第31話「声を奪う刃——沈黙の裂け目」

 朝の広場は、いつになく軽かった。

 三重帳の前に人の輪ができ、紙・声・影の三つが揃うたびに、安心のため息があちこちで落ちていく。

 ユイは風読台の紐を点検し、ディールは三重照合票の欄外に新しい印を加え、エリシアは商組の蔵から持ち出した机の脚にくさびを打ち直す。

 ――秤は、増えた。増えた秤は、街の歩幅を整える。


 昼下がり、北堀の方角から兵が駆け込んだ。

「声が出ない人が出ている!」

 最初は一人。夕刻までに八人。いずれも昨日、反論板に詩を貼った者だという。

 喉は赤くも腫れもしていない。怒鳴りすぎた形跡もない。ただ、口を開けば、息しか出ない。


 俺は痣に触れ、影を覗いた。

 喉の奥に、薄い膜が張られている。声帯の影を撫でて、音の立ち上がりだけを奪う膜。

 影術師が低く言う。

「祈祷の応用だ。声を“鎮める式”を、人に向けた」

 エリシアが顔をしかめる。「声を奪えば、三重の一つが折れる」

 ディールは筆を止めずに言った。「声が欠けても、紙と影が残る。だが、場の温度が落ちる。風読台は、人の息の温で保たれているから」


 ユイが袖をぎゅっと握った。

「おじさん、どうするの? 声を返せる?」

 俺は頷きかけ、そしてやめた。

 返すことはできる。だが、返すたびに狙われるなら、いたちごっこだ。

 秤そのものに「声の欠落」を載せる必要がある。


 その夜。

 詰所の机に、王位影紋の箱を置く。箱はわずかに熱を帯び、遠い王たちの息遣いが底から伝わってくる。

『器よ。声は影より脆い。声の秤はどこに置く?』

 俺は答えた。

「沈黙を記録する。声が出ないことを、声の代わりに板へ載せる。沈黙を“無”にしない」


 翌朝、「三重帳」の横に新しい板が立った。

 題は――沈黙帳。

 紙には日付と場所、沈黙した人の印(名ではなく印)と、沈黙の長さを記す欄。

 風読台では、沈黙を音として読むための新しい式を試す。

 ユイが風読台の鐘をそっと鳴らし、口上を述べた。

「きょうから“沈黙読み”をします。札を読めない人は、黙ったまま台に立ってください。私たちは、黙っている時間を数えて、風の帳に写します」

 群衆の表情が揺れた。ざわめきと戸惑い。その向こうから、最初の沈黙が歩いてくる。


 台に上がったのは、昨日「帳簿は鎖だ」と詩を書いた職人の女だった。

 唇を開き、閉じ、開き、閉じる。そのたび、声は出ない。

 ユイが砂時計を回し、ディールが秒を刻む。

 三十。六十。九十。

 女の沈黙は、九十と三で終わった。

 俺は王位影紋に触れ、女の影をなぞって「九三」を刻む。

 紙・影・時間の三つで、沈黙が存在に変わる。

 拍手が起き、とまった。

 拍手してよいのか、まだ誰も知らない。

 老婆の澄が、小さく手を叩いた。次に子どもが真似をし、やがて広場を柔らかい音が包む。

 拍手は**“よく黙った”ではなく、“黙りを見た”**という合図だ。


 沈黙帳の列が伸びる。

 灰の旗の男も帽子を胸に当て、灰印だけを残して台に立った。

 砂が落ち、三十。

 彼は途中で一度だけ、笑った。

 声は出ないまま、笑いが影にシワを付ける。

 「笑いの沈黙」とディールが書き添え、ユイが風の帳の端に小さく波線を引いた。

 影の膜がほんのり温かくなり、広場の澱が薄まる。


 昼頃、兵が一人、沈黙のまま台へ上がった。

 札がない。印も持たない。ただ目を閉じて立つ。

 砂が落ちる。四十。五十。

 五十四で彼は膝をつき、肩を震わせた。

 ユイが慌てて駆け寄り、兵の背に手を置く。

 兵は口を開いても声が出ず、額を台の板に当てた。

 **泣いている。音のない泣き声は、言葉よりも深く場を揺らした。

 俺は王位影紋に触れ、兵の影に“涙(るい)”と印し、沈黙帳の欄外に「涙の沈黙」**を追加する。

 エリシアが布を差し出し、群衆が道を開ける。

 静かだ。静かを担ぐ方法を、街が覚え始めている。


 午後、事態は一段深く潜った。

 影術師が駆け寄り、小声で告げる。

「沈黙の裂け目だ。声の奪取だけではなく、“沈黙を餌にする口”ができている」

 向かったのは東区の路地。

 井戸の縁に、黒い楕円が呼吸していた。

 近づくと、足音すら吸い込まれていく。

 路地の壁に貼られた反論札が、端から白紙に戻っていた。言葉の影だけが剥ぎ取られている。

 ユイが歯を食いしばる。「声を“食べてる”……!」


 俺は痣を押さえ、影を覗く。

 裂け目の底で、舌のような影が蠢いていた。

 声の立ち上がり、語尾の熱、笑いの震え――そうした微細な影だけを舐め取る舌。

 「返す」だけでは足りない。味を変える必要がある。

 影術師が短く言う。「**無音の詞(ことば)**で打て」

 俺は頷き、ユイに合図する。

「“札のない読み”、覚えているな」

「うん」

 ユイは裂け目の前で、掌を広げた。

 口を閉じ、ゆっくり吸って、吐く。

 呼吸の長さと角度で、言葉の形だけを空気に刻む。

 ディールは砂時計を二つ用意し、呼気と吸気の時間を書き分ける。

 エリシアは周囲の人垣に手を広げ、「一緒に」と囁く。

 十人、二十人、五十人――路地全体が静かに呼吸を揃えた。

 “ありがとう”

 “ごめんなさい”

 “怖かった”

 “ここにいる”

 声にならない言葉が、息の秤に乗る。


 裂け目の舌が、一瞬だけ動きを止めた。

 音の栄養を奪う口に、無音の詞は味がない。

 俺は痣の糸を裂け目の縁へ打ち、ユイの無音の拍(はく)に合わせて縫わず、撚(よ)って締める。

 影はほどけるより前に、眠ることがある。

 裂け目は眠り、呼吸をやめた。

 周囲の反論札に、薄く戻った影が滲む。文字は半分しか戻らない。だが半分は、もう一度書ける。


 広場へ戻る道すがら、ユイは肩で息をしていた。

「……むねが、いたい」

 俺はその背に手を置き、影をなだめる。

 呼吸の秤は、担い手の胸を削る。

 ディールが沈黙帳の末尾に新しい欄を加えた。

 「息(そく)」——沈黙を支える呼吸の負担。

 数字は小さく、しかし確かに残る。


 夕暮れ。

 風読台に、声の戻らない詩人が上がった。

 彼は口を開かず、胸で拍を刻み、指で空に字の骨格を描いた。

 ユイがそれを隣でなぞり、ディールが拍の数で分かち書きにし、俺は王位影紋に触れて影の温で句点を押す。

 詩が、声の外側で完成する。

 拍手はいつもより長く、穏やかだった。


 その最中、王の使者が駆け込んだ。

「王より布告。“沈黙の帳”を公の記録とする。沈黙は罪に非ず、秩序の負担なり。」

 広場に短いざわめきが走り、やがて落ち着く。

 王は“声がない者”を秤の片皿に正式に置いた。

 見えない重みに、重さの単位が与えられた。


 夜、詰所。

 王位影紋の箱がゆっくりと熱を冷ます。

 影術師が灯を一つ落とし、言った。

「声を奪う刃は、一時退いた。次は、意味を奪う刃が来る。言葉を言葉で空にする、空の祈祷だ」

 リクが眉をひそめる。「言ってるのに、言ってないことになるやつか」

「そうだ。意味の皮を剥ぎ、“言葉は言葉だった”だけを残す。記録は残るが、重みが抜ける」


 エリシアが机に指で小さな輪を描く。

「意味を守る秤……注(ちゅう)を増やす? 語の説明を?」

 ディールは頷き、紙束を差し出す。

「『言い得て足らず帳』。言葉の外側を補う注の帳。読み手が責任を分有する仕組みです」

 ユイが目を輝かせる。

「注は“やさしい言い方”でもいい? こどもの言葉で、むずかしい言葉を縫い直すやつ」

「それが一番強い」と影術師。「意味は、やさしい方へ落ち着く」


 眠る前、俺は箱に触れて呟いた。

「沈黙を返した。次は意味を返す。箱よ、まだ預かれるか」

 箱はじんわり温かく、そしてほんの少しだけ重くなった。

 代価は溜まる。だが、場も増えた。

 俺たちは秤を担ぎ直す。

 影は静かに頷き、夜の底で眠った。

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