第32話 21 ベイブリッジ2200
スロープを登り切ると、一台も車がない首都高速に出た。
私たちが出た合流路の先はすぐに左にカーブして、ベイブリッジへの坂道になっていた。
夜空に二本の導入路がのびやかに走っている。今まで気づかなかったけど細い月が出ていた。
アキは私のAKも持って歩いていた。時折私の方を向いて様子を確認している。
腕の痛みはひどくなっているような気がした。がちがちに圧迫しているので動かしにくい。早くは歩けなかった。
人が歩くことを想定していない道路は、とてもゆったりとしたカーブを描いて海に向かう。
高架のガードフェンスにつけられた金網越しに、みなとみらいの遠景が見えてきた。
山下公園の方にぴょこんと頭を出したマリンタワーがわかりやすい。
右に目を移していくと、もうもうと煙を上げているビルがあった。
「あれ県警?」
「県警だな……」
アキは息をのむように言った。
陥落という言葉が頭に浮かんだ。実際にどうなっているのかは知らない。
さっきアキがオペレーターと交信した時にはOSS本社も危機的状況だったらしい。
市民弾圧の象徴として、県警ビルとOSS本社が攻撃を受けているということだろうか。
「OSS、大丈夫かな?」
私のつぶやきを聞いてアキは無線を使おうとしたが、やめた。
「自衛隊が市街地にも展開している。さっきの車は朝霞から来たって言ってた。相当早い段階で出動したみたいだ」
「準備してたってこと?」
「部隊独自の判断かも知れない。自衛隊がもう来ているってことは、本社は持ちこたえるんじゃないかな」
アキの口調には全く自信が感じられなかった。
私はアキとの初めての食事を思い出した。
OSSの社食に行った日だ。
OSS社屋はほぼ全域が部外者立ち入り禁止だったが、その日は仕事を請け負っていたので簡単な確認で入館を許可された。
入館証を受付で受け取って中に入ると、いろいろな人が奇異の目を向けてくるのがわかった。若い社員が、さらに若い他社の女性警備員を連れ込んでいるのが珍しかったのだろう。
アキが仕事の後処理を手短かにやっている間、廊下のベンチで携帯を見ながら待っていた。その間に私に声をかけてきた社員は片手の指に余る。
社員食堂は白一色で、長い受け取りカウンターがある何の特徴もない場所だった。私たちが入った時は夕食には少し遅い時間で、それでも社員はそれなりにいた。
ドカ盛りの肉野菜炒め定食を食べた。ガラス窓に顔を近づけて見れば、みなとみらいの夜景がきれいだった。
あのときは、向かい合ったアキの顔に、これから先何か起きそうな予感を感じていた。
今も、夜景は広がっている。
頭上には軍用ヘリコプター。湾の暗い水面にはいくつもの航跡。
あの時と同じようで、全く違う夜景が。
巨大なベイブリッジを登っていくと、今まで頭の上にあった導入路が左に合流してきた。私たちは橋の端っこに寄って歩いた。こんなに幅が広い道だと落ち着かない。
アキがヘルメットを脱いだのを見て、私もそうした。
橋の上は風が強い。生ぬるい風に汗が涼しく感じた。
なおも斜張橋の坂道を登っていく。はるか見上げるような高さの主塔が、都会の光を受けた空に白く浮かんでいる。
ベイブリッジの真ん中のあたりに、車が停まっていた。ライトは落としているが、ディーゼルらしいエンジン音は聞こえた。
自衛隊のごつごつした形の車が何台か固まっていた。
車の周囲にいた隊員たちが私たちを見て叫んだ。
「来た!」
「こっちです。傷を見ます!」
高速入り口の隊員から連絡を受けていたのだろう。
何をしている人たちなのか、市街地を観察していた。確かに、ここは安全にみなとみらい全体を見渡せる特等席だ。
衛生科の人が、私を案内しようとした時だ。
三つ並んだクイーンズタワーの真ん中の棟が爆発したのが見えた。かなりの体感時間の後、ドーンという音が伝わってくる。
私は橋のガードレールに並んだ人たちのところに駆け寄り、みなとみらいを見つめた。
さらに先ほど爆発したB棟の隣、C棟からも光ととともに爆炎が上がった。
十秒後にドーン。
よく見れば、市役所は相変わらず煙を吐いているし、こちらからは奥まったエリア、もっと横浜駅寄りの街区からも煙が上がっているのが見えた。
ランドマークタワーと帆の形をしたパシフィコのホテルだけは無傷で屹立している。
横浜が、はじけていた。
ロウソクのような暖色、宝石のような寒色。色とりどりの照明がばらまかれた夜景はそのままだ。超高層の航空灯火も瞬いている。
その中に、散発的にきらめくのは爆発の明かりだろう。
強い風音の中で耳を澄ませば、爆発音は途切れることなく聞こえていた。
私は右わきのポーチに入っているカメラを苦労して左腕で取ると、ガードレールの上に肘を置いて固定した。
そして、再び苦労して右腕をガードレールの上に持ち上げ、シャッターに指をかけた。
アキが言った。
「これをきれいだって言ったら殺されるな」
アキの言葉に、私はうなずいた。
「呪われるね。でも、私もそう思う」
ファインダーから見る夜景は、数か月前に大黒ふ頭の帰りに車中からとったアングルと似ていた。
シャッターを押した。
アングルをかえながら何枚も撮りたかった。周囲の目があるので数枚で我慢した。
そのあと自衛隊の女性隊員が私の手当てをした。
腕の包帯を取り、ガーゼを外すと、また血が大量にあふれてきた。
「うわあ!」
思わず声が出たが、隊員は構わずに消毒と縫合を手際よく行った。見たくないので目は背けていた。
終わったあと、きつく包帯を巻いてくれた。
「必ず病院で治療してください。あくまでも応急処置です」
看護師だというその隊員は、そう言った。
私が手当てを受けているあいだ、アキは他の隊員と話をしていた。
「なんだって?」
「さすがにOSSよりも情報が正確だ。関内、みなとみらい、横浜駅はまだ危険な状況らしい。ここに残ってもいいとは言ってくれている」
私は橋から港を見渡した。
みなとみらい、瑞穂ふ頭、大黒ふ頭。鶴見つばさ橋の向こうには、扇島も見える。
横浜がこんな状況だというのに、羽田に向かう飛行機が飛んでいた。
ふと気づいた。
こんなに拘束されない瞬間は、生まれて初めてだ。
仕事の指揮系統はズタズタで用をなしていない。警備員を見張る市民の目はない。そもそも、規則も法律も、常識すら力を失っている。
夏の夜の風が背中を押す。
「アキ、行こうよ」
アキは私を見た。
「どこに」
「あっち」
私は大黒ふ頭の方を指さした。橋を渡り切ってみたかった。
アキは反対するでもなく確認してきた。
「歩けるか?」
「大丈夫」
「じゃあ、行くか」
「そうしよう」
アキは微笑んだ。彼も私と同じことを感じているに違いない。
自衛隊員は引き留めたりはしなかった。首都高の安全は今のところ確保できていると教えてくれた。
餞別に水と戦闘糧食を分けてくれた。
ベイブリッジを渡って大黒ふ頭まで行けば、鶴見にも扇島にも行ける。
対岸の横浜に渦巻いているのは、怒りや恨みとかいう感情ではない。狂った潮流が勢いをそのままに人を突き動かしている。
潮の香りがまとわりつく。
私とアキはベイブリッジの真ん中を歩いて斜面を下った。
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