第19話「二つの式、広場の秤」
翌朝、王都中央の広場は異様な熱気に包まれていた。
石畳の中央に長い卓が二つ据えられている。片方は神殿の祈祷陣を描いた白布、もう片方は俺たちが用意した粗い板卓——その上に紙と秤、麦袋の切れ端、そして「パンの秤」と名付けられた帳面。
群衆は早朝にもかかわらず押し寄せ、屋台の影まで人の息で濃くなっていた。兵が列を整えるが、人々の眼差しはどれも真剣だ。昨日の裂け目と、無能神の使徒の噂が街全体を揺さぶっている。
壇上には王の使者と政庁の役人、そして商人組の代表。宰相の姿はないが、視線の奥に彼の目が潜んでいる気配があった。
神殿の司祭が杖を掲げ、祈祷陣の中央に立つ。衣の裾に光が集まり、布全体が淡い輝きを帯びる。
「秩序とは神の言葉。影は乱れるが、祈祷により正される。今日ここで示そう」
俺は反対側の卓に立ち、痣に触れて息を整えた。ルナが板卓の端に座り、影を撫でて準備する。エリシアは商人組の札を掲げ、群衆に告げた。
「こちらは生活の式。影を数字と重みで測り、返すことを目的とします」
ディールが帳面を広げ、筆を構えた。
リクは背後で腕を組み、警戒を怠らない。
最初の試料は、南市の穀倉から持ち出した麦袋の一部だ。昨日、影抜けに使われた袋の切れ端。
司祭が唱える。言葉は長く、音は響き、布の光が麦袋に降りかかる。袋は淡く震え、欠けた部分が光に飲まれるように薄れた。
「見よ。乱れは祈祷により均された」
布の上で袋は整って見える。だが、俺の目には影が細く削られていくのが見えた。袋の影の厚みが減り、元の重みから乖離していく。
俺は秤の上に同じ袋の欠片を置き、ルナに合図した。
「影を撫でろ。昨日の癖を呼び出す」
ルナの指先から影が薄く伸び、袋の欠片がわずかに透けた。
俺は痣の熱を指先に集め、袋の影をほどく。
――重みが戻る。秤が傾き、麦粒の小さな音が響いた。
「数字で見せる。欠けは七割戻り、抜け癖は二回の撫で直しで修正。昼の名の効力時間は三刻」
ディールが数字を記し、群衆に掲げる。
ざわめき。
「重さが……」
「戻った……!」
商人組の者たちが顔を見合わせ、兵士たちが口を半開きにする。
司祭の顔が歪んだ。
「数字に惑わされるな。祈祷は罪を削ぐ。影を返すだけでは、罪は残る」
俺は応えた。
「罪はここで決めるものじゃない。俺たちは“重み”を返す。返った重みをどう使うかで、人の責任が測られる」
その時、広場の端で声が上がった。
「だったら、俺のを返してみろ!」
痩せた男が袋を掲げ、前に出る。商人組の外れの顔。昨夜、印判屋と繋がっていた連中の一人だろう。
袋は破れ、麦はほとんど失われている。
「これは影に抜かれた。神殿は均すだけで返さなかった。返せるなら、やってみろ!」
群衆がざわつく。試しを突きつけられたのだ。
俺は袋を受け取り、卓に置いた。
ルナが影を撫でるが、反応は弱い。
「癖が深い……」
エリシアが小声で言う。「何度も抜かれて、影がほとんど擦り切れてる」
司祭が嘲る。「見ろ。器を名乗っても、この通りだ」
胸の奥で影獣が唸った。痣が灼ける。
俺は指を袋に沈め、影の奥に耳を澄ます。
……腹が鳴る音。あの少年の声。
影は“欲”に呼応する。飢えた腹の音が、抜け癖を強めていたのだ。
「なら、昼の名で縫う」
俺は昨日ルナに与えた名を思い出す。
「ユイ。縫え」
ルナが真剣に頷き、袋の影に名を置いた。
影がざわめき、袋がふくらむ。
秤が鳴り、重みが三割、四割、五割……七割まで戻った。
男の目が揺れる。「……返った、だと……」
群衆が沸き立った。
「返したぞ!」
「数字で、見える……!」
兵士の一人が声を張る。「影路監、重みを返した!」
司祭は杖を叩きつけた。布の祈祷陣が強く光り、俺の卓の影を焼こうとする。
影獣が吠え、俺の影を守る。
王の使者が立ち上がった。「やめよ! 今日の場は“秤を並べる”ためのものだ!」
沈黙。
光が収まり、影が戻る。司祭は顔を覆い、背を向けた。
広場に残ったのは数字と重み、そして人々の声。
「祈祷じゃなくても……」
「返せるんだな……」
その声は恐れではなく、希望に似ていた。
俺は秤の上の袋を見つめ、静かに言った。
「影は罪じゃない。影は重みだ。俺たちは、返す」
その瞬間、影が胸の奥で静かに喉を鳴らした。
——秤は、並んだ。
第19話ここまで
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