クズとネズミの金勘定

上下上下

第1円



放課後の文芸部室は、今日も冷房が効きすぎている。

 汗をかいたシャツが一瞬で冷えて、俺――桐生陽きりゅうはるは思わず肩をすくめた。


「おつかれさまです、神崎先輩。今日も原稿チェック手伝いますよ」

「ありがとう、桐生くん。助かるわ」


 黒髪ロングの部長――神崎縁かんざきゆかりが、上品に微笑む。誰にでも均等に優しいその笑顔。俺は“好青年”っぽく笑みを返した。外面は大事だ。人は“いいやつ”を疑いにくい。


(こうして媚びとけば、俺の株はまた一つ上がる。安いもんだ)


「遅っ。あんた絶対どっか寄り道してたでしょ」


 赤髪を肩で揺らし、日野茜ひのあかねがジトっとした目を向けてくる。

 口は悪いが、嫌われているわけじゃない。


「購買が混んでてさ。これ、どら焼き。――ちょっとがあったからさ、みんなで食べようぜ」

「……ふーん、気が利くじゃん。……まあ、ありがと」

「あ……ありがとうございます、ハルせんぱい」


 白髪ハーフツインの一年――桃川ももかわももかが、おずおずと声を漏らす。

 おとなしい仕草に、日野は「ほら、早く食べなよ」なんて調子で肩を軽く押す。


「うーん……ちょっと甘すぎるかも」


 どら焼きを口に入れた日野が、照れ隠しのように小さく咳払いする。


「甘いのが疲れを取るんだよ。文芸部って頭使うし」


 俺がさらっと返すと、神崎先輩が小さく笑った。


(ほんとチョロいぜ。たった百円の菓子で“気の利く部員”の座が買える。……人間関係ってやつは、安上がりな商売だ)


「確かにね。じゃあ、今日の活動は原稿の整理から始めましょうか」

「はい!」


 桃川の声は少し小さいけれど、真面目さがにじむ。


 机に紙の束が広がり、部室にペン先の音が重なる。インクの匂いが空調の冷気に乗って鼻をかすめる。

 静かな時間――けれど俺の耳の奥には、別の囁きが潜んでいる。


『……なぁハル。お前、ほんと器用だな。外では“爽やか部員”、内心じゃ“クズ野郎”。――俺はそんなお前が大好きだぜ』


 低く煤けた声。俺だけに届くそれは、空調の風に紛れて消えていった。




――ペン先の音だけが、静かな部室に戻ってくる。

 何事もなかったように、俺はペンを走らせていた。


 視線は机の端に積まれた新しいノートや備品へと移る。


(新品なら、寿命のコストは軽い。……いくらで換金できるか、試してみてぇな)

『……おいおい。ほんとブレねぇな、お前は』


 耳の奥で、あの煤けた声が笑う。


『欲に正直ってのはいいことだぜ、ハル。……まあ、お前は最初からそうだったよな』


――最初。

 俺がこいつと出会ったのは、昨日。

 部室の隅に積まれていた、埃をかぶった一冊の本から始まった。


 昨日は、部活が休みだった。

 誰もいない放課後の部室で、俺は暇つぶしに古本の山を漁っていた。


 そして俺は見つけてしまった。

 部室の隅、誰も触れたことがなさそうな分厚い革張りの本。

 埃を払ってページをめくった瞬間、空気が一変した。


 ぞわりと背筋を走る寒気。

 ページの隙間から黒い煙が滲み出し、床に染み広がる。

 やがて小さな獣の形をとった。ネズミ――だが、赤い双眸は人間を食らう悪鬼のように光っていた。


『……やっと、開いたか』


 低く煤けた声。

 視界が揺れ、冷房の効いた部屋が一瞬で冷凍庫みたいに寒くなる。


『俺は悪魔だ。人間俺と契約しないか。特殊な力を使わせてやる。その代わり、寿命をもらうがな』

「……は?」


 普通なら悲鳴を上げて本を閉じるだろう。けど、俺は違った。


「俺にメリットは?」


 目を細めたネズミが、にたりと笑う。


『……いい質問だ。力を使えば――金が手に入るぜ』


 どくん、と心臓が跳ねる。

 恐怖は一瞬で吹き飛び、頭の中は金の二文字でいっぱいになった。


「金!?」


 思わず声が裏返る。

 手汗が出る。喉が乾く。怖さよりも、期待が勝つ。


「……マジで?」

『ああ。お前が触れた他人の物を換金してやる。市場価値そのままに、現金でな』

「現金!? ははっ、遊び放題ってことじゃねえか!」


 気づけば俺は笑っていた。

 怪談の只中にいるはずなのに、心は遊園地に放り込まれたみたいに浮ついていた。


「何すれば契約になるんだ兄弟!」


 ネズミの悪魔は、きょとんとしたように目を瞬いた。

 次の瞬間、カッカッと喉を鳴らして笑った。


『兄弟、か……面白ぇ奴だな。いいぜ、お前の魂に刻むだけだ。ちょいと手を出しな』

「はいよ! ……おっと、俺、注射とか血は苦手なんだけど」

『安心しろよ、ちょっとチクッとするだけだ』

「それが一番イヤなんだって!」

『がははっ! 大丈夫だ、兄弟。俺は痛ぇのも楽しむタイプだ!』


 黒い煙がするりと絡みつく。

 じわ、と熱が皮膚を焦がすように広がり――次の瞬間、胸の奥に何かが沈み込んだ。


『これで契約成立だ。……これからはお前の中に潜んで、一生ついて回るぜ』

「……は? 中に?」

『そうだぜ、ハル。普段はお前にしか聞こえねぇ声になる。姿を見せるのは力を使う時だけだ』

「……なあ、俺、自己紹介したっけ?」

『契約した仲だぜ? 名前くらいわかるさ。ハル、よろしくな』

「おいおい、気安いな」

『がははっ! 俺とお前はもう一心同体だ。遠慮なんざいらねぇだろ?』


 声は俺の頭の奥で響く。

 目の前のネズミはもう消え、ただ黒い本だけが机の上に残っていた。

 それなのに、耳元で誰かが囁いているみたいだ。


『……さて、ハル。せっかく契約したんだ、試しに一発やってみるか?』

「試すって……何をだよ」

『お前の“新しい力”だよ。他人の物を換金する――簡単な実験だ』

『軽いもんがいい。無くなっても困らねぇ、でも“お前のものじゃない”やつな』

「……これでいいか?」


 俺は近くの机の上にあったシャーペンをつまみ上げた。

 誰かの忘れ物だろう。安物っぽいが、とりあえず条件はクリアしてるはずだ。


『上等だ。そいつを換金してみな』

「換金って……どうすれば」

『簡単さ。そいつを強く握って“換金”って思え』


 言われるままに、シャーペンを握りしめる。

 指先をネズミが伝いシャーペンに噛み付く――次の瞬間、手の中が空っぽになった。

 床には百円玉が転がっている。


「……マジで?」

『ほらな。市場価値に応じて現金化される。もちろん、代償はある――持ち主が触れていた時間と同じだけお前と持ち主の寿命が削れる』

「寿命、ねえ……」


 周囲を見渡した。誰もいない。

 外見には何の変化もなく、誰かに気づかれる様子もない。


「……持ち主の方にも、気づかれたりしないのか?」

『しねぇよ。寿命なんざ目に見えねぇ。少し縮んでも気づく奴はいねぇ』


 胸の奥にかすかな違和感はある。

 けれど――それは俺だけが知っていること。


『どうしたハル。ビビってんのか? せっかく小銭が転がり込んだのによ』


 クツクツと笑う声が頭に響く。

 俺は百円玉を拾い上げて、にやりと笑った。


「バレなきゃ……犯罪じゃない、だろ?」

『がははっ! 最高だぜハル!』



――昨日の契約。

 それから俺は、何事もなかった顔で文芸部に顔を出している。


 ペン先の音と、ページをめくる乾いた音。

 ただの“文化部”の日常。


 部長で3年の・神崎縁。

 口が悪い2年の・日野茜。

 おずおずと原稿をめくる一年の桃川ももか。


『……気づいてねぇみたいだな、ハル』

(……あ?)

『その三人、全員“魔女”だぜ』


 ペンを持つ手がわずかに止まった。視線は動かさず、耳の奥に集中する。


(魔女……? なんだそれ、童話に出てくるやつか?)

『ちげぇよ。魔女ってのは先祖に悪魔の血を引いた人間だ。寿命を削りながら異能を使う。で、その役割はひとつ――悪魔狩りだ』


 心臓がどくりと鳴る。

 つまり、この部室で一緒に机を並べている三人は――。


(……俺の敵ってことかよ)

『正解。バレたら最後、俺もお前も終わりだ』


 耳の奥に潜む声は、楽しげに笑った。


『いいかハル。こいつらの近くで力を使うんじゃねぇぞ。奴らは気配に敏感だ。換金なんかしたら一発でバレる』

(……チッ。せっかく目の前に新品の備品があるってのに)

『我慢しろ。我慢できねぇなら、別の場所でやれ。お前まで狩られたら俺が困るんだからよ』


 俺は表情を崩さず、赤ペンを走らせた。

 外から見れば、ただの文芸部員。

 けれどこの部室は――悪魔を狩る魔女たちと、悪魔を飼う俺が同じ机を囲む、奇妙な場所だった。

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