第20話「裂け目の囁き」
広場で秤を並べた翌夜、王都は一見静かに見えた。
だが、耳を澄ませば普段とは違う音が聞こえる。
井戸の底で水が泡立つような、壁の隙間で風が鳴るような、低い囁き声。
それは人々の声ではなく、影そのものが発している声だった。
詰所の窓辺で、俺は痣を押さえた。熱はない。だが、影獣が胸の奥で落ち着きなく動いている。
ルナ——いや、昼の名を得たユイが、帳面を抱えて駆け寄った。
「ねえ、広場の井戸からずっと声がするの。『返せ』『ほどけ』って。……影が呼んでるみたい」
ディールが記録の紙束を繰りながら答える。
「今日の市井報告でも同じです。“影が話しかけた”と訴える者が五件。昨日までは一件もありませんでした」
エリシアが唇を噛む。
「神殿は必ず“災厄の前触れ”と宣伝するわ。でも、あの声は……」
彼女の瞳が揺れる。「……どこか、人に似ている」
リクが腰の剣を確かめながら言う。
「声の正体を突き止めなきゃな。囁きに怯えて暴れる前に」
翌朝、王都の西門近くの井戸へ赴いた。
人々が恐る恐る覗き込み、子供を抱き寄せる母親の姿が目に入る。
井戸の水面は澄んでいたが、底から黒い影が薄く揺れていた。
「……聞こえる?」
ユイが井戸の縁に耳を寄せる。
俺も痣に触れ、影の声を拾う。
『返せ……返せ……』
繰り返し。だが、そこに混じる別の言葉があった。
『名を……置け』
ユイが顔を上げた。
「名を、だって……」
エリシアの声が震えた。
「これは祈祷じゃない。人に影が名を求めている……」
俺は井戸の縁に膝をつき、影に指を沈めた。
冷たい。だが、切り裂くような敵意ではない。
まるで——居場所を探している子供の手だ。
「名を置く……なら」
俺はユイの木札を取り出した。
昨日広場で使った『糸、ほどきます』の刻印がある。
それを水面にかざし、低く呟く。
「返す。名を置く」
水面が震え、井戸の底の影が小さく波を打った。
囁きが変わる。
『……帰る……』
水面から黒い粒が浮かび上がり、ユイの掌に落ちた。
ただの水滴だ。だが、冷たさと共に温もりが混じっている。
群衆がざわめく。
「……影が静まった?」
「本当に……」
だが、その静寂を破るように鐘の音が轟いた。
政庁の方向から急使が駆け込んでくる。
「東区の路地で裂け目が出た! 声に呼ばれた人間が自ら影に飛び込んだと!」
広場が騒然とする。
ユイが俺の袖を掴む。
「おじさん、急がないと!」
東区の路地は既に兵に封鎖されていた。
裂け目は人一人がやっと通れるほどの大きさで、地面に黒い口を開けている。
周囲には呻く人々。「声に導かれた」と口々に言っていた。
裂け目の縁には、司祭の姿があった。杖を構え、怒りを隠さず叫ぶ。
「見ろ! 囁きに従った結果だ! 影路監の甘言が人を影に誘ったのだ!」
群衆の視線が俺に突き刺さる。希望と不安が入り混じる眼。
俺は一歩前に出た。
「声は“返せ”と告げた。従えと言ったのではない。居場所を求めているだけだ」
司祭は嘲るように笑った。
「ならば証せ。人を呑んだ裂け目から、影を返せ!」
俺は裂け目に手をかざす。
痣が熱を帯び、影獣が胸で唸る。
影の中から、確かに人の影が震えていた。
縫うことはできる。だが、強く縫えば裂け目ごと閉じてしまい、中の者を切り捨てる。
弱くすれば、逆に裂け目が拡がる。
ユイの声が届く。
「ねえ、“昼の名”を置いて! 人の名を!」
俺は頷き、裂け目に向かって声を投げた。
「——アオ!」
昨日拾った少年の名。
影がびくりと震え、裂け目の中から小さな影の手が伸びた。
俺は迷わずその手を掴み、影をほどく。
裂け目が唸り、狭まり、人の体が押し戻されるように現れた。
顔色の悪い青年。震えているが、生きていた。
群衆がどよめき、誰かが叫んだ。
「返した! 人を返したぞ!」
司祭の顔が強張る。
「……秩序を乱す……器が秩序を奪う……!」
俺は青年を兵に託し、静かに言った。
「影は秩序を壊していない。秩序に収まらない声を上げただけだ。声を拾い、返すのが俺たちの仕事だ」
群衆の声が高まる。
「返せる……!」
「影は敵じゃない……!」
そのざわめきが、司祭の祈祷よりも広場を覆った。
その夜。
詰所に戻った俺は机に突っ伏した。体は重い。痣は灼けるように熱い。
だが、胸の奥の影獣は静かに喉を鳴らしていた。
返せたのだ。影だけでなく、人を。
ディールが記録を閉じ、言った。
「影路監調停二号、記録完了。裂け目からの“返還”。王都史上初めての記録です」
エリシアが小さく微笑む。
「人々の声も、記録になるわ。秩序ではなく、希望として」
ユイが机に乗り出し、真剣な目で言った。
「おじさん、次はもっと大きな裂け目が来るよ。影が“試してる”」
痣が熱を帯び、耳に再び囁きが響く。
『器……選べ……』
影は、次の問いを突き付けてきていた。
第20話ここまで
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