横浜委託警備員譚
六ツ川和泉
第1話 1 セキュリティ・ブルース(1)
地下鉄の走行音が耳に着いた。近くの窓が全開になっているせいだ。
地下線路の湿って淀んだ臭いがする。まだ春というには早く、地下の空気も硬質な冷たさだった。
電車の暖房が利きすぎているためか、誰も窓を閉めようとはしない。
横浜市営地下鉄Bライン車内のロングシートはだいたい埋まっていた。
帰宅する人、何の用事なのかわからない老人、髪を染めた子どもを走らせるままにしている親。
ネクタイを締めているような人間は一人もいなかった。
どこか着崩した雰囲気だったり、部屋着と同じような見た目の者ばかりだ。タトゥーが目立つ乗客も少なくない。
おそらく、ターミナル駅である横浜駅で乗り換えてきた人たちだ。途中のみなとみらいや
それらの街は、いま車内にいるような人たちが、あえて出かけていくような場所ではない。
乗客たちの視線を微妙に感じながら、僕は入り口ドアの脇に身をもたせて立っていた。
通勤電車の中では立っていることがほとんどだ。
椅子に座るとスリングで吊り下げている豊和20式小銃が邪魔だからだ。ボディアーマーの前にくくり付けたヘルメットも座ると
装備類は自宅から会社まで常時携行を義務付けられていた。移動中、小銃はマガジンを外し、薬室を空にしている。
物騒なことこの上ないが、市内で小銃を見ることは日常だった。現に同じ車両の端にも小銃を持って立っている男がいる。
地下鉄は関内駅から二駅の阪東橋駅に着いた。
電車がホームに滑り込むと、小銃を持った男が僕に向かって軽く手であいさつをし、開いたドアから出ていった。
県警制定の治安維持業務従事者共通ハンドサイン。「お疲れ」とのこと。
面識などないが、同業のよしみというやつだ。
彼が僕に挨拶をしたのは、ボディーアーマーの胸につけたOSSの社章と「委託」と書かれた腕章があったらだ。
この路線の場合、市の中心市街地を通る間は武装した委託警備員が乗車する。インバウンド客が多く利用する新横浜駅から、横浜、桜木町、関内を経て、中心街の端に当たる阪東橋駅までの区間だ。
市が設けた重点治安維持区域に該当するエリアだった。
乗車していた警備員は、この駅で降りて折り返し逆の電車に乗る。ただ行ったり来たりするだけの業務は退屈そうに思える。だが、それだけで済むのなら、仕事としてはアタリだろう。
今年度、地下鉄Bラインの警備を請け負っているのは
重点治安維持区域の中、もし警備員でない人間が自動小銃をぶら下げていれば、ただでは済まない。中心市街地に蟻のようにいる警備員にすぐさま拘束されるか、運悪く警察官に目をつけられれば射殺の可能性も高まる。
警察の方が横暴だというのではない。公権力の適用に対する判断が、委託業務の僕たちよりも速いというだけのことだ。
そんな区域の境目にある
今乗り込んできた若者四人グループの腰回りには、安物のホルスターに突っ込まれた中古らしい旧世代拳銃がしっかりと見えていた。
電車のドアが閉まり、旧式車両が悲鳴のようなインバーター音を立てて発車した。
「ちげーよ、俺じゃねえって」
人に聞かせるような大きな声で話をしている。
「バカじゃねえの、こいつ。あの人からマメドロするなんて、おめーしかいねえだろうがよ」
「ひひひ、バーカ」
下卑た口調、人に警戒感を抱かせるタトゥーと髪形、それなりに鍛えているらしい引き締まった体つき。
必要以上に大声で話すことも、周囲への威勢の誇示という点では、装いと同じだ。
こんな若者、いや、年増を含めた郊外住民は珍しくない。
というよりは、このくらいイキった姿勢の方が多数派だ。でないと、なめられる。なめられると、このあたりではいろいろ不都合が起こるものなのだ。
そんな
多くの若者は、日々の
他者にちょっかいを出したところで、相手だってハジキくらい持っているのだから、何が起こるかわからないのだ。
クソみたいな話だけど、郊外部の治安は相互抑止でぎりぎり保たれていた。そういう意味では、都心部の張り詰め方とは違う種類の緊張感が求められる環境だった。
乗客たちは騒いでいる若者を日常としてスルーしている。
その中に、一人だけ非日常がいた。
あの女性はよくないな。
ドアのわきに立ったままの僕は、車両の端の方に座った若い女性を見た。
地味な紺色のスーツに白いブラウス、質素なひっつめ髪の清楚な服装だ。
誰だって就職面接くらいはする。彼女には何も非はない。悪いとすれば、場所とタイミングだ。
僕は、若者のうちの一人が女性にちらちらと目線を送っているのが気になって仕方がなかった。
女性は膝の上に合成皮革のカバンを乗せていた。その中に.三八〇口径の拳銃くらいは入っていてほしいと願う。
ついでに言うと、女性を見ている男以外の三人は、何気なく僕の方に視線を流し仲間と短く目を合わせた。委託警備員の存在と位置を確認したのだ。
「ねえねえ、就職活動?」
若者の一人が仲間の輪からふらふらと出ると、女性の前のつり革をつかみ、身を乗り出すようにして聞いた。
その若者は派手な金髪で、このあたりではあまり見かけないパンクヘアだ。プロが手掛けたらしい整い方をしている。
ということは、金をかけているということ。郊外部で粋がっているだけの若者には、なかなか手が出ないものだ。本職のワルか、趣味の悪い都心住民かも知れない。
つり革をつかんでめくれた袖口から極彩色の入れ墨がのぞいた。
女性はあからさまに迷惑そうな顔になった。
「うまくいった? いい会社あったら教えてよ」
「あったらね」
「っていうか、どこ受けてきたの?」
会話を聞きつけて、ほかの三人も女性の方へ向かった。
嫌だなあ。僕は心の底がざわつきはじめた。帰宅途中に遭遇したくない光景だ。
「教えない」
女性が冷たく言うのが聞こえた。男たちと目を合わせようとしないのは、いい心がけだ。
「つれないなあ。ボクたちも仕事探してるからさ、参考にさせてよ」
「ボク? やっぱバカだ、こいつ」
三人がヒャヒャヒャと、いやらしい笑い方をした。
車内に得も言われぬ緊張感のようなものが漂い始めた。こいつらはよろしくない。
今スマホをいじっている乗客のうち少なくない人が、SNSでこの事態を誰かに知らせていることだろう。
僕の向かい側の席に座った高齢女性は、あなた警備員でしょ、という顔でこちらをちらちら見ている。
いや、もう勤務時間外だよ。
地下鉄は次の吉野町駅のホームに滑り込んだ。
女性はやおら立ち上がると、四人の間をすり抜けてドアに向かった。男たちはきょとんと取り残された。
誰もがほっとした顔をした。
終わってみれば、よくある光景だった。
男たちもすぐにニヤニヤして、ドアを出ていく女性を見送った。
みじめな自分たちを物笑いの種にできるのだから、それはそれで面白い。この話を
普通の男ならそれでおしまいだ。
ところが、終わっていなかった。
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