第35話 秘密のわんこと、下校のお誘い

 全ての授業が終わり、放課後になった。


 あれから、俺や沙霧を問い詰めようとする輩は一人も現れなかった。逆に、関われば痛い目に合うと思ったのか、皆そっと距離を置いている。


 ならば、俺もこのまま何食わぬ顔で帰るのが正解だろう。ここで下手に沙霧と接触すると、また余計な火種を生むだけだ。


 とはいえ、朝は仲良く手を繋ぎ、お散歩わんわんスタイルで登校してきた俺達である。下校はどうするつもりなのか、ちらりと沙霧を盗み見る。


 帰り支度を済ませた沙霧は、すくっと席を立つと、迷いなく俺の方へと歩いてきた。その視線の真っ直ぐさに、思わず背筋が伸びる。


 ……まさか、ここで『ご主人様ぁっ♡ 一緒に帰りますわんっ!』とか言い出さないよな?


 不安に冷や汗が流れかけたが、どうやら杞憂だったらしい。沙霧は俺に目もくれず、すぐ真横を通り抜けて教室を出ていった。


 なんという肩透かし。俺は呆然と、去っていく沙霧の背中を見送る。


 いや、これじゃ俺が期待してたみたいじゃんか……。


 もちろん、できることなら好きな女の子と一緒に下校したいとは思う。たとえ、付き合っていないとしても。


 けれど、それが公になった時のリスクはあまりにも高い。さっきの大騒動が良い例だ。


 ため息を一つついた直後──視界の端に違和感を覚えた。机の上に、さっきまではなかったはずのものが存在している。


 それは四つ折りにされた紙切れ。タイミングからして、すれ違いざまに沙霧が落としていったものだろう。


 つまり、沙霧からの手紙。ドクンと心臓が跳ね、俺はなにかに取り憑かれたようにその紙を開いた。


『ご主人様へ♡


 校門を出て少し行ったところでお待ちしておりますわん。あまり待たされると寂しくなってしまうので、早く来てくださると嬉しいですわん♡


         ♡あなたのわんちゃんより♡』


 女の子らしい丸っこい字で書かれたその手紙には、『♡』がこれでもかと散りばめられている。


 どう見ても、ラブレターだった。ただし、差出人がわんこ属性を持っていなければの話だが。


 けれど、下校のお誘いには違いない。これで浮かれるなと言う方が無理がある。手紙を大切にポケットにしまい、俺は跳ねるように立ち上がった。


 教室を飛び出す前に、健太に声をかける。友人なのだから、別れの挨拶くらいは礼儀だろう。


「ケンタウロス! 俺、先帰るわ!」


「おいアイバーっ! それ蒸し返すなって!」


「いや、面白すぎたからつい。まぁなんでもいいけど、スーパーの特売が俺を呼んでるからもう行くわ!」


 真っ赤な嘘であるが、罪悪感はあまりない。嘘を隠すために嘘を重ねるのは、身を守るための防衛本能なのだ。


「おま……それが男子高校生のセリフかよ……樹らしいっちゃらしいけどさぁ」


「それが俺だからね。んじゃ、また明日」


「おう、また明日な」


 さすがに可哀想なので、髪薄井には触れずに廊下に出る。そして下校の波に紛れ込んだ。


 本当なら、今すぐにでも走り出したい。それを抑え込み、流れに沿うように昇降口を目指す。急ぎすぎて、人目のある場所で沙霧に追いついてしまっては元も子もないから。


 傾き始めた日差しを受けるグラウンドでは、部活の声が響いていた。帰宅部の俺には縁がないけれど、そういう青春も悪くないと思う。


 でも──今の俺にはもっと大切なものがある。


 降って湧いた幸運。家の前で拾った沙霧との時間は、かけがえのないものになっていた。


 ……が、沙霧の姿はまだ見えない。


 通学路の住宅街を歩きつつ、ポケットの中の手紙を指先でなぞる。『少し行ったところ』とは、いったいどこを指すのやら。


 もしかして、迷子になってるんじゃ……?


 あのポンコツわんこならあり得る。一度引き返した方がいいかもしれないと思い始めた瞬間──


 ふいに曲がり角から、ばっと黒い影が飛び出してきた。


 反射的に受け止めると、胸に柔らかい衝撃が走り、ふわりと甘い香りが広がる。


「ご主人様ぁっ! お待ちしてましたわんっ♡」


 黒い影の正体は、俺の愛犬、沙霧だった。まるで本物のわんこが甘えるように、身体を預けてくる。


「ちょっ、沙霧っ?! ここ、外っ!」


「きゅーん♡ だって、会えたのが嬉しかったんですもんっ……!」


 頬を擦り寄せながら、しゅんと犬耳を垂らす沙霧。校外に出たことで、すっかりわんこモードが解禁されているらしい。


「っとに……とにかく離れて。またバレかけても知らないよ?」


「おや? 今日の功労者である私に、そんな冷たい態度をとってもいいんですわん?」


「うっ、それは……」


 謎理論と力押しではあったが、鮮やかに問題を解決したのは、確かに沙霧である。


 俺が言葉を詰まらせると、沙霧はくすりと微笑んだ。


「ふふっ、冗談ですわんっ。大恩あるご主人様を脅すような真似、私がするはずないでしょう?」


 沙霧はいたずらっぽく笑って、俺の胸から離れたかと思うと、今度は左腕にぎゅっと抱きついてくる。


「秘密にしたいのは、私も同じですよ。なので、ちゃんと周りに誰もいないことは確認済みですわん♡ さっ、帰りましょう、ご主人様っ?」


「えっ……まさか、このままっ?!」


「もちろんですわん♡ ここからはまた、楽しいお散歩タイムですわんっ!」


「いやっ、朝のお散歩と全然違くない?!」


 密着度が桁違いだった。手を繋ぐのも大概だったが、これはそれ以上に刺激的すぎる。


 柔らかい感触も、ほんのりと熱くなった体温も、トクトクと少し速いリズムを刻む心臓の鼓動まで伝わってくる。


「いいじゃないですか。抱っこ散歩、ですわんっ♡」


「それ、抱っこするのって飼い主の方だよねぇっ?!」


 ついまた、大きな声を上げていた。


 抱っこ散歩──それは、飼い主が愛犬を腕に抱えてする散歩のことである。断じて、愛犬が飼い主に抱きついてするものではない。


 しかしそこは沙霧。常識的な理屈をぶち破ることにかけては、右に出るものはいない。うっとりと吐息をもらし、俺の肩に額を押し付けた。


「はぅ……♡ 朝ぶりのご主人様のツッコミが疲れた身体に沁みますわん♡」


 だめだこりゃ……話が通じない。


 こうなってはお手上げだ。諦めて、沙霧のお縄につくしかない。


 でも、悪くない。いや、むしろ最高か?


 好きな女の子にここまで甘えられて、嫌がる男などいるものか。


 そんなことを思っていると、沙霧がすっと背伸びをして、俺の耳元に顔を寄せた。


「ご主人様ぁ♡ 抱っこ散歩中も、リードは必須ですわん。わんちゃんが急に飛び出したりしたら、迷子になってしまいます。なので──」


 そう囁くと、沙霧は俺の手に自分の手を重ねた。そして、するりと指を絡めてくる。


「絶対に離れないように、捕まえててほしいですわんっ♡」


 わんこ理論、恐るべし。俺の心臓は嬉しい悲鳴を上げながら、静かに停止した。


 あぁ俺……。

 今、愛犬に──飼い主として、躾けられてる。

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