第2話「宮廷法務局、約款に敗る」
夜は粘度を増し、朝は刃を研ぐ。
王都の中心、白い石畳が四角に切り揃えられた宮廷法務局は、曙光のうちから冷たかった。私は扇の骨を数え、笑顔の角度を三度、浅くした。メイは書類鞄を、チーノは測度表を抱え、門前の階段で一度だけ深呼吸を合わせる。
執務官はすでに待っていた。黒外套の男、昨夜の彼だ。名乗りは簡素だった。
「リヒト・クラウス。王弟殿下の執務官」
彼は手首の小さな印章を見せるだけで、過剰な威圧はしない。目だけが硬質だ。
「約款一式、預かる。——ただし、本日は任意提出の聴聞だ。没収ではない」
「任意が好きですの、私」
「法の下で、みな等しくそうであってほしい」
言葉は乾いているのに、温度がある。私は肯定の一礼を返し、廊下の先、審理室へ進む。
審理室は長方形。窓は高く、机は低い。中央に楕円の卓、向かいに審理官が三名。最年長の男が、名簿を確認する指を止め、私たちを見上げた。
「王都宮廷法務局・第二審理室、審理官ギルベルト。本件は社会秩序影響照会。新設保険商品〈婚約破棄包括補償〉の約款が、王都秩序に与える影響を聴取する」
言葉の刃を、机上に並べる儀式。私は扇を机の端に置いた。扇の骨、二本目の内側には第七条解説書が薄く仕込んである。抜けば切れるが、抜かずともこちらの呼吸は整う。
「まず問う」
ギルベルトが書面をめくり、眉根を寄せる。
「第七条、『王侯貴族による一方的破棄宣言は重大事故とみなす。録音・録画等の外形要件を満たすとき、立証責任は宣言側に転換される』。この条項は、王侯の名誉を過度に侵害するのではないか」
「いいえ。名誉は事実の扱いで守られます。私たちは侮辱せず、要件だけを見る」
メイが書記のように、私の後ろでさらさらと筆を走らせる。
「破棄の事実が公共の場で発せられ、録音という外形で固定された時点で、損失は発生します。被害者が**『破棄されたかどうか』を証明し続けるのは、二重の負担。だから転換する。『破棄に正当理由があった』ことを、宣言側が示せば良い」
チーノが静かに補足する。
「期待支払の推計によれば、虚偽申告の誘因は保険料率の設定で抑制されます。むしろ、外形要件の厳格化は虚偽に厳しい」
ギルベルトは鼻で笑い、紙を裏返した。
「外形。外形。——魂はどこだ」
この問いは、たいてい感情の土俵に引きずり込むための鈎だ。私は頷きを小さくした。
「魂を守るために、外形を使うのです。泣くことを証拠**にしない。泣く人は上手にも下手にも泣くから。公平は冷たい顔をしますが、冷たさが先にあるから、温かさを後から確かに置ける」
審理官の一人が、わずかに背もたれに重心を移す。聞く姿勢の角度に変化が出る。
リヒトが卓の端に静かに資料を置いた。
「王弟殿下より提出。過去十年の婚約破棄に関する市民の嘆願書統計。『公開破棄後の生活困窮』が最頻。保険の導入により、寮費・衣食費の短期救済が期待できる」
ギルベルトの視線が一瞬だけリヒトへ。
「王弟派は、彼女を支持するのか?」
「王都秩序の実利を支持する」
彼の返答は、渇いた紙に落ちる水滴みたいに短い。滲みは広がらない。ただ一点の濃さだけが残った。
机上にもう一つの影が滑り込む。
「失礼、補助人として入ります」
金の髪飾り、絹の匂い、唇に赤い線。女が一礼して座る。
「ラモナ・スピネル。ゴシップ商会〈蜂蜜通信社〉の顧問弁務。御社の約款は、報道の自由を不当に萎縮させる虞れがある」
きた。
ラモナは笑わない目で笑い、細い指で第九条を弾く。
「第九条、『虚偽情報の頒布により被保険者に損害が発生した場合、当該頒布者の純利益を上限に損害額を推定』。この推定は、報道機関にとって死刑宣告よ。記事一本で純利益の算定? 怖くて書けない」
「虚偽を書かなければいいだけですわ」
私は短く答え、扇の骨を返して解説書を抜く。
「推定の反証は、『真実相当性』で十分。取材の手順が健全であれば、あなたがたの自由はむしろ守られる。私たちは沈黙を強要しない。嘘を高くつけるだけ」
ラモナが微笑み、肩をすくめる。
「それを人は萎縮と呼ぶの」
「萎縮の反対は無責任ですわ。——それに、私たちの第九条は二段です。被害最小化努力義務を被保険者に課し、訂正機会の提供を先に義務化している。あなたがたが訂正すれば、推定額は三分の一に減る」
ギルベルトが「ふむ」と鼻の奥で言い、紙を指で弾いた。
「訂正を前提にしているのは良い。が、王都秩序という観点ではどうだ。恋愛の場に、金を、約款を持ち込んで、人々の機微が硬直することは」
私は首を振る。
「機微は、守られた生活の上でしか芽吹かない。明日食べられるという前提は、恋の自由の下部構造です。婚約破棄のコストの所在を、泣く側一人に集中させるのは秩序ではない。特権です」
審理官席の一番若い女が、微かに頷く。インクの匂いが強い。書き慣れている手だ。
ギルベルトは最後の一枚をゆっくりめくり、声を落とした。
「第七条の転換は、王侯にも適用される。王太子殿下も、だ。——昨夜の件は、適用範囲か」
「適用します」
言い切ると、室内の空気が一度だけ大きく沈んだ。
リヒトの瞳に一瞬の反射。ラモナが唇に触れる。
私は扇を倒して、机にまっすぐ額縁を置くみたいに言葉を置いた。
「昨夜の公開宣言。音声記録あり。相手方の発言機会も十分。衆人環視。婚前契約に破棄事由の限定条項あり。以上、外形要件を満たす。転換ののち、殿下側が正当事由を示せば良い。示せなければ仮払い確定」
ギルベルトは椅子の肘に指を置き、三度軽く叩いた。
「結論を言う」
呼吸が、室のあちこちで止まる。
「約款〈婚約破棄包括補償〉の一時運用を容認する。第七条および第九条については、限定的適用とし、十二週間の試行期間をもって社会影響評価を行う。違法性の疑義は、現時点では見当たらない」
メイの指が筆を止め、私の肩甲骨の裏側あたりに、小さな熱が灯る。
ラモナはため息を楽しげに吐き、片手を上げて審理官に向き直る。
「では、実務の話を。試行期間の最中に、当社が婚約破棄記事を出す権利は?」
「ある」
ギルベルトは即答した。
「ただし、虚偽の頒布は推定を伴い、訂正機会の提供は必須だ」
「承知」
ラモナは笑顔を作り、次の瞬間、その笑顔で私を見る。
「戦場が決まったわね、レティシア嬢」
「手順の上でお会いしましょう、ラモナ殿」
審理室を出ると、廊下の窓から秋の陽が薄く落ちていた。
メイが拳を小さく握る。
「勝ちました」
「始まったのよ、メイ」
私は扇を開閉し、廊下の端に寄る。リヒトが歩調を合わせ、少しだけ速度を落とした。
「正直に言う」
彼は視線を外さずに言った。
「君の声は、局内で浮く。痛みを数字にするとき、人は君に石を投げる」
「知ってますわ」
「石は重い」
「請求書の紙よりは」
彼の口角が僅かに上がった。
「今朝の殿下側の記者会見、開始は四半刻後。王弟殿下は中立を保つ。ただ、秩序を守る行為には協力する」
「秩序を守るとは?」
「泣く人の数を減らすこと」
昨夜の私の言葉だ。彼は憶えていた。私も、憶えておくことにした。
法務局を出る頃には、王都の掲示板に人垣ができていた。黒い魔鳥が往来し、紙片が光り、噂が泡立つ。メイが背伸びして、ひとつの紙片を指差す。
《王太子殿下、真実を語る》
タイトルは甘い。蜂蜜通信社の書式だ。
私はメイに頷いて見せ、まっすぐ自社の掲示板に向かった。掲示板の枠に、赤い札を差し込む。
《仮払い実行:七十二万クレド》
《寮費基金:本日より申し込み受付》
数字の札は、言葉よりも長く残る。蜂蜜の甘さは揮発しやすい。砂糖水の比重は、真水より重い。それでも蒸発する。支払は蒸発しない。
事務所に戻ると、机の上に新しい封筒が二通置かれていた。
一通は王太子側代理人からの通知。
『婚前契約の特別事由に基づく破棄の主張、並びに正当事由の疎明の提出予告』
もう一通は、蜂蜜通信社。
『反論の機会の提供』
ラモナ、早い。私は封筒を指で叩き、チーノとメイを見た。
「二正面作戦ね」
チーノは測度表を広げる。
「王太子側の正当事由は、たぶん**『婚前投資の不実記載』か『品行不良』に寄せてくる。証拠連鎖を点検しよう」
「蜂蜜は?」
「温度で落とす」
私は窓を開け、街の熱を吸い込んだ。
「彼らの『真実相当性』は手順で構成される。取材の時刻表**、出典、反証の機会。——温度はそこに出る。焦って書いた記事は、紙の端が熱い。冷やす時間がないから」
メイが笑う。
「記事の温度、測れるんですか?」
「比喩だけど、測れるわ。——誤字の密度、固有名詞の誤用率、引用符の歪み、匿名の比率。焦りは言葉に残る。訂正は焦りを冷やす儀式」
メイはうんうん頷き、すぐに広報文の草案を書き始める。
『蜂蜜通信社さまへ。反論の機会、ありがとうございます。本日十八時、公開の場で事実関係の手順をお見せします。録音・録画自由。訂正いただく前提で、資料一式をご提示します』
「可愛い」
「鋭利だよ」
チーノが笑った。温かい笑いだ。
午後、王太子側の会見は想像通りの甘さで始まり、想像通りの苦味で終わった。
殿下は新恋人とされる伯爵令嬢と並び、「価値観の相違」を語った。代理人は紙をめくり、「婚前 투자——」と一度噛んだ。外来語に弱い舌。投資の内訳を読み上げる声は自信に欠け、最後の質疑で、「正当事由を具体的に」と問われ、言葉が宙に迷った。
私は配信枠を取り、公開立会を開いた。
机の上に置いたのは、婚前契約原本、支出明細、受け取り署名、録音。
メイが状況を読み上げ、チーノが支払期待値のグラフを貼る。
「殿下の支出には、贈与と投資が混在しています。婚前契約では、贈与は返還不要、投資は合意事業の不履行時に返還。合意事業の履行証拠はこちら」
私は合意事業の議事録を掲げた。殿下の署名。王室印。
「履行済み。ゆえに返還義務はない。殿下側の正当事由は、疎明に失敗」
コメント欄がざわめく。「条文つよ」「数字つよ」「扇つよ」。可笑しいけれど、狙い通りだ。
そこへ、蜂蜜通信社が記事を投げた。
《婚約破棄の裏に元恋人? レティシア嬢、夜会前夜に男影》
薄い紙、熱い端。温度が高い。
私は眉を上げ、反論の機会を即時に開く。
「ラモナ殿、ありがとう。——手順を見せましょう」
画面に三つの資料を並べる。
一、夜会前夜の出入り記録。執事の署名、門番の時刻印。
二、件の**『男影』の正体——王弟殿下の執務官リヒト。昨夜の通知と受領記録**。
三、蜂蜜通信社の取材メール。本文中の固有名詞誤写、引用の閉じ忘れ、匿名の割合。
「あなたがたは反論の機会を提供した。私は資料で応じた。訂正はどの版で、どの見出しで行われます?」
数秒の沈黙ののち、蜂蜜通信社のサイトに追記が載った。
《見出し・本文の一部を訂正しました》
訂正は、甘くはないが、甘ったるい嘘よりは健康に良い。
私は落ち着いて第九条の運用を宣言する。
「訂正を行ったので、推定額は三分の一。残りの三分の二については、今後三十日で真実相当性が立証されれば免責。ラモナ殿、立証の手順が必要なら提出します」
チャットに「こわやさしい」という言葉が流れ、私は少し笑う。怖い優しさ。言い得て妙だ。
夕暮れ、王都の空は薄く赤い。事務所に戻る途中、石畳の角でリヒトに追いつかれた。
「執務室へ寄ってほしい」
「夜会?」
「手順だ」
彼は短く言い、歩幅を合わせる。
「殿下側の代理人が、特別事由の追加を議会に諮る動きを見せている。遡及的適用の芽がある」
「——遡及は秩序の敵」
「同感だ」
私たちは歩きながら、石畳に落ちる自分たちの影を見た。長さは同じくらいだった。
「王弟殿下は、制度で守ることを好まれる。君の約款は、その素案になり得る。だが、敵も同じく制度で攻める」
「先に書式を押さえる」
「どの書式を?」
「『約款の約款』。——民間保険約款の最低基準。立証責任の配分、訂正機会、仮払い、相互扶助。これを王都の共通書式にする」
リヒトは足を止めた。秋の風で外套の裾が小さく揺れる。
「提出は何日で?」
「三日。夜は紙がよく乾く」
彼はほんの少しだけ目を細めた。
「君は、笑うときと同じくらい、疲れて見える」
「疲労は公平の副作用ですわ」
「副作用には対策が要る」
彼は胸元から薄い包みを出し、私に渡した。ミントの乾燥葉。
「集中が要るときに噛む。眠りの前に噛まないこと」
「ご親切に。請求書に記載しておきます」
「それは——」
「冗談ですの」
メイが肩を震わせ、チーノが珍しく吹き出した。小さな笑いが、石畳の硬さをやわらげる。
夜。事務所の窓に灯りが残る。メイは広報ノートを縦に折り、明日の投稿案を並べる。
〈約款豆知識#1〉:『立証責任の転換』ってなに? ——嘘つき探しではなく、手順の配分。
〈約款豆知識#2〉:『仮払い』って甘え? ——いいえ、生活保護の“橋”。
チーノは算具を片付け、机の角に身を預けた。
「レティ、今日は勝率で言えば?」
「六割八分。蜂蜜は訂正した。殿下側は疎明に失敗。審理官は試行容認。——ただ、遡及が来る」
「来る前に書式だ」
「ええ。夜は紙がよく乾く」
私はミントの葉を一枚だけ噛み、筆を取った。紙は白く、余白は広い。余白は恐ろしくも、可能性でもある。
扉が、閉店後の静けさを二度叩いた。
メイが覗き穴から覗く。
「ミナです」
昼に来た工房の見習い。彼女は両手で持てるほどの布束を抱えていた。
「訂正、見ました。あの人たち、ちゃんとごめんなさいって書いた」
「書いたわね」
「それで、工房の人が言ってくれたんです。『じゃあ明日から戻ってこい』って」
彼女の目は赤い。でも、泣いてはいない。
「それ、仮払いの伝票に貼りましょう。『生活復帰』。——請求書には、晩ごはんの項目も必要だと思う?」
「必要です」
ミナは真剣に頷き、少しだけ笑った。
私は筆を置き、窓の外の夜に目をやる。王都の灯りは、遠い星みたいに瞬いている。
蜂蜜は甘いが、糖だけでは人は立てない。約款は硬いが、骨がなければ人は立てない。
私は扇を閉じ、明日の書式の目次をしたためる。
一、目的。
二、定義。
三、立証責任の配分。
四、仮払いと回収。
五、訂正機会。
六、相互扶助。
七、監査。
八、更新手順。
紙の上で、世界は少しだけ、やさしくなる。
遠くで、夜警笛。近くで、メイの欠伸。チーノの鉛筆が二度、机を叩き、止む。
私は笑顔の角度を、三度、深くした。誰も見ていなくても。笑顔は契約の油、そして自分を滑らかに運ぶ潤滑でもある。
———次回予告———
第3話「噂は契約で冷やせ」
王太子側は特別事由の遡及を画策。議会の回廊で、条文と噂が化学反応を起こす。『約款の約款』提出期限は三日。蜂蜜通信社の第二波は、冷める前にもう一度沸く。ここで必要なのは、冷やす手順。ロマンスは、香りが逃げない温度で。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます