第24話 おやすみわんこと、感情の自覚

 ドライヤーのスイッチを切ると、部屋にしっとりとした静けさが戻った。熱を帯びた空気の中、俺は改めて沙霧の髪に手を伸ばし、確かめる。


 指を通すたび、絹糸のようなさらさらな感触が手の平をくすぐった。


「うん……よし、乾いてるな──ふわふわだ」


「えへへ……ありがとうございました。ご主人様の手、やっぱり優しいですわん♡」


 沙霧は尻尾をふりふりさせながら、満足そうに笑う。その笑みにつられて、俺の口元も自然と緩んだ。


「んじゃ、これで可愛がるミッションは完了ってことで」


「……え? もう終わり、ですの……?」


「いや、ほら……髪乾かしてあげたし、これで十分じゃ──」


「十分じゃないですわんっ!」


 沙霧はくるんと身体ごと俺に向き直り、真っ直ぐに見つめてきた。不満そうに寄せられた眉と、潤んだ瞳。その表情に、思わずドキリとした。


「……徹底的にって、言ってましたわん。それに、髪を乾かしてもらうのはお世話ですわん。なでなでとか、ぎゅーとか──可愛がるっていうのはそういうことですわんっ」


「基準が完全にわんこなんだけどっ?!」


「私は樹くんの──ご主人様のわんちゃんですわんっ! わんわんっ♡」


 沙霧は宣言するように言い放ち、左手で俺の手を取ると、その上にちょこんと右手を置いた。その姿はまさに、お手をするわんこそのもの。


 触れ合う手の熱く柔らかい感触に、心臓がひとつ、大きく跳ねた。


「……わんこは、ご主人様にいっぱい可愛がってもらいたいもの、なのですわんよ?」


「いや、でも……可愛がるって、どうすれば……」


 沙霧をただのわんことして扱えていた時は、頭を撫でるのも自然にできていた。だが今は、犬耳も尻尾も、見えたり見えなかったりを繰り返している。


 見えるのはきっと、俺がまだごっこ遊びという安全地帯にいたいから。


 見えなくなるのはたぶん、沙霧を一人の女の子として意識し始めているから。


 その狭間で、俺はひとり立ち尽くす。広い海原で、進路がわからなくなった航海士のように。


 そんな俺を見つめ、沙霧はくすりと小さく笑った。


「……ご主人様は、しょうがない人ですわん。わからなければ、私が教えて差し上げますわん。ほら、ついてきてください」


 きゅっと、手が握られた。軽く引かれる手、振り払おうと思えば簡単にできるはずなのに、なぜか抗えない。


 そうして連れていかれたのは──俺の部屋。


 沙霧は手を放すと、ころんとベッドに転がり、甘えるような視線を俺に向ける。


「ご主人様ぁ……私、寝かしつけてもらいたいですわん♡ ぎゅってして、いっぱいなでなでしてくださいっ」


 沙霧の声が、悪魔の甘い囁きのように、俺の心を刺激する。


 ……反則だろ、そんなの。


 俺はふらふらと誘われるまま、沙霧の隣に腰を下ろしていた。ベッドのスプリングが軋む、ギシッという音がやけに大きく響く。


 次の瞬間、沙霧の腕が絡みついてきた。ろくに抵抗する間もなく、俺はベッドに引き倒された。吐息が触れそうな距離に、沙霧の顔があった。


 否が応でもぶつかる視線、呼吸のたびに沙霧の甘い香りで肺が満たされ、思考が溶かされる。


 このまま沙霧を抱きしめたら、きっと幸せな夢を見ながら眠りにつけるだろう。でも、最後の理性がそれを阻む。


 沙霧の背に回しかけては踏みとどまり、腕が宙に浮く。俺がその行き場所を決めるよりも早く、沙霧が動いた。


 なんと──自ら俺の腕の中に入り込んできたのだ。


「……わんちゃんは、ご主人様にぎゅーってしてもらうと、とっても安心するものなのですわん♡」


 微笑みながら、沙霧は俺の胸に頬を擦り付けてきた。その感触に、心がざわつく。


 けれど、拒めなかった。

 拒む理由が、もう見つけられなかった。


「……まったく、沙霧は」


 言いながら、俺はそっと沙霧の頬に触れた。指先が震える。頬の温もりと柔らかさが、手の平から心に伝わってくる。しだいに俺は、遠慮を失っていった。


 滑らかな感触を楽しむように指を滑らせ、時折軽く摘んでみたり。いつかどこかで見た、ひたすら柴犬のほっぺをもちもちともてあそぶ動画のように。


「……んっ♡」


 沙霧はくすぐったそうに目を細めて、甘えるように小さく喉を鳴らす。


 ……俺、完全にやられてるなぁ。


 心の中で苦笑いをしながらも、もう手は止められない。頬を撫で、髪を撫で、沙霧の頭を胸に引き寄せた。


「……これで、満足か?」


「まだ、足りません──と言いたいところですが……今は、これでいいですわん。ご主人様の手……温かいですわん♡」


「そっか……」


「だから……もう少しだけ、このままでいいですわん?」


 ねだるようで、少しだけ不安気な声。俺は諦めるようにため息をつき、沙霧をさらに深く抱き寄せた。


「……わかったよ。もう少しだけ、な」


「わんっ♡」


 沙霧が微笑む。その声が、すぅっと静寂に吸い込まれていく。沙霧の身体は、嬉しそうに小さく震えていた。


 抱きしめたままの温もりと俺の体温が、暗闇の中で溶け合う。互いの境界を曖昧にするように。


 呼吸が重なり、心臓の鼓動が一つになる。やがて、沙霧の瞼がゆっくりと落ちていった。


「……寝ちゃった、のか」


 囁くように呟いて、沙霧の額にかかる前髪を払う。その寝顔は、世界中の幸福を独り占めしているみたいに穏やかだった。


 すぅすぅと規則的な寝息が、俺の心を落ち着かせてくれるようで。


「まったく……どこまで甘えれば気がすむんだよ、本当に」


 愚痴っぽくこぼしながらも、胸の奥がじんわりと温かい。気が付けば、俺の手はまた、沙霧の頬に触れていた。


 ……愛おしい。


 まだ、はっきりとは言葉にできない。

 しかし、わんこに向ける感情ではないことだけは確かだ。


 元々、淡い憧れのようなものはあった。遠くから眺めて、容姿に見惚れる程度のものだったが──


 それが、この短期間で急速に形を変え始めた。その感情の正体が恋だと自覚するのには、さほど時間はかからなかった。


 そうか、そうなんだ。

 俺、沙霧のことを好きになっちゃったのか。


 一つの答えにたどり着き、俺は深く息を吐いた。始まりも、その過程も、諸々の順序もめちゃくちゃだったけれど──こんな気持ちにさせられては、認めざるを得ない。


 そして、好きな女の子が今、俺の腕の中で安心しきった顔で眠っている。


 その事実が、たまらなく嬉しい。


 沙霧の寝息が服越しにじわりと染みて、夜はゆっくりと更けていく。その温もりを感じながら、俺もまた、静かに瞼を閉じた。


 沙霧の寝息が子守唄のように心地よく鼓膜を震わせる。このまま朝まで──


 そう思った直後のことだった。


「あっ! やっべ……弁当用のご飯、セットしてくるの忘れてた……」


 俺は、半目で天井を仰ぎ見た。


 ……なんてこった。


 せっかくの空気に水を差す自分の失態に乾いた笑いをもらし、むくりと起き上がった。


 沙霧を起こさないように気を付けてベッドを抜け出し、階下のキッチンへ。二人分の米を研ぎ、炊飯器のタイマーをセットしてホッと一息ついた。


 蓮根のきんぴらを試食させた時の、幸せそうな沙霧の表情が頭をよぎる。


「期待させるだけさせて、作れませんでしたじゃ可哀想だもんな。残りのおかずは朝作るとして──早起きしないとなぁ」


 独り言をこぼして自室に戻り、沙霧の隣に寝転がる。沙霧はしっかり眠ったままだというのに、またするりと身を寄せてきた。


「ご主人様しゃまぁ……どっか行ったら、やぁっ……」


 沙霧の寝言が胸を打つ。

 可愛いことを言ってくれるもんだ。


「……行かないよ、どこにも。ここ、俺の家じゃん」


「くぅん……♡」


 小さく鳴いた沙霧をすっぽりと包み込み、ようやく俺も眠りにつく。薄れていく意識の中、沙霧の笑顔がはっきりと脳裏に浮かんでいた。

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