第1話:路地裏の赤ん坊
水で濡れた砂の上に、一人の女性が立っていた。
先ほど同じ場所で処刑された食神の民の血を洗い流し、上から砂を撒いたためだった。
女は腰と両手首に縄をかけられ、粗末な服を着ていた。
歳の頃は三十代後半だが、大分疲れた表情をしていて、もう少し上に見えた。
内戦の後、急遽設置された青空簡易裁判の裁判長が女に名を尋ねる。
「エバと申します」
腰縄を握る警察官の男性が、ピクリと肩を震わせた。
本来であれば刑務官が行うべきところだが、刑務官は食神の民の対応で人数が足りなくなっていたため、警察官が駆り出されていた。
検察官がエバに命じる。
「これまでの犯罪を正直に話せ」
「一件一件は覚えておりません」とエバは答えた。
「今後の治安改善に役立つかもしれない。何でもいいから話せ」
これは形式的なことだった。
内戦の後、治安の悪化に手を焼いた政府は
「食神の民による証拠隠滅が犯罪を助長している」として、証拠隠滅業に従事する食神の民を通報した者に、褒賞を出すと発表した。
たちまち食神の民は、その出自だけで犯罪者として通報され、刑務所は満員を遥かに超過した。
食神の民の特殊さから、対応には通常の何倍も手がかかった。
そして簡素な裁判という名の作業の後、即座に処刑される日々が始まった。
エバは訥々と語り始めた。
◇◇◇
この世界では、誰もが神々の祝福を受けて生まれる。
その証は額に現れる痣だ。
稀に生まれつきや幼くして出現する人もいるが、大体は十から十五歳の頃に浮かび上がる。そして基本的に両親から子へと受け継がれていく。
戦の神の祝福を受けた者は、装甲のように硬い皮膚を持ち、戦場で無敵の力を発揮する。
水の神の祝福を受けた者は、水中で魚のように息をし、豊かな海の恵みを人々にもたらす。
だが、この祝福こそが、この世界に深刻な差別を生み出していた。
食神の加護は「何でも食べられる」という能力だった。
食神の民は、戦場で兵糧の要らない兵士として酷使された。
取り立てて他の祝福より優れた能力がなく、今まで何度か逃げたり抵抗したりして、その度に地位は低くなっていった。
食糧も与えられずに働かされ、やがて裏社会では証拠隠滅のために「何でも食べる」仕事に従事するようになった。
◇◇◇
食神の民であるエバが生まれ育ったのは、首都の外れにある貧民街だった。
狭い路地の両側には汚水が流れ、崩れかけた石造りの建物が肩を寄せ合うように建っている。
窓ガラスは半分以上が割れ、布切れやボール紙で塞がれていた。
街角には生ゴミが山積みになり、腐臭が立ち込める。
食神の民だけが住むこの一角は、他の住民からは「食い荒らし街」と呼ばれ、蔑まれていた。
エバの家もまた、大人三人が満足に脚を伸ばして寝られないほど狭く、薄暗い部屋だった。
天井からは雨漏りがし、床板は腐って穴が開いている箇所もある。家具らしい家具はなく、破れた毛布を奪い合って寝ていた。
食神の民の両親は、犯罪組織の下っ端として働いていたが、ある日突然姿を消した。近所の住民は「きっと恨みを買った誰かに食われたんだろう」と噂した。
十六歳のエバは、一人残された。額に浮かんだ食神の紋章は、まるで呪いの印のように彼女を苛んだ。
何でも食べられる能力があっても、腹は満ちても心は満たされない。
食い荒らしの街の外の人々は、彼女を見ると顔を顰め、道を避けて通った。
◇◇◇
アパートを追い出され、食糧を求めて外の街に来たものの、ろくにありつけず、一人路上に座り込んでいた。
エバは奥の暗がりで何かが鳴いているのに気が付いた。
犬か猫かと思ったら、それは人間の赤ん坊だった。
まるでうっかり落としてしまったように、地面に横になっていた。痩せた半裸の体とは逆に、オムツはひどく膨れていた。
エバは腹が空いていた。三日間、まともに食糧と呼べるものは何も口にしていない。
空き缶だろうが古着だろうが食べられるが、食べたいとは思わない。
エバの頭には、両親や周りの大人から聞かされた話がよぎった。
「困った時は何でも食べればいい。それが俺たちの特権だ」
赤子を抱き上げた。
その瞬間、すべてが変わった。
小枝よりも細く小さな手が、エバの指にぎゅっと絡みついた。その温もりは、エバがこれまで感じたことのないものだった。
ふにゃりと笑いかけてくる顔は、ふくふくとした頬と、ふわふわと柔らかな肌をしていて、今の状況を何も分かっていなかった。
赤ちゃんという言葉で知っていたよりもぐにゃぐにゃしていた。こんなに小さくて弱くて、すぐにでも命を奪われてしまうのに、どうして笑うんだと思った。
エバの胸に、温かいものが弾けるように広がった。これまで感じたことのない感情が、心の奥底から湧き上がってくる。
食欲が消え、代わりに守りたいという強い衝動が生まれた。
家族にも愛されず、誰からも必要とされたことのなかったエバにとって、それは人生で初めての体験だった。
小さな命が自分を頼りにしている。自分でなければだめなのだ。そう思った瞬間、エバの目から涙がこぼれ落ちた。
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