第34話 火消しわんこの、泥舟航海

 沙霧のポンコツっぷりは、常に俺の予想の斜め上をいく。先にまともすぎる大嘘に感動してしまった分、今の衝撃は計り知れない。


 樹が苗字だと思っていた──それだけなら、まだ理解できなくもない。実際にも、世の中には居るだろう。


 だから、そこで止めておけばよかったんだ。あの段階で『勘違いしてましたわんっ♡』で済ませておけば、きっとギリギリで誤魔化せたはずだ。なのに──


 なんでそこから更に一歩踏み込んだのっ?!

 アイバーってなによっ?!


 海外の方ですか?!

 俺、バリバリの日本人なんだけど?!


 我が家の家系は、俺の知る限り日本人の系統である。海外の血が混ざっているなんて話は、これっぽっちも聞いたことがなかった。


 ちくしょう……変な名前付けやがって!

 沙霧がその気なら、俺もサギリィヌっ呼んでやるぞ!

 わんこだけになっ!!


 もうツッコミが追いつかない。他の皆がいなければ、たぶん今頃、声が枯れるほど叫んでいたと思う。


 そして、そんな沙霧のポンコツ発言の結果がこれだ。誰もが目を点にして、ぽかんと間抜けに口を開きっぱなしにしている。まるで、時が止まってしまったように。


 どうすんのよ、この状況?!


 妙な間が流れた。恐らく、皆の頭の中が『?』で埋め尽くされていたのだろう。処理が追いつくまで、時間がかかったらしい。


 そこから真っ先に動いたのは、脳が単純構造な健太だった。


「──樹、アイバーって……ぷっ、あ、アイバーー!?」


 耐えきれずに健太が吹き出すと、それ合図に一気に教室全体が爆笑の渦に飲み込まれる。


「ぶははっ! アイバーって!! どこの人っ?!」


「あははははっ! ちょっと月島ちゃん、面白すぎっ!」


 そんな中、笑いながら健太が俺の肩をバシバシと叩いてくる。


「樹っ! お前、名前すらまともに覚えられてないのなっ!」


「うっさいわ! 俺のせいじゃないしっ! なら──次はこいつの名前、言ってみてよ」


 俺は健太を沙霧の前に突き出した。沙霧は真面目くさった顔で健太を見つめ、言う。


「えぇっと……桜肉、ケンタウロス、くん……?」


「全然違うわっ!! なに俺、ケンタウロスの肉?! 馬刺しかなにかかよっ?! 桜井健太なんだが?!」


 健太の顔が、真っ赤に染まる。周囲の笑いは、さらに爆発した。


「ご、ごめんなさいっ! 私、人の名前を覚えるのが苦手で……!」


「ほらみろ! 健太だって覚えられてないじゃん!」


「いや、お前が言うなし!」


「はぁ? アイバーの方が全然マシだろうが!」


 というか、俺の名前はちゃんと沙霧に認識されてるもんね!

 拾った時に正しく呼んでもらったし!


 けれど、それを知るのは俺一人だけ。ポンコツ沙霧ワールドがクラス全体を侵食していく。笑いすぎて、泣いているやつまでいる始末だ。


 そこでもう一人、手を挙げる猛者が現れた。


「さすがに、俺はわかるよな?」


 キザったらしく髪をかき上げ、爽やかな笑みを浮かべながら前に出たのは、神生かみういかけるという男だ。顔が良いせいか、女子からは絶大な人気を誇るとか。


 若干いけ好かない部分はあるが、まぁそこまで悪いやつでもない。そんな男も、沙霧の手にかかればどうなることやら。


 沙霧は一瞬考え込んで──静かに言った。


髪薄井かみうすい、抜けるくん、でしたっけ……?」


「う、薄くねぇしっ! 抜けねぇからっ!! まだフサフサだよぉっ!!」


 神生は、半泣きになってその場に崩れ落ちた。


「お、おいっ……! 神生がやられたぞっ! って……どしたん、こいつ?」


「いやさ……こいつのとーちゃん、三十代初め頃からかなり来てたらしくて、自分もそうなるんじゃって心配してんだよ。だから……髪のことは禁句なんだ」


 どこからともなく、ご丁寧な解説が聞こえてきた。


「神生っ! おいっ、しっかりしろっ!」


「あわわっ……! すいませんっ、悪気はなかったんですが!」


 よく言えたものだ。こんなのむしろ、悪気しかないやつだろうに。その証拠に、沙霧の目の奥が笑ってる。


「うぅ……いいんだ。どうせ俺はハゲる運命なんだよ……」


 ……あ、これアウトなやつだ。


 コンプレックスを抉るなんて……。

 沙霧、恐ろしい子っ……!


 もうやめたげて!

 皆の腹筋がもたないから!


 凄惨なイジメの現場を目撃してしまった気分だった。けれど、神生がダウンしたことで、事態は大きく動き始めた。


 これを見て、次に挑もうとする命知らずなやつはいない。むしろ、難を逃れんとするように、俺を囲っていたクラスメイト達が息を呑み、一歩引いた。


「あー……そろそろ次の授業の準備、しないとだなぁ……」


 そんな白々しい呟きを皮切りに、一人、また一人と各々の席へと散っていく。


 最後に取り残されたのは、俺と沙霧。それから、沙霧にいじめられて泣き崩れる神生だけだった。


 つまり──


 泥の大船『沙霧号』は、途中で一度沈みかけたものの、どうにか無事に処女航海を終えたということである。


 ……えっ?

 なにがどうしてこうなった?


 問題、解決しちゃった……わけ?


 沙霧は、これ以上ないほどのドヤ顔で俺を見下ろしていた。言葉にしなくても、言いたいことがわかってしまう。


『ご主人様ぁっ♡ 私、やりましたわんっ♡』


 顔が雄弁に物語っていた。そんな沙霧も、満足そうに尻尾をふりふりしながら自分の席へと凱旋していく。


 誇らしげなその背中を見送りながら、俺は心の中で最大の称賛を送る。


 すごいぞ沙霧、よくやった!

 さすが俺のわんこだ!


 まぁ、なんでこれで騒動が収まったのかは謎だけど。


 こりゃ、帰ったら特大のご褒美を要求されそうだなぁ。


 そのご褒美がどんなものになるのか、少しだけ不安で、それ以上に楽しみでもある。


 かくして、俺と沙霧の秘密は守られた。

 神生の心に、大きな傷を残して。


 すまん、神生……俺の愛犬が噛み付いて。

 まだ、躾の途中なんだ。

 俺には噛み付かないんだけどね。


 やっぱり猛犬注意の札、用意した方がいいのかな……?


 やがて、六時限目開始のチャイムが鳴る。神生がふらりと立ち上がり、虚ろな目で前髪を撫でながら呟いた。


「──シャンプー、変えてみるべきか……?」


 誰かがまた吹き出して、笑いの第二波が起きた。そして当然、何も知らずに入ってきた先生は目を丸くした。


 爆笑はやまず、授業どころではない。


 うん……このクラス、たぶん終わってる。

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