第30話「静かな刃——帳簿改竄の影」

 夜更けの詰所。

 灯を落とし、机に広げられた帳簿を一つひとつ確かめていたときだ。

 ディールが眉をひそめ、指でなぞった。

「……おかしい。“疼・八”と記録したはずが、“疼・三”になっている」

 紙は確かに俺が署名した筆跡だ。だが、数字がすり替えられていた。


 リクが身を乗り出す。

「誰かが帳簿を書き換えたってことか?」

「それも——影を通してだ」

 エリシアが息を呑む。

「紙の上じゃなく、“影の層”を削って数字を置き換えた……神殿の祈祷師しか知らない術よ」


 胸の痣が熱を帯びる。影獣が低く唸り、ひとつの言葉を吐いた。

「——改竄(かいざん)」


 翌朝。

 掲示板に貼られた帳簿の前で、人々が口論していた。

 「疼が八だったのに、三に減ってる!」

 「昨日より軽くなったなら、いいことじゃないか!」

 「いいことじゃない! 俺たちの痛みが削られてる!」


 秩序は数字で保たれている。だが、その数字が静かに変えられるなら——秩序は土台から崩れる。


 ユイが影を撫でて首を振った。

「帳簿の影が震えてる。昨日のと違う道を歩いてる」

 ディールが記録札を三枚並べる。

「三重照合を導入しましょう。

 一、紙の帳簿。

 二、風の帳。

 三、王位影紋。

 三つが揃って初めて“本物”とする」


 エリシアが頷く。

「紙は燃える。風は消える。影は隠れる。三つを並べれば、どれか一つを壊されても残る」


 その日の午後。

 広場の風読台に子どもたちが集まり、照合式の初演が行われた。

 まず紙に数字を記す。

 次に子どもが声に出して読む。

 最後に俺が王位影紋に触れ、影の光で数字を刻む。

 三つを並べ、皆の目に晒す。


 群衆が息を呑み、やがてざわめきを上げた。

「三つとも同じだ……」

「これなら改竄できない!」

「誰の声も、消えない!」


 その熱の中、ただ一人——灰の旗の男は難しい顔をしていた。


 夜。

 詰所の窓に影が忍び寄る。

 影の中から、白布で顔を覆った人物が現れた。

 手に持つのは筆ではなく、細い刃。

 「数字は信じられぬ。だから消す」

 低い声。

 俺は机を守り、影獣を呼んだ。

 「消すのではなく——照らせ」


 影獣の咆哮が狭い部屋を震わせる。

 白布の人物は刃を振るうが、影の中で刃が鈍った。

 ユイが影糸を絡め、リクが腕を押さえる。

 布を剥ぐと、現れたのは——政庁の書記官だった。


 エリシアが顔を強ばらせる。

「政庁自ら、数字を改竄していた……」


 翌日、掲示板に新しい板が立った。

 題は**「三重帳」**。

 紙と声と影を並べる記録の場だ。

 群衆は集まり、順に数字を確かめた。

 「これが、改竄に抗う秤……」


 王位影紋の箱が足元で震えた。

 『器よ。三重は強い。だが、三重を壊す刃は必ず現れる。次は声を奪う刃だ』


 胸の痣が痛み、俺は息を吐いた。

 数字を守った次は、声を守らなければならない。


第30話ここまで

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