第六歩

 至時の屋敷の門をくぐった忠敬は、これまでの商売人としての生活で得たすべての経験と、天文学への渇望を、一気に吸収し始めた。

 ——ものごとを始めるのに、年齢など関係ありませんよ。

 至時の言葉は、忠敬の過去の葛藤、すなわち、老いによる諦めを打ち砕く、力強い福音だった。至時はまだ三十代。二回り以上も年の離れた師は、忠敬の膨大な知識欲と商売人として培った緻密な計算力、そして星への純粋な情熱を即座に見抜いたのだった。


 江戸の夜、至時の書斎の蝋燭ろうそくは、夜空の星々にも劣らぬ光を放っていた。

推歩すいほ先生。天を理解するには、まず地を知らねばなりません。」 

推歩とは、天文観測や計算を意味する言葉で、忠敬の熱心な姿勢を至時が評価してつけたあだ名である。

 「この地の大きさが分かれば、さらに、正しく季節の移ろいが分かるかもしれません。」

そう至時が言うと、飛びつくように忠敬が答えた。

 「なんと!正しい地球の大きさが分かれば、正しい暦が分かると。」

 ——「先生、どうにかなりませんかねぇ」

 ——「私は今、天文を学んでおります。その天文でそのズレを暦の解決できるかもしれません。」

彼らの役に立てるぞ。と、興奮のあまり机を両手で叩いた。

 「はい、そうです。」

 至時は地球儀を前に忠敬に言った。

とても壮大な自信に満ち溢れていた。

 忠敬は、その地球儀に貼られた地図を凝視した。

 それは、西洋から伝わった最新の知見に基づいて作られたものだったが、日本列島はひどく歪んでいた。島々の形は不正確で、経度や緯度も曖昧であった。


 「地球の大きさは、歩くことでしか測れません。一歩一歩、正確な足跡を繋いでいくこと、それが、天文学の基礎となる『緯度一度の長さ』を知る唯一の方法です」


 地球を理解しなければ、宇宙を理解することはできない。そして、その理解の第一歩は、この足元の大地を正確に測ること。忠敬の頭の中で、「星を知りたい」という純粋な情熱と、「正確な測量」という具体的な手段が、雷鳴のように結びついた。


 これだ。私のこの熱を注ぎ込むべきは、これなのだ!


 星々の熱狂に突き動かされていた忠敬の心に、測量という明確な目的が定着した瞬間だった。

 それは、商人が商品に魂を込めるのと同じ、いや、それ以上に深く、彼の人生を賭けるに足る大事業となった。


 —— 一つの灯りは風と共にゆらめく。周りの空気を温めながら。

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足跡は日本地図 高州 @staka21

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