第一章 積み木崩し

第一話 夕闇


 彼と一緒に生きたい。

 微笑む、その隣で生きたい。

 彼が振り返る場所にいたい。

 伸ばされるその手を繋げる近くにいたい。

 好きだ。好きだ。好きだ。


 彼と生きられるならば、この先の未来の幸せ全てと引き換えていい。

 彼の傍で、彼を想って生きられるなら、未来の幸福はいらない。

 そんな交換条件は、成立しようがない。

 自分の未来の幸せを、作れるのは彼だけだから。

 彼がいなければ、自分は永遠に不幸で、彼がいれば自分は永遠に幸福だ。

 未来の幸せ全てをいらないということは、彼をいらないということ。

 彼の傍にいたいと望むこと自体が、幸せを望むこと。

 幸福になどなれようもない。

 それならば、叶うならば、一つだけ願いたい。

 彼を幸せにして欲しい。

 自分の幸福全てと引き換えに、彼を幸福にして欲しい。

 自分のことなど全て忘れて、心穏やかに生きて欲しい。

 いつか自分以外の誰かの手を取って、その人に微笑みかけて、幸せに生きて欲しい。



『それでも――浅黄は、幸せ?』



 もうこの世界にいない人の声がする。

 そんなことで、彼は幸せなのかと。

 同じことを願った癖に。

 あなたも、同じことを望んだ癖に。

 そして、結局不幸にしたくせに。

 方法なんて見つからない。

 だから、結局あなたが言った通りになるんだ。

 傷痕を刻んで、その心に。

 その心が手に入るように。

 幸福を持ってその心が手に入らないならば、手に入れる手段はもう。




 第一章-積み木崩し

 第一話【夕闇】



「…重い」

 夏の炎天下。

 大きな紙袋を両手に二つぶら下げて、由馬は胡乱な顔で呟いた。

 失敗した。

 今日は祐二が朝も早くに浅黄の家に遊びに行ったから、自分は一人だ。

 詳しく聴いていないが、浅黄の知りあいが遊びに来ているらしい。

 もっとも祐二が説明を渋る時点で想像はつく。

 察してついて行かずに、一緒に暮らしている叔父の買い物に出かけた。

 この町は本当に不便で、車もあまり通っていないし、通学路は田んぼの傍や森の横が多い。

 とにかく緑に囲まれている。そこは気に入っているし、都会から引っ越してきた浅黄も幸い気に入ってくれている。

「…まあ、以前とちょいと雰囲気ちゃうかったな…」

 思い出して呟く。

 浅黄がまたこちらに戻ってきたと聞いた時は驚いたが、嬉しかった。

 祐二と一緒で、浅黄と離れてしまったのが寂しかったのだ。

 だからまた会えて、同じ学校に通えるのがとても嬉しい。

 ただ、久しぶりに会った浅黄は、都会に引っ越して行く前と比べて、雰囲気が少し変わっていた。

 どこがどう、とは言葉にしづらいが。

 祐二は全く気づいていない様子だが、祐二は視野が広いし聡いので、気づいていないふりをしているだけだ。

 浅黄のために。

「かっこつけ…」

 暑さに負けて呟いた。

 そもそも家までまだまだ長い道の途中。

 由馬以外に人影など道にない。

 傍らには濃い木々や、時折電柱が見えるだけ。

 あとは、数百メートル置きに民家。

「由馬はん?」

 横手から声がして、由馬はハッとして視線を向けた。

 由馬の右手側。

 傍の民家から丁度出てきたところの若い男は、由馬の知人だった。

「長田やん」

「どないしたんや? 一人なんて珍しい」

 大柄な体格の、私服姿の男は民家の門をくぐると、道に出て由馬の横に立った。

 癖のある黒髪に格闘家並の体格の男はこの見た目でまだ高校生。由馬の同級生だ。

 名を長田冬馬という。

「今日は浅黄も祐二も留守やから」

 暑さに負けて怠そうに答えると、長田は、ああ、という顔はしたがそこには触れず、微笑んだ。

「今日はほんま暑いからな」

 穏やかに言う長田に、由馬も笑みが浮かぶ。

 同じ高校に通う長田。同じクラスだから、仲は普通にいい。

 この町に一つしかない寺の跡取り息子だ。

「長田こそどないしたん?

 その家から出てたけど」

「ああ。

 以前、野菜やらたくさんもろたから、お返しに行って来いて」

「ああ、お父さんらに?」

「ああ」

 長田はのんびり笑って肯定する。

 この暑い中、それに素直に頷いて来る長田の人格は、やはり人として出来ている。

「由馬はんは?」

「叔父さんに、駅前の書店に取り寄せた本を取ってきて欲しいて頼まれて」

「…重そうやな」

 長田は由馬の両手にぶら下がった紙袋を見下ろす。

 大きい。

「ぶっちゃけ重い」

 素直に答えたら、長田が片方の紙袋を掴んで、由馬の手から取り上げた。

「片方持つわ。どうせこのあと用事ないし」

「…や、でも」

「甘えとき」

 軽々持ってしまった長田に微笑まれ、由馬は肩をすくめた。

 この暑い中、一人で持つにはやはり重かったし、長田の善意をはねのけられるほど意地っ張りではないのだ。

「おおきに。

 お礼に、甘いもんご馳走するわ」

「いや、それこそ悪いやろ?」

「ええって。

 家まで運んでくれるなら、お駄賃として食う義務がある」

「…?」

 首を傾げた長田に、由馬は微笑んだ。

「叔父さんが、ファミレスかどっかで甘いもんなにか食べてきてええって言うんで、お使いに来たんや。

 やから、家まで持ってもらうなら、長田も一個なにか頼んだかて文句言われんわ」

「…ああ、なるほど」

「やから」

「…ほな、甘えとく」

「ああ」

 二人で、紙袋を片手に持って、時折頭上にかかる木陰に涼みながら、長い道を歩く。

 もうすぐ歩けば、町に一つしかないコンビニが見えるだろう。

 そこでアイスでも買うか、と話す。

 ふと、目を凝らして前を見つめたのは、長田だった。

 コンビニより先に見えたバス停の前で、首をひねっている若い男がいる。

 バスの時刻表を見ているらしいが、なにがおかしいのか真剣に悩んでいる。

「…視力が悪い、とか?」

「…多分」

 由馬の仮説に、長田も同意する。

「あのー、バス、しばらく来うへんで?」

 町に一台しかないバスだし、時刻表は把握している。

 由馬が声をかけると、青年はまるで親を見つけた迷子のように瞳を潤ませた。

 こちらをはっきりと見た青年の顔立ちに、由馬も長田も軽く驚く。

 浅黄ほど、ではないが、結構な美形だ。

 おまけに長田には及ばないものの、浅黄や祐二、由馬より背が高い。

 茶色の長い髪に、亜麻色の瞳。外国の血でも混ざっているのだろうか。顔立ちは日本人だ。

 見慣れない。町の住民ではないだろう。

「…」

 お互い、なんとなく無言で見つめ合ってしまう。

「あの、バス待っとったんやないんか?」

 ノーコメントだと気まずい。由馬がそう尋ねると、男は不思議そうに首を傾げた。

「ばす…?」

「…」

「って?」

 意味がわからなかった。今、なんて言ったんだ?

「この柱、なに?」

 青年は真顔で、バス停の柱を指さした。

「…バス停やろ?」

「ばすてい……ってなに?」

 青年は真顔だ。本気で疑問の顔をしている。

「…バスもわからへんか?」

 長田も困惑している。かろうじてそう尋ねた。

「……魚?」

 青年は本気で悩んだあと、そう答えた。

「…車はわかるか?」

「ああ、うん。車なら」

 そこでやっと話が通じて、長田も由馬もホッとする。

「なんか、都会走っとるヤツやろ?

 金持ちが乗るみたいな」

 次の青年の言葉に、二人揃ってまた固まった。

 あれ? やっぱり話通じてない?

 年の近い雰囲気だが、全然会話が成り立たない。

「俺、はじめてここ来たんやけど、右も左もわからんくて。

 あれなんて言うん?

 なんか速い乗り物。使うて来たんやけどな、きっぷ?とかいうヤツ買うんもさっぱりわからんから近くにおった人に聴いたん」

 とりあえず話が出来る人に会えてホッとしたのか、青年は身振り手振りを交えて説明する。

 よくわからないが、わかってきた。

「…ええと、つまりこの人、どえらい世間知らず…?」

「…どっかの箱入り息子やないんかな?

 バスも見たことないゆう…」

 お互いの顔を見て、小声で呟いた意見はほぼ同じ。

 つまり、この男は一人で家の外に出たこともないような、金持ちの箱入り息子じゃないのか、ということだ。

 男が言った乗り物はおそらく電車だが、電車も知らないってどんな環境で暮らしてたんだ。

「…あのー?」

 間延びした声で男に呼ばれた。

「あ、ああ。

 どっか、行きたい家とかがあるんか?」

 長田が我に返って尋ねた。

 観光スポットもほぼないこの町に外から人が来る理由なんて、親戚の家に来たとかそんなところだ。

 この青年も、そんなところだろう。この年になったから、一人で旅がしてみたいとか大袈裟に言い出して来たんじゃないのか。

「家?」

 長田も由馬もあれ?と思う。

 まさか、「家」って単語すら通じない?と一瞬本気で危惧した時、

「いや、親戚とかに用事やなくて、この町に来とるらしい人を捜しに来たんよ」

 青年がそう言ったので、安堵した。

 話が通じれば、ごくごく普通の青年だ。声や雰囲気も柔らかく、田舎の町を馬鹿にしたところなどまるでない。

 都会の人間らしさがないのは、世間知らずな箱入り息子ならおかしくないだろうし。

「探しに?

 どないなヤツ?」

「えっと、宮城葵ゆう、俺と同じ年の男。

 遠い親戚で幼馴染みなんやけど」

 青年はそこまで説明して、それでは伝わらないと察したらしく、説明を付け加える。

「あの、指さして悪いんやけど、あんたより背のでかい、黒髪の男や」

 彼は一応謝って、長田を指さした。

 由馬は長田を見上げて、驚く。

「これよりでかいん!?」

「うん。でかい」

 青年は真顔で頷く。長田も驚いた。

 だが、そんな目立つ外見ならばすぐ見つかるかもしれない。

「ほな、町の道わからんやろうから、一緒に行くか?

 見つかるまで案内してやれるかはわからんが」

「ほんま!?」

 長田の申し出に、彼は顔を輝かせた。

 由馬は、長田がそう言うとわかっていたので今更驚かない。

 それに、こんな危なっかしい人間を、治安はまあ悪くないとはいえ一人で放置するなんて、気がかりだ。

「俺も付き合うわ。見つかるとええな」

「おおきに! ありがとう!」

 由馬が軽く笑って言うと、彼は満面の笑みでお礼を言った。

 本当に箱入り息子というか、人を疑うことがない人種そのもの。に見えた。

「俺、倉橋由馬。

 こっちが、」

「長田冬馬や」

「長田に、倉橋。よし覚えた。

 俺、浅見雪原。よろしゅう」

 人懐っこく笑った彼につられて、長田も由馬も笑みを浮かべた。




 翌朝、葵の泊まるホテルに行くと言う浅黄に一緒についてきた祐二はまずびっくりした。

 挨拶を交わしたところで。

 てっきり大学生くらいだと思っていた祐二に、葵は中学三年生だと言った。

 見えない。中三にはとても見えない。

 葵は心底そう思う。

 町を案内することになったが、案内するものなどほとんどない町だから、駅前のファミレスで軽く食事をしたあと、葵が浅黄の家に行きたい、と言い出した。

 あのまま店にいてもしかたないし、家までの道を戻っているところだ。

 森の傍の道は舗装されておらず、歩くと砂利がなる。

 葵はふと、視線を動かして、足を止めた。

 浅黄と祐二もつられて止まって、ああ、と思う。

 森の近くにぽつんとある小さな祠を、葵は見ている。

「確か、『オオカミ』の祠だね…」

 しかし、知らないはずの葵がそう言ったので、祐二も浅黄も驚いた。

「知っとるんか?」

 この町の住人でなければ、まず知らない。

 葵はこちらを向いて、感情の読めない顔で笑う。

「少しなら」

「…さよか」

「急ごう。暑い」

 さっさと身体の向きを直して急かす葵に、足を止めたのは誰だとつっこみたいのを祐二は堪えた。

 我慢だ。こいつは年下。見えないけど年下。

 浅黄は自然と自分の隣に並んだ葵から顔を背ける。

 瞬間、頬に当てられた大きな手に、肩が跳ねた。

 葵が足を止めて、自分を見つめている。

 正直祐二が一緒にいてくれて助かった。

 葵に会えてうれしかったけど、なにも整理できてない。

 真っ直ぐに葵を想うには、あの雨の日の記憶が邪魔をする。

「…」

 じっと、自分を見つめていた葵は、不意に笑った。

 安堵したように。

「嫌われたのかと、思った」

 張りつめていた気が解けたとわかる、震えた声に、浅黄まで気が緩む。

 祐二が気づいて足を止め、バツが悪そうに頭を掻いて、歩きだす。

 二人の声が聞こえない場所まで離れた祐二に罪悪感が浮かぶが、目の前の葵から視線をそらせない。

「嫌いんなるわけあらへん」

「俺のこと、怒ってない?」

「怒っとる!」

 思わず反論して、頬に触れる手の温かさに、息を吐く。

 現金だ。

 会いに来てくれて、嬉しいから、あのことすらチャラにしそうで。

「やけど、どうしても自惚れでも、あのことにどうしようもない事情があったとしか思えへんのやもん!」

 傷付いた。裏切られたとすら思ったのに。

 葵からの愛が本物だと確信する。

 あの雨の日に、なにか特別な事情があったとしか。

「…浅黄」

 葵は目を瞑って、浅黄の名前を呼ぶ。

 驚いて、それから、浅黄の愛の深さに安堵して、申し訳なくなった。


「なんや。

 思ったほど、賢くないんやな」


 その場の空気に似合わない声が響いて、祐二と葵は同時にそちらを向いた。

 見ると、道の向こうに見知らぬ青年と、同じ学校の同級生が立っていた。

「てっきり、もうちょい頭がええ子やと思っとった…」

 見知らぬ青年のあんまりな物言いに、祐二が目をつり上げる。

 その背後に立つ長田と由馬が困惑した様子で、青年を見遣る。

 浅黄はそこで、葵の顔色のおかしさに気づいた。

 さっきまで、動揺はしても余裕を持っていた葵は、ある一点を見つめて、蒼白になっている。

 目を見開いて、凍り付いて。

 浅黄と祐二はいぶかって、視線を動かした。

 由馬と長田と一緒に来たらしい、見知らぬ青年の姿を見ている。

 青年は葵の視線を平然と受け止め、にっこり微笑んだ。


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