第34話「記憶の境界――忘れることと残すこと」

 夜明けの広場に薄い霜が降りていた。

 覚え書き石の白が朝日に光り、その隙間を縫って子どもたちが木の棒で霜を払う。棒の先で「九三」「蝶番」「眠気」の刻みが浮かび、ユイがひとつずつ指でなぞっていく。

 「石は冷たいけど、夢は温かい」

 ユイはそう言って笑い、石の上で掌を温めるように置いた。影が薄く震え、夢の注が石へ沈む。燃やせない温度が、刻みの底へしみこんだ。


 朝の鐘が三つ。政庁からの使者が布告を掲げ、広場の掲示板に新しい板が打ち付けられた。題は**「忘却規程」。

 読み上げられた条は短く、冷たい。

 「重すぎる記憶は、申請により公的に消尽できる。忘却の式は政庁が管理し、神殿の観測院と共同で執行。夢の注は私的記録とみなし、秩序に勘定しない」

 群衆にざわめきが走る。

 老婆の澄が杖で石畳をとんとんと二度叩いた。「忘れることを決めるのは誰**だい?」

 使者は答えられず、巻紙の末尾を指差す。「……政庁の忘却局設置により審査し、王の名において承認する」


 俺は胸の痣に触れた。影獣が低く唸り、王位影紋の箱が足元でわずかに重みを増す。

 エリシアが顔をしかめる。「“忘れる権利”を制度にしたいのは分かる。でも、誰のための忘却なのかが抜けている」

 ディールは筆で空中に枠を描いた。「四重票に“忘却”の欄を増やすべきです。忘却の理由と期限、そして代位の記録。消す代わりに、何を残すのか」

 ユイが力強くうなずく。「“忘れる詩”を置こう。ぜったいに消したい痛みには、ことばで包帯を巻くの」


 灰の旗の男が腕を組んでいた。

 「包帯は便利だ。傷を隠せる」

 ユイは首を振る。「隠さない包帯。透ける布。見るといたいけど、見えるから、うずかない」

 灰の旗の男は肩を落とし、苦笑をもらした。「……やさしさで帳尻を合わせるのは、いつも子どもだな」

 「大人が“重い皿”を持てばいい」俺は言った。「忘却は秤の片方だ。忘れない皿と釣り合わせる枠組みを、今ここで置く」


 午前の風読台は異様な静けさだった。沈黙帳の列は短く、四重票の周囲で人々が「忘却規程」を睨む。

 先に台へ上がったのは北堀の兵、昨日“涙の沈黙”を残した青年だ。

 彼は札を持たず、目を閉じて言った。

 「忘れたくないけど、眠るために薄めたい」

 ユイが砂時計を傾ける。「“薄める申請”を受けます。期限は?」

 「季節が変わるまで」

 ディールが四重票の端に新欄を設け、**「薄忘(はすわす)申請」**と記す。

 エリシアが補う。「代わりに残すのは?」

 兵は少し考えて、「灯の重さ」と答えた。「交代の刻の眠気、あくびの回数、手の震え」

 四重に“薄忘”が載る。忘却は消尽ではなく、希釈へ姿を変えた。


 次に台へ上がったのは南市の若い母親。抱き上げた幼子の頬は眠りの赤で、目尻にまだ昨夜の涙が残っている。

 母は震える声で言った。

 「忘れたい。夫の最後の顔を。……でも、声は忘れたくない」

 広場が静まる。

 ユイがそっと近づき、母の手を包んだ。「“顔だけ、薄める”を選べます。夢の注に“声”を深く残そう」

 ディールが四重票の“忘却欄”に小さく枠を割り、部位忘却の印を作る。

 「顔:薄忘(季節一つ)。声:保持(夢・風)」

 俺は王位影紋に触れ、母の影にやさしい輪郭を縫い付けた。見えすぎる輪郭が、少しだけ柔らかくなる。

 拍手は起きない。ただ静かな呼吸が揃った。


 昼前、政庁の忘却局が設けた仮の窓口が広場の北側に開いた。

 石の机、灰の幕、無表情の書記官。

 列は伸び、しかし進みは遅い。

 窓口では「理由」と「証拠」を求められ、人々の言葉がすり減っていく。

 「忘れたい」の声は、列の終わりでは「忘れていいなら忘れる」に変わる。

 俺は遠くからそれを見ながら、胸の痣を強く押さえた。

 忘れたいは切実だ。だが、忘れてよいは制度の言葉だ。

 両者がすり替われば、秩序は人を磨り潰す。


 ユイが戻ってきて、眉を寄せる。「ねえ、おじさん。窓口は“忘れる人”を選んでる。声の出ない人は後回し。字の書けない人は印だけじゃだめって」

 エリシアが唇を噛む。「公平の衣を着た排除……」

 ディールが筆先を整え、短く言う。「並び替え秤を置きます。——“弱い人から先”」

 風読台の脇に小さな板が立ち、「並び替え札」が吊される。

 子どもが聞き取り、印や札を持たない者の理由を口で写し、札を掲げる。

 札は窓口の列に割り込む権利になった。

 灰の旗の男が片眉を上げる。「秩序を路上で上書きするのか」

 「路上でしか上書きできない秩序もある」俺は答えた。

 王の使者は遠目に見て小さく頷き、兵に目配せした。列は静かに、しかし確実に並び替えられていく。


 午後、忘れる詩が必要になった。

 忘れてよい痛み、忘れなくてよい痛み。

 境界は刃のように薄い。

 ユイは鍵の束を揺らすように指を動かし、子どもたちを集めた。

 「“忘れる詩”を作るよ。詩は刃じゃなく、鍵。閉じるんじゃなく、開けたり戻したりする鍵」

 子どもたちは炭筆を握り、短い行を重ねた。

 > 見たいときだけ

 > 見えるように

 > 目を半分だけ

 > 開けておく

 > ひかりがしみる日は

 > まぶたに手

 > でも鍵は首に

 > 結んでおく


 ユイが最後に一行を足す。

 > 合図は「ここにいる」


 風読台で詩が読まれ、沈黙帳に**「鍵の沈黙」**が新設される。鍵の沈黙は、忘れたい朝と向き合うための合図だ。

 詩が終わると、広場の空気が少しだけ温かくなった。燃えない温度が、境界をなめらかにする。


 そのとき、忘却局の幕が炎上した。

 火の手は高くない。むしろ静かだ。

 灰の幕の下から、黒い消尽札がいくつも投げ出される。札には「承認済」の文字。

 リクが剣を抜かず、消尽札を足で払いのけた。「誰かが局を狙った。……いや、局が自分を燃やした匂いだ」

 書記官が蒼白な顔で叫ぶ。「記録が消えた!」

 ディールが即座に走り、黒焦げの札の影を掬い上げる。

 「残り香はある。“誰かが忘れたいと願った”という意図は残っている。内容は消えた」

 エリシアが息を呑む。「“忘れる権利”だけが残り、“何を”が消えた……」

 俺は王位影紋に触れ、箱に囁く。「意図を預かってくれ。内容は街に戻す」

 箱が深く重みを増し、消尽札の影を吸い取った。

 ユイは子どもたちと駆け、広場の夢の注に座を開く。

 「“忘れたい”って、どんな形?」

 「胸のここが熱くて、背中が寒い」

 「匂いは鉄。味はない」

 意図の手触りが夢の帳に集まり、消えた内容の座標がぼんやりと浮かぶ。

 忘れさせる刃は、意図の温度までは奪えない。


 日が傾く頃、観測院の長が現れた。灰衣の目は深く、広場の板を一枚ずつ撫でていく。

 「忘却局の火は、式の誤作動だ。消尽は痛みを薄めるための器だったが、秩序の抜け穴にされた」

 長は俺に視線を向ける。

 「器よ。忘却を誰が担うべきか、今日はっきりさせよう」

 「人だ。忘れたい主体が持つ」

 長は頷いた。「神殿は慰める。政庁は手続きを整える。選ぶのは本人。——その秤を、ここに置け」

 王の使者が前に出る。「王命。“忘却の選択台”を広場に設け、子どもと商組と影路監の三者で運営せよ。忘却局は補助に退く」

 忘却の権限が、幕の内から場へ移った。

 群衆の中に、深い安堵が波紋のように広がる。


 選択台の準備は早かった。風読台の隣に低い卓を置き、三つの椅子――忘れたい人/書き取る人/見届ける人。

 書き取るのは子ども。見届けるのは商組の年寄り。

 ユイが台の縁に小さく刻む。「ここは泣いていい」

 最初の選択者は、昨日の若い母だった。

 「顔を薄める。声は残す。匂いは、雨の日だけ思い出す」

 子どもが静かに書き、年寄りが頷く。「雨の日は、みんな膝が痛むからのう。忘れたくない日だ」

 薄忘は季節へ紐づけられ、夢の注は天気へ結ばれた。

 忘却は秩序に取り込まれるのではなく、生活へ縫い付けられた。


 夕暮れの風読台。

 ユイが「忘れる詩」の続きとして、新しい短い歌を掲げた。

 > わすれる日は

 > まぶたに水

 > おぼえる日は

 > まぶたに火

 > どちらも

> 人のまぶた


 歌のあと、沈黙帳に**「まぶたの沈黙」**が増えた。

 目を軽く閉じるだけの、短い黙礼。忘れる側と忘れない側が互いに見えるための、共通の合図だ。

 灰の旗の男が帽子の内側を握り、台に立って「まぶた」を一度だけ落とした。

 それを見た兵士が、同じように一度だけ目を閉じた。

 境界はまだ刃のように薄い。だが、渡し板が一本かかった。


 夜。

 詰所の卓に、四重票の新しい版型が広げられる。

 紙(条文)/声(読み)/影(王位影紋)/注(例・手触り)に、忘却(薄忘・部位・期限・代位)と夢の注の欄が足された。

 ディールは満足げにうなずき、ペン先を洗う。

 「記録は太くなった。だが——」

 影術師が続ける。「境界はまだ、狙える。次は、“記録が厚いほど”狙ってくる刃だ。重荷化。記録の重みを、人の肩にそのまま乗せる術」

 エリシアが拳を握る。「帳簿を武器にする連中が動く……」

 リクは窓の外の灯を見て、短く言う。「守るのは数字じゃない。背中だ」


 王位影紋の箱が、静かに熱を返した。

 触れると、遠い王たちの忘れなかった痛みが、薄い鐘の音のように指先を震わせる。

 俺は箱に囁く。

 「忘れる秤と忘れない秤、両方を置いた。箱よ、代価は重いか」

 箱は重い。だが、温かい。

 ユイが毛布から顔を出し、眠そうに聞いた。

 「おじさん。忘れる人と、忘れない人が喧嘩したらどうするの?」

 「喧嘩の席を用意する。——“境界卓”。まぶたを一度だけ落としてから、順に三つ言う。『ここにいる』『いまはむり』『あした話す』」

 ユイはうなずき、目を閉じた。

 「まぶた、便利だね」

 「便利だ」俺は笑い、灯を落とした。

 外では、覚え書き石の白が月に淡く光り、夢の注の温が広場に薄く広がっている。

 境界は刃ではない。人の歩幅で越えるための線になる。

 街はその線を覚えはじめた。

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