第50話 オンオフわんこと、形を成す決意
どうにか着替えを済ませて階下に下りた俺は、沙霧よりキッチンへの立ち入り禁止令を食らうことになった。どうやら、昼までは徹底的に弁当の内容を秘匿する方向らしい。
沙霧が焼いてくれたトーストを噛り、これまた沙霧が用意してくれたカフェオレを啜る。ここでも、弁当のおかずの余りは出てこなかった。
うーん……。
めちゃくちゃ気になる……。
だめと言われると余計に見たくなるのが人の性。俺は朝ご飯を食べつつ、テーブルの上にこれ見よがしに二つ並べられた弁当箱をじっと見つめる。
そろりと手を伸ばすと、すぐに横から沙霧に阻まれた。やんわりと手を重ね、指を絡めてくる。昨夜の夕飯に引き続き、今朝も沙霧は俺の隣に座り、肩が触れ合うような距離感で食べていた。
「いけませんよ、ご主人様っ! めっ、ですわんっ♡ おいたをすると、お昼抜きにしちゃいますよ?」
「うっ……それは、困る……」
腹ペコ状態で午後の授業とか、普通に倒れそうだ。
半分くらいは俺が作ったものなのに……。
そんな反論も、手をにぎにぎされたらたちまち霧散してしまう。
「ふふっ、ご主人様はいい子ですわんね♡」
諦めたのを悟ったのか、沙霧は俺の頭をよしよしと撫でてきた。せっかくいい感じにセットした髪が乱されるのを歯がゆく思いながらも、その心地良さに目を細めた。
こんなの、朝から幸せすぎる……。
学校、行きたくなくなるんだけど……。
けれど、時間は無情に過ぎていく。気付けば、家を出る時間が迫っていた。
「わんっ♡ ご主人様ぁ、そろそろ参りましょうか」
「んー……もうちょっと撫でて……」
「私も、もう少しこうしていたいところですが……遅刻しますよ? それとも──」
沙霧は俺の顔を覗き込み、甘く挑発的な笑みを浮かべた。
「今日は、サボってしまいますわん?♡ そしたら、心ゆくまで甘やかしてさしあげられますし。ですが、仲良く二人揃ってお休みなんてしたら、噂が再燃してしまうかもしれませんね?♡」
「うっ……わかったよ。行こう、すぐ行こう……」
騒動を鎮火してくれた沙霧の頑張りを、無駄にするわけにはいかない。俺は渋々、椅子から立ち上がった。
「あおーーーんっ♡ 朝のお散歩に出発ですわんっ♡」
「本当、お散歩好きだねぇ」
「ただのお散歩には興味ないですわんよ。でも、ご主人様とのお散歩だけは特別ですの♡」
そう言って沙霧は、弁当箱を二つとも自分の鞄にしまい込んだ。
「あ、あれ……俺の分は?」
「お昼休みになったらお渡ししますわんっ♡ ご主人様はえっちですので、その前に覗いてしまうかもしれませんもの」
「えっちなの関係なくないっ?! しかも着替えを覗かせたのは沙霧だったよねぇっ?!」
「きゃいんっ♡ やはりご主人様のツッコミは最高です♡ はぁ……これで今日も一日乗り切れますわん♡」
「……左様で」
相変わらず沙霧は、俺のツッコミが大好物なようだった。
そんなこんなで、俺達は朝のお散歩──もとい、学校に向かうべく家を出た。もちろん、リードという建前でしっかり手を繋ぎ、指を絡めながら。
「沙霧、わかってると思うけど、人に見られそうになったら離れるんだよ?」
「心得ておりますよ、樹くん。私もそこまで愚かではありませんもの。ですが……それまでは、こうしていてほしいですわん♡」
沙霧は最後の一言だけ、小さな声で呟いた。昨日の登校時のトレーニングをしっかりとマスターしているらしく、わんこモードのオンオフを使い分けていた。
さすが沙霧、賢い。それでこそ俺のわんこだ。おまけに、可愛いことまで言ってくれる。
俺は胸を打たれて、沙霧の手をきゅっと握りしめた。その時が来るまで、決して放さないという意思を込めて。
「……うん。俺もできれば、ずっとこうしていたいし」
「わんっ♡」
可愛らしく小さく鳴いた沙霧は、さらに俺に身を寄せ、左腕に抱きついてくる。確かこれは、抱っこ散歩という体だったか。柔らかな体温が押し付けられて、ドキドキが止まらない。
一昨日よりも昨日。
昨日よりも今日。
日ごとに、距離が縮まるスピードが加速度的に上がっている。
関係性は、依然としてご主人様とわんこのままなのに。これこそ、沙霧の発明した『わんこモード』のなせるわざなのだろう。
毎朝こうして、甘えてもらえるのが嬉しい。でも同時に、今のごっこ遊びの関係がどこまでも続いてしまったら──
そんな不安が、心のどこかでこっそりと顔を出した。
目の前には、高い壁がそびえ立っていた。俺はそこに、真正面からぶつかった。
思い至ってしまったのだ。
この先に進むためには、どうしたらいいのか──って。
沙霧は俺に、ずっとご主人様でいてほしいと言った。それは裏を返せば、今の関係性をずっと変えないでほしいということでもある。
俺の望みは、沙霧と普通の恋人同士になること。でも、沙霧にその気が全くないのだとしたら……。
手の平に、じわりと汗がにじむ。その瞬間、俺の不安の火を煽るように、沙霧の手が離れていこうとした。
思わず、追いすがった。強く、沙霧の手を握り直した。そうしないと、この数日がなかったことになるような気がして。
けれど沙霧は、そっと俺の手を振り解いた。指先から、ゆっくりと沙霧の温もりが消えていく。それがやけに冷たく感じた。
「……沙霧?」
「もう……お気持ちは嬉しいのですが、また誰かに見られてしまいますよ? ですので、下校まで我慢してくださいね」
「えっ……?」
優しく諭すような言葉で、俺はようやく我に返った。沙霧は完全に擬態モードに入っているようで、わん語を封じている。慌てて周囲を見ると、俺達と同じように登校する生徒の姿がちらほらと。
「ご、ごめんっ……! なんか俺、ぼーっとしてたみたいで……」
「ふふっ、困った樹くんですね。見られないようにと言ったのは樹くんですのに」
穏やかな表情で、沙霧はくすくすと笑う。そして、人目を忍ぶように俺の耳元に顔を寄せた。
「大丈夫ですよ。リードがなくても、逃げたりはしませんから。ねっ、ご主人様っ♡」
言葉だけで心臓を鷲掴みにされたようだった。胸が高鳴り、不安は薄れていく。
沙霧は俺から離れ、半歩分距離を空けた。寂しくはある。
でも、覚悟が決まった。
このままだと、俺はきっと後悔する。
「沙霧……」
小さく呼びかけると、澄んだ瞳が俺を見つめた。
「樹くん、ここからは名字で」
「あぁ……そうだね。月島さん、俺──」
名字で呼ぶのも、すごく久々に感じる。つい三日前までは、そう呼んでいたはずなのに。
不思議なくらい、くすぐったい。でも、これから口にしようとしていることを思えば、これでいいのかもしれない。
沙霧という呼び方は、今は愛犬に向けたもの。それを新たに書き換えるには、一度原点に立ち返る必要があるはずだ。
わんことしてじゃなく。
一人の女の子に向けて、想いを告げるためには。
俺は深く、息を吸い込んだ。胸の中で暴れている感情が、ゆっくりと確かな形を成していく。これを吐き出せば、もう戻れない。
気楽なごっこ遊びを──終わらせる時が来たのだ。
「俺さ……月島さんの、こと……」
「おいっ、樹っ! お前、また月島と一緒かよっ!」
バシーーーンッ!!
不意に、思い切り背中を叩かれた。
「すっ───っ?!?!」
激しい衝撃で、言葉が喉の奥に吸い込まれていく。
…………。
誰だよ、ちくしょうっ!
くそっ、こんなタイミングで邪魔しやがって……!
言いそびれただろうがっ!
殺意すら覚える勢いで振り返ると、昨日の朝と全く同じ表情をした健太が立っていた。
まーたお前かよ、ケンタウロスめ……。
心の中で悪態をつく俺の視界の端で、一瞬だけ、沙霧の瞳が揺れた気がした。
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