第6円



 夜風が湿った草を揺らす。

 河川敷――月明かりに照らされたその一角が、黒い靄で覆われていた。どろりと膨れ上がる影。人の形をかすかに留めながらも、腕は獣のように伸び、目だけがぎらぎらと赤く光る。


(……あれが悪魔……!)


 喉がひりつく。声を出せば一瞬で殺される気がして、息を潜める。

 けれど、その緊張をかき消すように――


「はあぁぁッ!」


 甲高い声と共に炎が閃いた。

 日野茜。赤髪を振り乱し、掌から迸る炎が影を包む。

 轟音と熱気が一気に押し寄せ、湿った夜気が一瞬で灼けつく。


(うおっ……熱っ……! ここまで届くのかよ……!)


 河原に生えた雑草が一瞬で炭に変わる。だが延焼を気にする様子はない。

 ここは川辺。燃え広がる心配がないからこそ、彼女は全力を出せるのだ。


「――逃がさないわ」


 冷ややかな声。

 神崎縁が両腕を広げると、銀の鎖が月光を反射しながら宙を舞った。

 シャララ、と水音に重なる金属音。鎖は悪魔の脚を絡め取り、そのまま地面へと叩きつける。

 骨が砕ける嫌な音が響き、悪魔の咆哮が夜空を揺らした。


(……マジかよ、戦争じゃん……!)


 全身の毛穴が開くような緊張感。

 背筋が凍る。自分の身の軽さが、ここまで重く見えることを初めて知った。血と炎のにおいが鼻を突き、胸の奥が冷たくなる。


(近づいたら、俺も一瞬で終わりだ)


 欲が囁くのを必死に押さえ込む。確かにあの残滓は“旨味”がありそうだ。だが、旨味と命の天秤は簡単に割れるものではない。今日ここで無理をして取りにいけば、確実にハルの身が砕けるだけだ。


「……っ!」


 思考を遮るように影の腕が鞭のように振り下ろされた。

 それを受け止めたのは――桃川ももかのぬいぐるみだった。

 ふわふわのクマの人形がぐっと腕を伸ばし、衝撃を真正面から受け止める。

 柔らかそうなのに、一歩も引かない。影の腕がしなるたびに、地面の砂利が跳ね上がった。


「今です、先輩!」


 桃川の声に応じ、神崎が鎖を首へと巻き付ける。

 ギリギリと締め上げ、動きを封じたところへ――日野が炎を突き出した。


「燃え尽きろォッ!」


 炎柱が夜空を焦がす。

 悪魔の断末魔は耳をつんざき、黒煙が爆ぜるように広がった。

 数秒後、そこにはただ焼け焦げた大地と、風に揺れる残滓だけが残った。


 ――静寂。

 戦場は、さっきまで人ならざる怪物がいたとは思えないほど静まり返っていた。


 冷や汗が首筋を伝う。


(……今日は、やめておこう)

『がははっ! おいおい、獲物を目の前にして退くのか? チキンだなぁ!』

(うるせぇ……賢いって言えよ。命がなきゃ金もねぇ。俺はバカじゃねぇんだ)


 足音を立てぬようゆっくりと後退する。草いきれが靴底にまとわりつく感覚が頼りなく、心臓は早鐘のように打つ。それでも、逃げることを選ぶのは臆病でもなく合理的だ。自分にそう言い聞かせながら。


(……でも、終わったら残骸が出るはずだ。少し離れて様子だけは見ておくか)


 だが好奇心は消えない。離れた安全圏から視線を向け、三人が残滓を片付ける様子を遠巻きに眺める。近づきたくなる衝動を何度も振り切って、足を速めた。


 河川敷を離れると、冷たい夜風が頬を打つ。家路につく足取りは速く、胸にはまだ小さなざわつきが残っていた。――命の重さを直視した夜。欲は消えないが、今日は持ち帰らない。それだけは、ハルの中で静かに決まっていた。



――翌日の放課後。

 部室に集まったのはいつもの四人――けれど、空気はどこか落ち着かない。


「……ごめんなさい。今日は急ぎが入ったの」


 神崎先輩がそう告げると、日野も桃川も立ち上がる。

 三人は短いアイコンタクトを交わし、鞄を掴んでそそくさと出ていった。


 静かな部室にひとり残され、俺は赤ペンを弄びながら鼻を鳴らす。


(……またかよ。最近、ほんと多いな)


 河川敷で見た昨夜の光景が脳裏に蘇る。

 炎に炙られ、鎖に締め上げられ、断末魔を上げて消えていった悪魔。

 命を賭けた戦いの凄絶さに――俺は結局、手を出せなかった。


(……あれは無理だ。部室でこそこそ換金してるのとは訳が違う。死にたくねぇ)


 心臓の奥に、昨夜の冷たい汗がまだ残っている気がした。


『がははっ! おいおい、ビビって逃げ帰った自分を正当化か?』

(うるせぇ……あれは戦略的撤退ってやつだ。命は一個しかねぇんだ)


 そう吐き捨てながらも、机の隅に積まれた新品のノートやペンに視線が向く。

 だが、ここで換金する気にはなれなかった。

 三人が戻ってきたら一発でバレる。――今は大人しくしておくのが正解だ。


 部活はあっさりと終わり、時計を見ればまだ夕方前だった。

 外の空は茜色に染まり始めていて、校舎の窓から差し込む光が床に長い影を落としている。


 俺はひとり、夕暮れの廊下をぶらぶらと歩く。

 昨日は命を賭けた修羅場、今日はただの静かな校舎。落差がひどくて、逆に現実感が薄れる。


(……さて、どこで取り返すか。昨日は雑誌で儲かったけど、あんなの小銭みたいなもんだ。今日は――もっと派手に稼いでやる)


 そんなことを考えていると。


「――桐生くん」


 名前を呼ばれ、振り返った瞬間、胸がざわついた。

 そこに立っていたのは、音楽教師。

 普段は優しげな雰囲気をまとっているけれど――昨日、職員室で一番大きな声を上げていた人物でもある。


(……げっ。よりによって“あの雑誌のファン”の佐藤先生じゃねぇか……!)


 心臓がドクンと跳ね、思わず背筋が硬直する。

 俺の顔に浮かんだ影を見抜いたのか、それともただの偶然か。先生は淡々と口を開いた。


「少し、時間いいかな?」


 廊下に静寂が落ちる。

 遠くでチャイムの余韻がかすかに響き、時計の秒針がやけに大きな音で刻まれていた。


(……マジでなんだよ。俺、詰んだ? いや、冷静になれ。外面で誤魔化せばまだどうとでも――)


 不安を隠しながら、俺は作り笑いを浮かべる。

 靴音が廊下に響く。夕焼けがガラス窓に反射して、影が二つ並んで伸びていた。

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