第33話「忘れさせる刃――記録消尽の夜」

 朝、広場の三重帳と沈黙帳と四重票を確かめたとき、最初の違和に気づいたのはユイだった。

 「ねえ……昨日の“税の注”が、どこにもない」

 紙にも影にも、声の記録にも、確かに存在したはずの「パン一斤」「夜番の眠気」の例と手触りが――消えていた。


 ディールが帳簿を繰る。

 「消えたんじゃない。“なかった”ことになっている」

 エリシアが顔を蒼くした。「政庁の印まで、昨日の頁を飛び越えている……」

 確かに昨日の夕刻、王の使者が署名した。俺も触れた。子どもたちも書いた。

 なのに、その“昨日”自体が人々の頭から抜け落ちている。

 群衆は「昨日は布告が延びただけだった」と口々に言い、頷き合う。

 まるで昨日の重さが、街の記憶ごと削り取られたかのようだった。


 影術師が低く言う。

「これは“消尽の式”。忘却帳簿を逆手に取った刃だ。

 本来は重すぎる痛みを少しずつ薄めるための祈祷だった。だが今は、都合の悪い記録を街ごと忘れさせる」


 ユイが袖をぎゅっと握る。

「忘れるのは、いたいのをやわらげるためじゃないの?」

「そうだ。だが、誰かが“痛くないほうがいい”と決めれば、全部が消せる」

 俺は胸の痣に触れた。影獣が唸り、牙を食いしばるように光を返す。

 「……秤に“忘れる皿”を増やす。忘却を全部奪うんじゃなく、“置き所”を決める」


 その日の午後、俺たちは**覚え書き石(おぼえがきいし)**を広場に置いた。

 街のあちこちから集めた白い礫を磨き、名前や例を短く刻む。

 「パン一斤」

 「夜番の眠気」

 「蝶番の油」

 刻んだ文字は影の中に埋め込み、一度刻めば削れないよう、王位影紋の糸を通す。


 ユイが石を指で撫でる。

 「これ、ちいさいから、なくすかも」

 俺は頷いた。

 「だから“夢の注”を足す。眠る前に皆で石を読む。読みながら、自分の夢に“石の場面”を置く。朝になって石がなくても、夢に残れば秤に戻せる」


 子どもたちは笑った。

 「夢の宿題だ!」

 「寝るのがこわくなくなる!」

 石と夢。記録と記憶。

 街に、二重の保全が築かれた。


 だが、敵もまた刃を研ぐ。

 その夜、広場に影の裂け目が現れた。

 影の奥から、声のない囁きが聞こえる。

 『昨夜は存在しない』『君たちは石を刻んでいない』『夢はただの夢』

 裂け目の前に立った人々の目が虚ろになり、石に刻んだ記憶が薄れていく。


 ユイが前に出た。

 「ちがう。夢に残ってる」

 小さな掌が石を撫で、夢の中で見た“蝶番の油”を言い直す。

 「冷たくて、ぬるぬるして、においがした」

 子どもたちが次々に夢を重ねる。

 「夜番があくびした」

 「パンが焼けて、こげめがあった」

 夢の手触りが場を埋め、裂け目の囁きを押し返す。


 影獣が吠え、痣の光が夜を裂いた。

 裂け目は痙攣し、やがて眠るように閉じた。

 残ったのは、小さな礫ひとつ。

 石にはまだ「九三」と数字が残っていた。昨日の沈黙の長さ。

 忘却の刃でも削れない、場の重みだった。


 翌朝、政庁は布告を出した。

 「夢の注は記録に非ず。秩序は石に刻まれるもの」

 だが広場の人々は笑っていた。

 「石は壊れる。でも夢は残る」

 「夢は誰のものでもない。だから、刃も奪えない」


 俺は王位影紋の箱へ触れた。

 箱は重くなり、痛みを帯びていた。

 『器よ。忘却を預かるのは、秩序か、人か』

 俺は答えた。

 「秩序は“置き所”を示す。だが、預けるのは人だ。忘れたくないものを夢に繋げる。それが秤の役目だ」

 箱は静かに熱を下げ、広場の空気に溶けた。


 その晩。

 ユイは毛布に潜りながら言った。

 「ねえ、忘れないと生きてけないこともあるんだよね」

 俺は頷いた。

 「ある。だから秤に“忘れる皿”がいる。忘れない皿と、忘れる皿。その二つで釣り合う」

 「じゃあ、あたしが持つのはどっち?」

 「……両方だ。忘れたいのも忘れたくないのも、お前は夢で秤にかける」

 ユイは目を細め、安心したように眠った。


 外の広場では、子どもたちが夢に石を埋め込む儀式を繰り返していた。

 忘却の刃が迫る夜ごとに、夢の中に灯が増える。

 街は夢で守られる秤を、少しずつ覚え始めていた。

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