【ポストアポカリプス・ハードボイルドSF短編小説】権利執行人ノア ~ジャッジメント・エンフォーサー~(約17,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第一章 砂漠の掟

 私の名はノア。


 この瓦礫だらけのフロンティアじゃあ権利執行人エンフォーサーと呼ばれている。


 国家が崩壊して百年。


 世界は無数の独立都市国家群コムが点在するだけの乾いた荒野だ。ここでの法はただ一つ『契約』。


 コム同士で交わされた契約書。


 それだけがこの世界の絶対的な正義だ。

 そして私の仕事は契約を破った裏切り者を追い詰め、その不履行分を実力で『清算』すること。


 つまり私は正義の味方じゃない。

 ただのフリーランスの、夜警だ。


 腰のホルスターに収まったグロック17が、今日も冷たい重みを主張している。この銃は私の恋人であり、商売道具であり、そして最後の切り札だ。引き金を引く度に誰かの運命が決まる。それが私の生き方だった。


 今朝もいつものように目覚めた。安宿のベッドから身を起こし、窓の外を見る。砂嵐が街を覆い、建物の影がぼんやりと浮かんでいる。ここは中央ターミナル――フロンティア最大の交易拠点だ。各コムからの商人、傭兵、情報屋、そして私のような執行人たちが日夜行き交う場所。


 洗面台で顔を洗い、鏡に映る自分を見つめる。面白くもない、いつもの女の顔。頬に走る小さな傷跡は三年前のナイフファイトの記念品。茶色の髪を後ろで束ね、黒いレザージャケットを羽織る。いつものユニフォームだ。


 下階のカフェで朝食を取る。ブラックコーヒーと固いパン。味は期待しない。この世界で美味いものを食おうなんて贅沢は諦めている。


「ノア、仕事だ」


 カウンターの向こうから声をかけてきたのは店主のマックス。五十過ぎの元傭兵で、今は情報屋を兼業している。彼の右腕は義手だ。十五年前の戦闘で失ったと聞いた。


「どんな案件だ?」


「エデンからの正式依頼。契約違反の清算。相手はプロメテウスだ」


 私はコーヒーカップを置いた。プロメテウス。西部の鉱山コムとしては最大規模の要塞都市。軍事力も相当なものだと聞いている。


「面白そうじゃないか。詳細は?」


「直接話を聞いた方がいい。エデンの使者が来てる。二階の個室で待ってるよ」


 私は階段を上がった。廊下の奥の部屋をノックする。


「どうぞ」


 中に入ると、六十を超えた女性が窓辺の椅子に座っていた。白髪を丁寧に編み込み、質素だが品のある服装。だが何より印象的なのは、その瞳に宿る鋼鉄の意志だった。


「あなたが噂のエンフォーサー・ノア……ですね」


「エデンの長老ミリアム様とお見受けします。お話を聞かせてください」


 私は向かいの椅子に腰を下ろした。ミリアムは皺だらけの手でコーヒーカップを握りしめている。


「エデンはプロメテウスに貴重な食料を供給し、プロメテウスはエデンに地下水脈からの水を供給する。それが二つのコムを繋ぐ生命線でした」


 彼女の声は枯れているが、確固とした怒りに満ちていた。


「だが一ヶ月前、プロメテウスからの水の供給が何の前触れもなく止まりました。エデンは干上がり、滅びかけています。子どもたちが渇きで泣いているのです」


 私はブラックコーヒーを一口飲んだ。

 苦い。

 この世界と同じように。


「プロメテウスのウィルシャーを連れ戻し、契約を履行させてください」


 ミリアムは続けた。


「それができなければ、彼女のコムが持つ全ての資産の所有権はあなたに移譲されます。それが契約です」


 途方もない報酬。

 そして途方もなく危険な仕事。

 プロメテウスは武装した傭兵団が守る難攻不落の要塞都市だ。


「契約書を拝見します」


 ミリアムが差し出した羊皮紙を手に取る。古典的な契約書の体裁だが、内容は現代的な取引条項で満たされている。水の供給量、食料の品質基準、そして違反時の賠償規定。全て明確に記載されている。


「プロメテウス側の署名も確認しました。これは有効な契約ですね」


「ええ。そして一ヶ月前から一滴の水も届いていません」


 私は契約書を返した。


「分かりました。仕事を引き受けます」


 ミリアムの顔に安堵の表情が浮かんだ。


「ありがとうございます。エデンの子どもたちを救ってください」


「ただし」


 私は人差し指を立てた。


「私のやり方に口出しはしないでください。結果だけがすべてです」


「もちろんです」


 契約成立。私は立ち上がり、ドアに向かった。


「ノアさん」


 ミリアムが呼び止める。


「何でしょう?」


「プロメテウスは……変わったと聞いています。以前とは全く違うコムになったと。お気をつけください」


 私は振り返らずに答えた。


「変化は好機だと考えます。隙も生まれる」


 扉を閉めた後、私はもう一度グロック17の重みを確かめた。


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