第5話「選択の間(あわい)――慈悲と刃のあいだで」
夜が白み始め、荒野に散った黒い影が朝の色に溶けていく。
冷えた風が血の匂いを薄め、代わりに湿った土の香りを運んだ。俺は剣を鞘に収め、荒れ果てた野営地の中央に立っていた。胸の刻印はなお微かに脈打ち、皮膚の下で小さな潮の満ち引きのように熱を往復させている。
救った。――事実はそれだけだ。
だが心は静まらない。
レイナが手短に戦後の処理を指揮している。倒れた兵の確認、火の始末、負傷者の搬送。副団長の声は低く、揺れない。俺はその横顔に、幾度も戦場をくぐってきた人間の強さを見た。
一方、勇者カイルたちはそれぞれ膝をつき、呼吸を整えていた。顔には疲労と、そして言葉にできない感情が浮かんでいる。
「……さっきのは、なんだ」
先に立ち上がったのは魔法使いジードだった。いつも飄々としていた男の声が、砂利の上を引きずるように重い。
「風が変わった。音が形になって、俺たちの耳に刺さった。魔法とも違う、“理”の手触りだ」
彼は自分の指を見つめ、震えを抑えるように握りしめた。
カイルがゆっくりと歩み寄る。鎧の継ぎ目から朝の光が差し込み、彼の影は長く伸びた。
「リオン。お前は……俺たちを助けた。だが、俺は、お前を追放した」
言葉の途中で、彼は飲み込むように口を閉じた。続く言葉が、見つからないのだろう。
胸の奥に、鉄の味を思い出す。あの日、侮蔑の眼差しを浴び、扉が俺の世界を切り分けた音。――ざまあみろ、と言うのは簡単だ。喉元までその言葉はせり上がっている。
けれど、朝の冷気が肺を満たすたび、刻印が“整えろ”と囁いた。俺は深く息を吸って吐く。
「俺は、選ぶ」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「復讐は――今は、選ばない。だが赦しもしない。俺が手を貸すのは、助けを必要としている人間に対してだけだ。過去の清算は別だ」
ざわ……と草の音が揺れた。ミナが目を伏せ、エリナが小さく唇を噛む。ジードはふっと笑い、疲れた肩をすくめた。
「らしいな。リオンらしい」
“らしい”――その言葉の中に、かつて見向きもされなかった俺の輪郭が、今は確かに刻まれている。
レイナが小走りで戻ってきた。頬には煤がつき、額の汗が朝日に光る。
「搬送の準備が整った。重傷者を王都へ運ぶ。……リオン、あなたは?」
「行く。俺の“整え”は道中でも役に立つはずだ」
その返答に、レイナの口元がわずかに緩む。安堵と、信頼。胸の刻印が静かに熱を増し、鼓動が一拍深く沈んだ。
その時だった。
空気がひやりと揺れ、銀糸のような光が集まる。ルミナが現れる前触れ――かと思った瞬間、別の色が差し込んだ。淡い翡翠。朝露を含んだ葉の色。
光の中心から姿を現したのは、髪を翠に結い、鹿のような瞳を持つ女性だった。白い装束の裾が風になびき、その足首を細い鈴が飾る。だがルミナと違って、彼女の周囲には土と草の匂いが濃く漂っていた。
『第二天の巫女神(みこがみ)、ヴェルダ。理のうち“芽吹き”と“循環”を司る』
どこからともなく、ルミナの声が重なる。次の瞬間、彼女自身も柔らかな光と共に現れ、翠の女と並び立つ。
ヴェルダは微笑んだ。春先の雪解けのような、静かで温かい微笑みだった。
『継承者リオン。あなたが整えた風に導かれて来ました。ここに、まだ消えない命がある』
彼女は崩れた馬車の影を指す。レイナが目を細め、すぐに駆け出した。俺とカイルたちも続く。
そこには、若い兵が一人、胸を押さえて倒れていた。脈は弱く、呼吸も浅い。エリナが慌てて治癒を試みるが、光は揺れて定まらない。
「魔の瘴気が肺に残ってる……普通の回復じゃ弾かれる!」
エリナの声に滲む焦り。俺は膝をつき、胸の刻印へ意識を落とした。
――整え。
呼吸の形を見取り、兵の肺に絡みついた黒い靄の輪郭を掴む。ヴェルダがそっと手を添え、薄緑の光が俺の指先へ流れ込んだ。
『芽吹きを貸します。あなたの“調律”が、土に道を作るように、肺に春を入れてあげて』
俺は頷き、指を微細に震わせる。音の螺旋を、今度は胸郭の内側へ――。
黒い靄がほどけ、春風が雪を押しのけるみたいに薄れていく。兵の胸が大きく上下し、弱かった鼓動が一段強くなる。
「……助かったのか?」
カイルが息を呑む。エリナは震える手で兵の額に触れ、泣き笑いの声を漏らした。
「生きてる……ちゃんと、生きてる」
ヴェルダは満足げに目を細めた。
『よくできました、継承者。――この地は枯れかけていた。あなたが風を通し、彼が息を思い出した』
ルミナが続ける。
『二柱(ふたはしら)の理は、互いに響き合う。お前が“整え”て道を開けば、“芽吹き”はそこに流れ込む。忘れるな、リオン。お前はひとりで完全ではない。人と神、剣とことば、怒りと慈悲――対にあるものが、お前を強くする』
怒りと慈悲。
俺は視線を上げ、カイルを見た。彼もまた俺を見ていた。かつての仲間、いまは試される隣人。
「……ありがとう、リオン」
不器用な声。カイルが言葉を探しながら、乾いた唇でそれを絞り出した。
「どう謝ればいいか分からない。お前を切り捨てたのは俺だ。俺は――勇者の看板に、溺れていた」
返事は、すぐには出てこなかった。赦せと言われて赦すほど、俺は器用じゃない。だが、斬りつけるだけでは、刻印が疼く。
「……今は、それでいい」
俺は短く言った。
「謝罪は、行いで示せ。王都に戻ったら、負傷者の搬送と、隊の再編に協力しろ。俺の指示にも従ってもらう」
レイナがわずかに眉を上げ、次いで肯(うなず)いた。
「副団長としても異存なし。現状、最も戦況を読めるのはリオンだ」
エリナが戸惑い、ミナが顔を上げる。ジードはぼそりと呟いた。
「……やっぱり“らしい”よ、お前」
彼の口元には、疲労の隙間からのぞく微かなほほ笑みがあった。
隊列を組み直し、王都へ向けて出立する。
道中、俺は先頭に立って風の道を整え、瘴気の溜まりを避けるように進路を引いた。ヴェルダは時折、地に触れては枯れた草を起こし、負傷者の担架の下に柔らかな苔の層を生み出した。
レイナは後衛で周囲を警戒し、カイルたちは中央で傷を抱えながらも歩を進める。
小高い丘の上で休憩を取った。王都の城壁が霞の向こうに見え始める。俺が水袋を回していると、ミナがそっと近づいてきた。
「ねえ、リオン」
「なんだ」
「……あの時、追放の場で、私が“降りた方がマシ”って言ったの、覚えてる?」
喉元に冷たい手が触れたような感覚。忘れるはずがない、あの日の言葉の棘。
「覚えてる」
「取り消す。……いや、取り消しても届かないのは分かってる。でも、私、弱かった。怖かった。あなたを盾にして、自分の失敗を見ないようにしてた」
ミナはぎこちなく頭を下げた。風に揺れる髪に、鈴の音が微かに混じる。
「王都に着いたら、あなたの指示に従う。私にできること、全部する」
俺は少しだけ肩の力を抜き、短く頷いた。
「それでいい。……今は」
離れた場所で、エリナがヴェルダに祈りを捧げていた。彼女の治癒光は、先ほどよりも明るい。ヴェルダが教える呼吸の合わせ方を真剣に真似し、時々こちらを見ては小さく会釈する。
憎しみは消えない。けれど、動き出したものは確かにある。
王都の門前にたどり着く頃、空は高く、雲は白く千切れていた。城壁の上で兵士が角笛を鳴らし、内側から門が開く。
最初に駆けてきたのは、王女セレスティア自らだった。緋のマントを翻し、深紅の瞳が隊列を走査する。
「重傷者は医術院へ。副団長、報告は後回し。まずは人だ」
的確な指示。彼女は俺の前に立ち、真っ直ぐに見つめる。
「――選んだのね、リオン」
「はい。復讐を飲み込む代わりに、条件を突きつけることにしました」
王女の口元に、獲物を見定める鷹のような笑みが走る。
「気に入った。人は時に刃よりも条件で裁くべきだと、私は思っている」
レイナが負傷者の搬送を見届け、戻ってくる。
「殿下、戦力の穴が大きい。外縁の警戒網も薄くなっています」
「分かっている。だからこそ――」
王女はわずかに身体を乗り出し、俺と視線を合わせた。
「“継承者評議”を開く。神々に選ばれた者と、王国の重臣、そして騎士団の代表。……リオン、あなたも席に着きなさい」
空気が固まった。廷臣の一人が思わず声を上げる。
「殿下! 一介の追放者を評議の席に?」
セレスティアの瞳が氷のように冷える。
「一介? 彼は王都を救い、勇者隊を救った“理の継承者”。肩書きのない者に席を与えるのは、王の器量よ」
言葉に誰も逆らえず、空気が収束する。俺は自分の鼓動が少し速くなるのを感じた。――場違いではない、とルミナは言っていた。なら、座ろう。
評議の前、短い休息を与えられた。医術院の中庭で、俺は泉の縁に腰を下ろす。水面に映る空は、王都に来てから見たどの空よりも澄んでいる。鳩が水を飲み、遠くで鐘が鳴った。
そこへ、白い狐耳の巫女装束を揺らしながら、一人の娘が歩いてきた。十四、五だろうか。白銀の髪を肩で切り、琥珀色の瞳が陽光を集める。装束の袖口から見える指は細く、しかし弓弦に馴れた硬さがある。
「……継承者さま?」
控えめな声。娘は両手で胸元を押さえ、丁寧に頭を下げた。
「聖獣庵(せいじゅうあん)から参りました。白狐の巫女、ミュナと申します。第二天のヴェルダさまの“揺枝(ゆりえ)”を運ぶよう仰せつかり、まいりました」
ミュナは、細長い木筒を捧げ持つ。中には、若い柳の枝が一本、薄緑の光に包まれて眠っていた。
『揺枝は、理の風に敏感です』と、ヴェルダが耳元で囁くように言う。「あなたが整えた場所では、枝がゆっくり揺れます。……危うい場所では震え、濁った場所では重く垂れる。道を選ぶ助けに」
「ありがとう、ミュナ。助かる」
俺が礼を言うと、彼女は少しだけ頬を赤らめ、尾の先――否、帯の房をもじもじと揺らした。
「その……王都は初めてで。迷ったら、助けてください」
そこへ、レイナがやってくる。彼女はミュナを一目見るなり、優しく微笑んだ。
「大丈夫。私が案内しよう。評議の間は少し複雑だから」
視界の端で、王城の回廊の陰から、セレスティアがこちらを一瞬だけ見て、意味ありげに微笑んだように見えた。――新しい出会いを、彼女は意図的に用意している。神々だけでなく、人もまた、俺の周りに“輪”を作ろうとしている。
そして、評議の刻。
円卓の上に、王国の地図が広げられ、要衝の城砦に赤い石、神域に青い石、瘴気の溜まりに黒い石が置かれていく。老練の宰相、武骨な将軍、学匠院の長。そこにルミナとヴェルダ、王女セレスティア、レイナ。そして――俺。
場違いという言葉が脳裏をかすめるたび、胸の刻印が呼吸を整えてくれる。ミュナは円卓の外側に控え、揺枝の筒を抱えて立つ。
最初に口火を切ったのは宰相だった。
「魔王軍の動きはこれまでと違う。同じ時間に複数の群れが湧き、連携して攻めてくる。まるで“誰か”が指揮を執っているようだ」
将軍が唸る。
「勇者隊の戦力が落ちていることも見透かされている。王都外縁の村が次に狙われる」
セレスティアが俺に視線を向ける。
「リオン。――継承者の目で見た戦場を、語りなさい」
円卓の視線が集中する。俺は一度息を整え、言葉の形を選んだ。
「瘴気の流れが変わっています。渦は人の恐怖に触れると濃くなり、恐怖が薄れると散る。『整え』は渦を割き、人の呼吸を揃える。そこにヴェルダの『芽吹き』を重ねれば、瘴気は根を失う。――ただし、渦の中心が“意志”を持っている気配がある」
円卓がざわめいた。学匠院の長が眉を上げる。
「意志? それは、魔王そのものか、それとも眷属か」
「まだ掴めません。ただ、渦は“音”を嫌がる。鈴の形や、言葉の響きに反応する。次の戦場では、兵に“呼吸の号令”を導入してほしい。足並みを合わせるだけでも、渦の噛み合わせはずれる」
将軍が膝を打つ。
「簡単で、効果的だ。やってみよう」
セレスティアが満足げに頷き、宰相に目配せをする。
「ならば、決まりだ。――継承者リオン、君に“王国整律官(せいりつかん)”の任を与える。兵と民の呼吸を整え、神々の理を戦場に橋渡しする役目だ」
重い言葉。空気が一瞬、凪いだ。俺は自分の中に生まれる躊躇を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「拝命します。ただし条件がある」
廷臣たちがぴくりと動く。王女が面白そうに目を細めた。
「言ってみなさい」
「勇者隊の行動は、当面、私の作る整律計画に従うこと。彼らの“名目上の勇気”に任せて突っ込ませるのは、理を乱します」
円卓の向こうで、カイルが息を呑む。だが、彼は立ち上がり、頭を垂れた。
「従う。……俺は、学ぶ必要がある」
その声には、確かな痛みと、わずかな光があった。
セレスティアが宣言する。
「王国整律官リオンの提案を採用する。明朝より兵に呼吸号令を教え、隊列の歩幅を統一、鈴音合図(れいんごうず)を導入する。――それから」
彼女の視線が円卓の端へ滑り、ミュナを射抜く。
「白狐の巫女ミュナ。あなたは整律官補として同行しなさい。揺枝は、王都の新しい羅針盤になる」
ミュナは慌てて一礼し、琥珀の瞳をこちらに向けて輝かせた。
「は、はいっ。……よろしくお願いします、リオンさま」
その素直な声音が、張り詰めた場の端を柔らかくした。レイナが小さく肩の力を抜いているのが見えた。
評議が終わり、回廊に出る。長い一日だった――いや、始まったばかりだ。
柱の影で立ち止まると、ルミナが歩み寄り、ヴェルダが隣に並ぶ。二柱の神は、異なる光を纏いながらも、同じ川の水が合流するところのように、自然に肩を寄せて立った。
『お前は刃を飲み、条件を掲げた。人の中で最も難しい選択の一つだ』とルミナ。
『芽吹きは、雪を責めない。雪解けの水が土に染みる道を、そっと開くだけ』とヴェルダ。
二人の言葉が胸に沁み、刻印の熱が穏やかになる。
ふいに、背後から足音。
「リオン」
振り向くと、カイルが立っていた。瞳の色は、荒野で見たときよりも静かだ。
「俺は、しばらく剣を置く。訓練に戻る。呼吸を学ぶ。……その上で、お前の隣に立てる日が来るなら、その時は」
言葉は最後まで言葉にならなかった。だが十分だった。俺は小さく頷く。
「その時は、相応しい役割を渡す」
カイルが一礼し、踵を返す。彼の背は、初めて“勇者の背中”に見えた。看板ではなく、人としての。
隣でレイナが、少しだけ笑った。
「やれやれ。あなたの周りは忙しくなるわね、整律官殿」
「副団長の手を借りることになる。覚悟はいい?」
「もちろん」
彼女は軽く剣の柄を叩き、冗談めかして言った。
「それに、あなたの呼吸に合わせるのは、嫌いじゃない」
頬が、少しだけ熱くなる。ミュナが遠くで揺枝を覗き込み、枝がゆっくりと揺れる。――ここは“整っている”。
王都の空に、夕の鐘が鳴った。
赦しではない。復讐でもない。
俺は二つのあいだ、綱の上を歩く。
刃を飲み、手を差し出す。その手には、条件という柄をつけて。
胸の刻印が、一度、静かに――確かに、脈打った。
――――
次回:第6話「継承者評議、暗い調べ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます