第23話 14 祭りの始まり

 八月十七日は、ひたすら暑かった。

 横浜の気象情報で出てくる数字は山手やまての気象台のものだ。都心部にありながら、海を望む緑深い別天地。

 コンクリートとアスファルトに覆われた市街地では、そんな数字はあてにならないということだ。

 こんな日はボディアーマーが恨めしい。暴徒に撃たれて死ぬか、熱中症で死ぬかの二択を迫られているような気分になる。


 この日、午前中は屈強な特殊警備班の社員に徒手格闘訓練でいじめ抜かれた。ご褒美として、午後は最近できていなかった装備の整備に充てることができた。

 超繁忙だったお盆の直後だ。市内に大きなイベントはなく、人の移動も落ち着いていた。

 昼に社内食堂の窓からみるみなとみらいは陽炎かげろうに歪んでいた。絶対に外になんか出るもんかと、その時誓った。


 一年に数回ある、信じがたいほど穏やかな日の、十六時三十分。

 日勤の警備員はみな油断していた。

 普段からなじみの男性の人工音声が、館内に響いた。

『コード〇五。運用部警備課員は、会議室一に集合せよ。繰り返す……』

 コード〇五?

 緊急案件、フル装備参集だ。入社してからこの放送を聞いたのは、何げに初めてだった。


 デスクにいた僕の肩を、後ろを通りがかった姫野がポンっと叩いた。今日は姫野も内勤だったようだ。

「こりゃ、平和には終わらなそうだな」

「ああ、もうすぐ定時なのに」

 椅子から離れると、姫野の後ろを小走りでついて行った。他にも走っている社員がちらほら。いったいどれだけの警備課員が残っているのか。


 アーモリーで装備を整えて会議室に着いたのが十分後。集まったのは七つの課のごく一部で、しかも外から帰ったばかりという社員が多そうだった。

 在社している人間の把握はできているのか、この少ない人数でもブリーフィングは始まった。前に立っているのは上長である近藤部長と、もう一人。

 僕はとなりの姫野に聞いた。

「あれは?」

「情報部の三条課長だ。ヤバそうな雰囲気だな、おい」


 近藤部長は簡単に会議の開始を告げ、本題に入った。

「今日午後四時に、県警から危険予測が最高レベルになったと通知があった。市は特別警戒宣言を午後六時をもって発出する予定だ。すでに市内の警備業者には協力要請が出ている。我々も協力会社とともに非常警戒態勢に入る。まずは三条課長から」

 部長はそう言うと、すぐに三条課長に壇上を譲った。


 三条課長は正面のスクリーンに緑色のレーザーポインタを走らせた。スクリーンには市内の地図。赤いドットがいくつも打ってある。

 中心部はほとんど赤点はなく、郊外部に中心部を囲うように赤い帯ができていた。


「二十四時間以内に襲撃がある可能性が極めて高い地点を示している。県警による情報活動、各社情報部のオシントとネットワーク解析、その他言えないことも含めたもろもろがソースだ。今のところ目立って具体的な動きは見られていないが、それもいつを基準にするかによる。昨日、おとといと比べて劇的な変化はないというだけで、武器の違法所持の検挙数はここ数か月で高止まりしたままだ。ということは、具体的な動きは、もうすでに起きた後だと考えた方がいい」


 そこでスライドが切り替わり、文字が並んだ表になった。商業施設や企業の拠点の名前が多い。

「これが具体的にリストアップされた場所だ。今回は、武力攻撃に関連したキーワードと、これらの箇所の名前の組み合わせの数が、通信上で有意に跳ね上がっているのが表層的な兆候だ」

 すべての名前を読ませる気はないのだろう。再びスライドが変わった。


 次は市内の人の分布がリアルタイムで表示された。

 携帯電話のIoTデータを利用した人流データだ。細かいメッシュがかけられた市の地図が、人の多さによって色分けされている。それが時間の経過とともに変わっていった。

 今、濃い色の部分は平時と大きく変わりないように思える。

 これまでも何かの機会に見たことがあった。


「実際にはキーワードの組み合わせだけではない。継続的な通信の内容分析まで行ったうえでの、今日という判断だ。だから、確度は高いと思ってもらっていい。今後数時間内に、通常の平日とは異なる人の流れが出てくるだろう。それが始まった時には、いつどこで暴動が発生してもおかしくない。リストにないとしても、普段よりも明らかに多くの人が凝集する点があれば、そこはあぶない。情報部はこれから全職員で監視体制に入る。私からは以上です」


 三条課長はマイクを近藤部長に返したが、部長はマイクは壇上に置いたまま地声で話し始めた。

「これから警備課職員をリストアップした施設のうち特にリスクが高いと思われる場所に配置する。もちろん、私企業の場合は相手の依頼を受けて、という形にはなる。もし依頼があった場合は、現地で協力警備会社と各施設のプライベートガードに合流し、非常警戒マニュアルに沿って警備計画を策定してもらう。それは五分で済ませろ。状況によって配置は流動するぞ。詳しくは上長から指示があるが、ここで質問は?」


 誰かが手を挙げて、部長に負けないくらいの声で質問をした。

「配置はいつまでですか? 特別警戒宣言が解除するまでですか?」

「そう考えてもらっていい」

 続いて挙手無しで発言があった。


「特別警戒宣言なんて、初めてじゃないですか。我々としてもどう対応していいのかわかりません」

「やることはいつもと変わらん。ただし、相当シビアな状況が想定される。職務執行規定と銃器使用規範は再確認しておけ。騒乱状態になったとしても、我々は市民の人権と法を守らなければならない」

「現場でそんなことまで判断できると思いますか?」

「するしかない。その手の議論をしている時間はないぞ。市内の拠点病院、交通機関も、宣言発出から特別体制に移る。みんな手探りだ。初めてなのは俺たちだけじゃない」


 姫野が手を挙げた。

「姫野、いいぞ」

「その地図だと都心部がほとんど空白です。警備はつけないのですか?」

「都心は今のところ高リスクと判断されていない。警察と海上保安庁が中心になって担当する」

「TICADは関係すると思いますか?」


「それは今する話ではないな。ただ、TICADは四日後で、まだ応援の警察の本隊が現地入りしていないというタイミングは関係しているかもしれない。他は?」

 質問ならいくらでも出てきそうな雰囲気ではあった。建設的な質疑応答ではなく、不安をぶつけるだけの雑談になるのが目に見えているから、みんな黙っただけだ。

「以上だ。動け!」

 部長の叫び声で散会になった。


 皆一斉に立ち上がって個別ブリーフィングに散っていく……。という統率された動きではなかった。

 誰もが戸惑ったようにゆっくりとした歩調で、話をしながら移動していった。

 まだ椅子に座ったままの姫野が僕に言った。

「俺さ、情報部の本間ちゃんから聞いちゃったんだよね」

「なんです?」

「県は国に治安出動準備命令の依頼を内々にしたらしいんだ」

「自衛隊ですか」


「何も起こってないうちから、そんなことはできないと突っぱねられたようだけどな」

「県はそれだけの確信があるのか」

「県というよりは、市と県警だな。かなり切羽詰まった状況なのは間違いないらしいぞ」

「いきなりですね」

 窓の外はこの部屋の空気の重さなどお構いなしに、青々としていた。




 休憩ラウンジでは多くの警備員が携帯を手にしていた。家族に状況を知らせるためだ。

 僕も栞菜かんなに電話した。今日は夜勤だから、まだいるはずだ。

 果たして、栞菜は三コールで出た。

「アキ、どうした?」

「栞菜、今日の夜勤は休めないよな」

「なに言っちゃってんの。休めるわけないでしょ」


「今日の六時に、横浜市が特別警戒宣言を出す。多分、公共交通機関はほとんど使えなくなるはずだ」

「ちょっとちょっと、どういうこと?」

「市内が騒乱状態になる恐れが高いってことだよ。具体的にどうなるのかは俺にはわからない。というより、誰にもわからない。ただ、普段とは違くなるのは確かだ」

「じゃあ、たぶん職場も来いとは言わないね。ほら、交通がマヒするってことは大雪とかと一緒でしょ」

「うん、そうかも。とにかく、家にいて鍵を全部かけとけよ。何日か分の食料の備蓄はあるよな?」


「缶詰とか? あると思う。っていうか、アキはいつ帰ってくんの? 帰りになんか買ってきてよ」

 弟だから、栞菜のとぼけたセリフはわざとだとわかった。不安で胸がざわついているとき、栞菜はこんなしゃべり方になる。

「帰らない。これから特別体制で警備に入る」

「そんなのやめなさいよ! 危ないんでしょ? いいから帰って来なさい!」

 突然ヒステリックになった。


「無茶いうなよ」

「ダメだよ! 帰ってきなさいよ!」

 面倒なことになったかもしれない。

「いいか、栞菜。そもそも何も起きない可能性の方が高い。ただAIが予測しただけだから。万が一何かが起こったとしても、俺は民間だから、そこまで危険な前線には配置されない。それは警察の仕事だからね。危険はないんだよ」


「ウソだよ」

「ウソじゃない。大丈夫だから。ただ、頭数は揃えないといけないんだ。いつ帰れるかわからないけど、家にいてくれよ」

 僕のウソだらけの説明をどこまで信じたのかわからない。姉だから、ほとんどお見通しだったのではないかという気もする。


 それでも、長い沈黙のあと、栞菜は「わかった」と言った。

「じゃあ、帰ってくるとき、あんドーナッツ買ってきて」

「オーケー」

 電話を切ったあと、長い溜息が出た。こんなにてこずるとは思わなかった。


 そんな僕を見て、隣の課の斎藤が声をかけてきた。

「俺の嫁さんも大変だったわ。彼女?」

「いいえ、姉です。彼女はこれからです」

「ひひ、色男は大変だよな。時間、ないぞ」

「了解」


 時間は必要なかった。栞菜と話している間に携帯には直香のメッセージが来ていた。

『配置どこ? ウチはYBP』

 返信にも時間は必要なかった。

『俺もYBP』

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