第3話「噂は契約で冷やせ」

 王都議事堂の回廊は、朝から体温が高い。

 石壁に貼られた告示札が汗を吸うように波打ち、靴音は議題の数だけ増殖する。私は扇を閉じて、笑顔の角度を二度だけ落とした。ここでは笑いすぎると、誰かの矛先に見える。


 議題はひとつ、「特別事由の遡及適用」。

 王太子側の代議士が提案している。婚約破棄の“正当事由”に新たな条項を増やし、それを過去に遡って適用しようという蛮勇。愛の終わりに筋を通すためではない。支払うべき仮払いを、帳簿から消しゴムでこするためだ。


 扉の向こうから声が飛ぶ。「情実の温床だ!」

 反対席の若い議員が机を叩く音。拍が早い。焦っている拍だ。


「レティ」

 肩越しに呼ばれて振り返ると、黒い外套が朝の光を切った。リヒトだ。

「委員会の席は確保した。陳述の時間を取ってある。——その前に」

 彼は外套の内ポケットから薄い冊子を一つ、私の手に滑らせる。

 表紙には簡潔な書き文字。

『風説冷却手順(暫定)』

「君の言葉を借りた」リヒトが言う。「噂は契約で冷やせ」

「——好みですわ」

「三段の手順にした。待機、照合、訂正。待機期間を置くだけで、過半の誤報は蒸発する」

「熱は、時間で逃げますものね」

「君の**“温度”**という比喩が腰を支えた。条文に骨が通った」

 私は冊子をめくる。紙は薄いが、指に小さな抵抗がある。よく乾いた紙の感触だ。


 回廊の奥、蜂蜜色の飾り羽が微かに揺れた。

 ラモナ・スピネルがこちらを見て、きっちりと微笑む。彼女の笑いはいつも絵画の額縁のように完成している。

「ご機嫌よう。待機期間? 良い響きね。広告主は嫌いそうだけれど」

「広告は訂正の敵ではありませんわ。遅い広告は敵になるけれど」

 私が冊子を示すと、ラモナは唇だけで笑った。

「読むわ。残念ながら、この場では敵同士」

「戦うのではなく、手順を合わせるのが望みですのに」

「それを人は敗北とも呼ぶの」

 彼女は踵を返し、香の尾だけを残して議場に入っていった。


 ——委員会。

 半円の机。真ん中に砂時計。上席の鐘が一つだけ鳴り、議長が声を落とす。

「本委員会は、『婚約破棄の特別事由』の追加、及びその遡及適用の是非を審議する。まず賛成意見から——」

 王太子側の代議士が立ち、紙を振る。

「公序良俗の観点から、品行不良や不実記載などが明らかな場合、正義は遡ってでも救われるべきだ。現行の制度では悪意ある者が守られてしまう」

 耳障りの良い言い回し。**“正義”という砂糖で“遡及”**という苦味を包む。

 議長が視線で合図する。私の番だ。


「レティシア・エルノア、〈破棄保〉代表。意見陳述いたします」

 扇は机に置く。私は手ぶらのまま立つ。骨の音がしないと、言葉の音がよく響く。

「遡及は秩序の敵です」

 ざわめき。私は続ける。

「それは、“昨日の自分”に“今日のルール”を押しつける行為。今日、赤に塗られた線で、昨日の白を裁く。誰が安心して生きられましょう」

 私は砂時計を指差す。

「時間の向きは、砂に従います。責任の向きも、砂に従うべき。——特別事由の追加は未来に向けて閉塞を減らすために必要かもしれません。でも、過去に向けて刃を突き立てるのは復讐であって、秩序ではない」

 若い議員の一人が、頷く角度を大きくした。

「救済が要るなら、手順で救えばいい。私は今日、『風説冷却手順』を提出します。待機、照合、訂正。——三日待てば、真実相当性のない熱は落ちます。照合で証拠の筋を揃え、訂正で顔を上げる機会を明記する。これで悪意の報道は自滅し、善意の取材は守られる。遡及はいりません」

 リヒトが黙って頷くのが、視界の端に映る。

 私は息を整え、最後にひとつだけ、数字を置いた。

「昨夜から本日正午までに、わたくしたち〈破棄保〉に寄せられた相談は四十八件。うち、虚偽に基づく噂が原因のもの、三十二件。待機三日で消えた相談の過去統計は六割。遡及が消すのは、安心ではなく信頼です」

 砂時計の砂が、最後の粒を落とした。

 議場の空気は、冷蔵庫の扉を開けたみたいにひやりとした。


 討議は二刻に及んだ。結果は——遡及否決、風説冷却手順の試行採択。

 鐘が二度鳴り、回廊に冬の光が差し込む。

 扉の外でラモナが待っていた。彼女は薄い拍手をする。

「綺麗な勝ち方。でも物語はここからよ」

「物語なら、起承転結の承が好きですの」

「私はいつも転が似合うと言われる」

「自覚があってよろしい」

 私たちは微笑を交換して別れた。彼女の背にまとわりつく蜂蜜の香りが、遠ざかるほど辛くなるのが面白い。


 ——事務所。

 メイは掲示板の新しい枠を用意していた。

〈冷却手順 運用状況〉

待機:48時間(委員会決定に基づく暫定)

照合:出典2以上/反論機会の明示

訂正:同一場所・同一規模/見出し修正必須

「可視化は安心の味方」私は言う。

「味方、です」メイは声に張りがある。顔色が良い。

 彼女は昼のうちにミナへ手紙を届けたという。寮費基金の申請が通ったら、彼女は工房に明日から戻れる。

「ミナ、何か言ってた?」

「ご飯を二杯食べたって」

「素晴らしい統計ですわ」

 数字は人を温めない、と言う人がいる。でも二杯は温かい。鍋から立つ湯気の高さを、目盛りで測るように。


 そこへ、ドアが開いた。

「速報だ」

 チーノが掲示紙を二枚持って入ってくる。

《蜂蜜通信社、第二波予告》

《王太子側、私的書簡の公開検討》

 私は眉をひとつ上げ、扇の骨を撫でる。

「手の内が見える」

「第二波は感情で攻めるはず」チーノが言う。「手紙は感情の容器だから」

「容器には温度がある」

 私は机に紙を広げ、ペン先を三度跳ねさせた。

「冷やす手順を前に出す。——広報文を二本。一本は市民向け、一本は報道向け」

 メイが即座に頷き、インク瓶を二つ並べる。

「市民向けは料理の比喩でいきましょう。『熱い鍋は置いて、蓋をして待つ』」

「報道向けは工程表で」チーノが言う。「出典提出のフォーマット、反論受付窓口、照合タイムライン」

 私は笑う。

「冷蔵庫と工程表。——最強のカップル」


 夕刻。

 蜂蜜通信社が第二波を投げた。

《王太子、苦悩の書簡か “愛の不一致”の真相》

 記事は慎重なふりをしている。“か”が見出しに付く。ただし本文のリズムは急いている。引用が短く、固有名詞が薄い。温度が高い。

 同時に王太子側は、私的書簡の公開を示唆する告知を出した。「真実を明らかにするため」。

「ミナの夕飯が三杯目に増えるくらい、落ち着かせましょう」私は言う。

「どうやって?」メイがペンを止める。

「手紙に手紙で対抗するのは、熱のぶつけ合い。——書式で迎える」

 私は棚から薄い紙束を抜いた。

『私信取扱い指針(案)』

「私信は証拠になり得る。けれど、私信は同時に生活でもある。公開の正当性を三条件に限定——公益性、本人の同意、要件中心の編集。恋や嘆きは黒塗りにして、要件だけ見せる」

 チーノがすぐに反応する。

「証拠価値の減衰を補う代替資料の提出も必須だな。財務記録、出入り記録、第三者の陳述」

「手紙は温度が高い。だから温度計を併置する。——時間印、出典、改変履歴」

 メイは目をきらきらさせ、広報案のタイトルに可愛い飾り罫を引いた。

〈手紙の冷やしかた〉

—“愛の文字”は冷蔵、事実は氷室へ—

「少し洒落が過ぎる?」

「甘さを引くには塩も要る」私は肩をすくめる。「塩は可愛い小瓶に限る」


 夜の公開立会。

 私は机上に、『風説冷却手順』と『私信取扱い指針』を並べた。

「蜂蜜通信社さま、第二波は拝見しました。待機のお願いを三日から四十八時間に短縮します。資料照合のフォーマットはこちら。反論窓口は今夜から開きます」

 画面にチャットが流れる。「手順助かる」「冷蔵庫草」「氷室はエモい」。

 ラモナの顔が配信欄に現れる。彼女は頬杖をつき、片眉を少し上げた。

「冷蔵庫で記事を冷やせと言うのね」

「熱中症を避けるために」

「広告主が解凍を急かすわ」

「では氷室に」

「氷室はコストが高い」

「訂正のコストより、安い」

 やり取りのテンポは、互いの呼吸の量で決まる。私は呼吸を少し長めに取り、ラモナに間を渡す。

 彼女はその“間”で笑った。

「四十八時間。いいわ。私信の扱いは、指針に従う。ただし——王子が同意すれば、公開に踏み切るわ」

「同意書の書式はこちら」

 私は同意文例を画面に重ねる。公開範囲、目的、黒塗り箇所、撤回権。

「撤回権?」ラモナが目を細める。

「感情の温度は変化します。撤回の手順があれば、公開の勇気は増える。——取材も恋も、勇気が支える」

 チャットに再び「こわやさしい」が流れ、私は口の中でミントを噛む。葉の香りが、緊張の端を丸くする。


 配信の終わり際、リヒトから短い紙伝が届いた。

《特別事由の遡及、否決。冷却手順、協力要請》

 私は文字を二度だけ読んで、扇に挟んだ。

「——承りました」


 深夜。

 机の上に紙の山。『約款の約款』の目次はもう整っている。

 一、目的

 二、定義

 三、立証責任の配分

 四、仮払いと回収

 五、訂正機会と風説冷却(新設)

 六、私信取扱い指針(付属)

 七、相互扶助

 八、監査と更新

 メイは欠伸をかみ殺して、図の飾り罫を細く整え、チーノは引受余力と試行期間のシミュレーションを走らせている。

「睡眠も制度で守られるべきだと思いません?」メイが言う。

「仮眠条項をつけましょうか」

「賛成」チーノが真顔で頷く。「仮眠は事故を減らす」

「では全員、四十五分の仮眠。——私は三十分で起きます」

「十しか違わない」

「十分は魔法」

 私が笑うと、二人も笑い、灯りが少し柔らかくなった。


 ——目を閉じる前に、私は扇の骨に触れる。

 今日、何度も開いて、何度も閉じた。

 笑顔の角度は、朝よりも一度深くなっている。疲労は公平の副作用。けれど副作用には対策がある。

 ミントの瓶。温い毛布。風説冷却の紙。

 外では、王都の夜が温度を下げていく。

 噂は勝手に冷えない。冷やすのは手順。恋は勝手に燃えない。燃やすのは勇気。

 私は小さく息を吐き、砂の音を聞いた。机上の砂時計が細い喉で歌う。時間は、背を押してくれる種類の敵だ。


 明朝には、王太子側の私信が指針に沿って出るだろう。黒塗りが多く、要件は薄い。恋の温度は保たれ、争点は冷蔵される。

 それでいい。骨が残る。骨があれば、人は立てる。

 私たちは、泣く人の数をまた一人、減らせるかもしれない。


———次回予告———

第4話「約款の約款—王都共通書式」

 “書式を先に押さえる”三日計画、折り返し。王太子側は同意書を出し、蜂蜜は連載形式で温度を下げる。一方、下町では工房火災が発生。仮払いの回収条項が想定外の火花を散らす。相互扶助は、美談で終わらせない。条文は、泣き顔の脇に立つためにある。

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