(りゅうど)”で受けよ。
粒を束ね、束に“名”を与える。名を得ぬ粒は、境で落ちる』
「粒度で……柵を作る」
俺は頷き、石畳に新しい輪郭を描いた。
「“粒度柵(グラニュ・フェンス)”。一定以下の拍は束ねるまで街に入れない。束ねた単位は“団拍(だんぱく)”として登録する」
イリスが即座に札式を起こす。
「入口——迎え路の上に“粒度門”。下限を定義、束ね単位を“二十七粒一団”。記録は団ごとの“出自=外”のみ、意味未付与」
カイルが太鼓を“面”ではなく“点”で叩き、粒度門のリズムを定着させる。
レイナは剣で石目に微細な切れ目を刻み、粒の“引っかかり”を作る。
ミュナは芽吹きの葉脈に香を通し、微細拍が葉の表面で“結露”のように束になる仕掛けを置いた。
見えない雨は相変わらず降った。
だが粒度門に触れた粒はすぐさま“結び”へ誘導され、石畳の縁で小さな“団”を作った。
団は意味を持たない——ただの“塊”だ。
それでも、無限に擦る砂よりは、握れる砂の方が扱える。
「街の摩滅、速度が下がった」イリスが記す。
「だが止まってはいない」レイナが空を見上げる。「裂け目は広がってる」
三 翻訳不能
翌朝、裂け目から“別のもの”が来た。
濁りのない透明な“輪”だ。
輪は音を発さず、こちらの拍を一切反射しなかった。
太鼓を打っても、剣を振っても、灯を揺らしても、芽を撫でても——輪の内側では“効果”にならない。
カイルが呟く。「……“効かない”」
イリスが唇を噛む。「翻訳不能領域。——こちらのオペランドが、向こうの型に一致しない」
セレスティアが俺を見る。
「内から“和”をねじ込むんじゃない。——外の輪に、外のまま“橋”を架けて」
ルミナが囁く。
『鍵は、こちらの和ではなく“相手の反応”。
——“反応が起こるところ”にだけ触れよ』
反応……。
俺は王鈴を輪に近づけ、わざと鈴の“傷”を見せた。
過去の戦いで、王鈴の縁にできた微かな欠け。
輪の表面で、欠けだけが、ほんのわずか“曇った”。
「傷に、反応する」
レイナが即座に剣の“鍔傷”を近づけ、カイルは太鼓の“補修痕”を示す。
ミュナは葉の“喰われ跡”を、イリスは帳面の“訂正印”を、セレスティアは王路の“補填石”の欠片を。
——輪はわずかに濁り、輪郭に“縫い目”のような線が現れた。
「“完全”では結べない。——“不完全”が、外の輪に引っかかる」
俺は息を吸い、輪の縫い目へ“鍵拍”を落とす。
《左・右・左・止。右・左・右・止。》
鍵は回らない。
だが、縫い目は“こちら側の粒度”を覚えた。
「“縫い橋(スティッチ・ブリッジ)”」イリスが名を与える。
「外の輪に“傷—補修—鍵”の連鎖で縫い、団拍を“越境安全域(セーフ・レーン)”へ導く。——向こうの意味に変換はしない。通すだけ」
粒度門で束ねた団拍の幾つかが、縫い橋を渡り、外輪へ出入りする“往還”を始めた。
街の摩滅はさらに遅くなり、人々の息に“返り”が戻る。
だが——裂け目はまだ、開いている。
四 名づけの危険
夕刻。
粒度門の傍らで、少年が団拍にそっと触れた。
「……“星砂”みたい」
その一言で、団拍の表面に細い光が宿った。
イリスが息を呑む。「名が付いた」
セレスティアが眉を寄せる。「危険?」
「名は“束”を固定する。——扱いやすくなるが、こちらの世界に“居場所”が生まれる。増殖が始まるかもしれない」
まるで合図のように、裂け目から“音なき渦”が降りた。
団拍たちが“星砂”として互いを引き寄せ、大きな“星塵団”へ。
王路の上でふわりと浮き、祠の火に纏わり、太鼓の面に降り積もる。
美しい。
だが、増える。
レイナが低く言う。「名づけたのはこっち。責任はこちら」
カイルが頷く。「名を剥がせば、また砂に戻るか?」
ミュナが首を振る。「名はもう“芽”を持った。剥がすのは“殺し”になる」
イリスが決断した。「なら、“繁殖制限”を。——“季節”を与える」
彼女は札に新たな規定を刻む。
《星砂は薄明にのみ集まり、正午・真夜中には解ける》
セレスティアが布告する。「“名づけは季(とき)と対(つい)で”。名は必ず“対名”と組で置き、片方が増えれば片方が減る」
俺は星砂の団に“対名”を与えた。
《星砂(ほしずな)—影露(かげつゆ)》
夜明けに星砂が増えれば、夕べに影露が増える。
どちらかへ偏れば、対が引き戻す。
星塵団は薄明で集い、昼に解け、夜にまた少し漂った。
——外なる拍に、こちらの“季”を縫い込んだ。
五 向こうの“手”
その夜半、裂け目の縁に“指”が現れた。
骨も皮もない。
ただ、輪郭としての“手”。
縫い橋の縫い目にそっと触れ、こちらの“傷”に触れ、星砂の対名に触れ——引っ込んだ。
「……向こうにも『観る者』がいる」
セレスティアの声は落ち着いていた。
「敵意は?」レイナ。
「まだ、ない。——“試している”。こちらが“固めすぎる”か、“壊しすぎる”か」
ルミナの気配が微笑む。
『外は、敵ではない。
合わせようとすれば溶け、拒めば擦れる。
——“縫って、ほどいて、また縫え”。
固定でも放任でもない“往還”を、街に覚えさせよ』
俺たちは“運用”に入った。
粒度門で束ね、縫い橋で往還させ、対名の季で呼吸を持たせる。
迎え札は“外出自”を明記、影歌は“未翻訳”として別槽に蓄える。
詠は“外往還の章”を増やし、正午告読に“外数(そとすう)”を読み上げた。
カイルは太鼓に“星砂の拍”を加え、レイナは剣に“縫い紋”を刻み、ミュナは祠の裏庭に“影露の庭”を広げた。
イリスは秤を二重にし、内秤と外秤の“偏差”を監視した。
王都は擦り減らなかった。
外は荒れなかった。
裂け目は——細く、長く、開いたまま。
六 外なる名
数日後、子どもたちが広場で遊んでいた。
星砂を集め、影露を追い、薄明の輪を走る。
その中のひとりが、縫い橋の縫い目にふと手を触れ、ぽつりと言った。
「“むこうの街”は、どんな拍で歩くの?」
その問いに、胸の刻印が小さく鳴った。
裂け目の向こうで、誰かが同じ問いを発した気がした。
——“こちらの街”は、どんな拍で歩くの?
俺は王鈴を掲げ、輪郭で答えた。
「《いち・に・置く さん・し・見渡す
ご・ろく・決める ななではこぶ
はちで受ける 九で流す
やすむ・し むかえにいく》」
音は出さない。
だが、縫い橋の向こうで“返事のざわめき”が微かに揺れた。
星砂が薄く光り、影露が庭で丸くなった。
「名を、もらおう」
セレスティアが空を見上げる。
「“外なる拍”に、こちらから呼ぶ名を——“客拍(きゃくはく)”。
客人として迎え、客として返す。
——住まわせない。追い払わない」
イリスが札に刻む。《客拍:粒度定義、往還路、対名季、外出自明記》
レイナが門衛へ伝える。「“客人だ。剣は見せて、抜かない”」
カイルが笑う。「太鼓は置いて、鳴らす」
ミュナが庭を撫でる。「芽は貸して、根は渡さない」
王都の制度に“客拍章”が加わった。
裂け目は閉じない。
だが、口を開けて咬みつく穴でも、押し潰す空でもなくなった。
——“出入り口”になった。
七 余白としての未来
夜更け、塔の上で風を受けた。
空の裂け目は白い糸のようで、星砂と影露が薄明で呼吸している。
向こうの“手”がもう一度だけ縫い目に触れ、今度はゆっくりと離れていった。
「境を、街が覚えた」
セレスティアが囁く。
「境は、閉じ目でも開き目でもない。——“余白”」
イリスが灯籠を閉じる。「数字も同意してる。偏差は許容範囲。外数は昼に減り、薄明に増える」
レイナが剣の鍔を鳴らす。「戦わず、怯えず、鈍らず」
カイルが太鼓を叩かず、手のひらで面を押す。「鳴らす前の拍を、皆が知った」
ミュナが笑う。「芽が“渡り鳥”を待つ音がする」
胸の刻印が、安堵で温かくなった。
ルミナが静かに告げる。
『外は学び、こちらも学ぶ。
次は、外と内の“交歓”。
——“共作(きょうさく)の拍”を置く時が来る』
俺は王鈴を胸に当て、深く呼吸した。
音にならない拍が、確かに輪の底で鳴った。
――――
次回:第二部・第8話「共作の輪——二つの世界で編む歌」
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