『猿夢』

序論1:とある体験譚

 夜の大学というのは大変恐ろしいのです。昼間の日が出ている時間の校舎とは別世界のように思えます。人のいなくなった空の教室というのは明るい時と同じもののはずなのに、中に詰め込まれている空気が全く違うんです。静かで冷たくて、幽霊そのものがそこに蔓延しているような。

 まだ廊下の灯りは点いていました、でも教室のは点いていませんでした。それが教室の闇をさらに濃くしているように思えてかえって怖くなってしまうんです。

 何故その時私が夜の校舎にいたかですって? 教授とお話をしていたら遅くなってしまいまして……いえ、別に『噂』を確かめに肝試しでというわけではありませんわ。興味はありますけれども、一人で行くのは怖すぎます。

 もう、何人いようとも行きたくはありませんが……

 とにかく、私は夜の校舎を歩いていたのです。それでふとメッセージが来てないか確認したくて、お行儀悪いですが周りに人もいなかったので歩きながらスマホを開いたのです。


「あれ? ……繋がりませんわ」


 学校のWi-Fiには接続されていて、アンテナも十分に立っていましたのに……どうしてかネットワークに接続されていませんでした。

 もしやと思ってどのWi-Fiに繋がっているかを確認しました。すると、普段使っている学校のアドレスではなく、全く知らない……いえ、恐らく生徒ならば知っているはずのアドレスだったのです。


“Omaeda”


「お、お前だ……?」


 私は誰かに見られているような気がしました。「次はお前だ」、そう言われた気がしたんです。何が次なのかはわかりませんが、怪談だったらこういうシチュエーションの次の瞬間には死んでいるのがお約束でしたから。

 でも、何かの化け物に襲われたなんてことはありませんでした。


『ここから立ち去れ! ここから立ち去れ!』


 静かな校舎にギンギンと共鳴するようなアラート音と、男の人の声がスマホから聞こえてきたのです。


「ひぃっ!?」


 思わずスマホを投げ出しそうになりました。幽霊とかそういう怖さというより、パソコンがウイルスに感染した時のような至極現実的な恐怖でした。あの妙な電波に繋いでしまったことによりスマホがハッキングされてしまった、それは現代社会においては死に匹敵するほどのことではないでしょうか。


 ガラガラガラガラガランッッ!!


 ——それすらできなかったのは、少し先にあった教室から大きな音を立てて何かが吹き飛んできたからでした。


「きゃあああああっっ!」


 それが何なのかはわかりませんでした。黒い布とそれに肌色の何かがくるまれている塊でした。ものすごく怖くて気を失ってしまいそうでしたが、恥ずかしながら好奇心が抑えきれず近づいて確かめました。


「……何これ……」


 黒い服を着た人。一瞬そう思ったのですが、よく見るとその肌色の材質は無機質で、関節も球体で大きな人形のようでした。大きな人形が上半身だけ飛んできたのです。

 それだけで一つ『噂』は作れそうなほどに、奇々怪々な出来事。ですがそれで終わるはずありませんでした。


「上半身だけ……下半身はどこなのでしょう」


 しばらく立ち尽くして呆けたことを考えていると、臭いがしてきました。

 肉が腐ったような、吐き気を催す臭い。ですがそれはこの死体のような人形から漂っているのではありませんでした。

 それは、暗い教室の中から近づいてきていました。


「——あ˝あ˝あ˝あ˝っ!」


 うがいでもしているんじゃないかと思えるほどしゃがれた呻き声。それを聞いても私はそれが人だと思いました。だって、この人形と違って二本足で立っていたのですから。

 ですがすぐにそれが大きな間違いだと気が付きました。


 ぼたっ ぼたっ ぼとっ ぐちょ


 人影の足元に何か黒い物が落ちていました。液体のようなものが滴っているのと、粘着質な固体が半々ほど。

 廊下の灯りが当たるところまで来てそれの姿が露になり、喉まで苦いものが込み上げてきました。


「あ˝あ˝あ˝あ˝! あ˝し˝っ! か˝わ˝い˝い˝あ˝し˝っ!」


 所々頭皮が剥がれているぼさぼさの髪、骨が見えるほど腐り落ちた顔面。体を見ると白い服は腰の辺りでズタズタに裂けていて、そこには大きな黒いシミがこびりついていた。そして視線を上半身から下半身に落とす——肉の身体は服と同じく腰の辺りでもげていて、その断面に人形の下半身が無理やり繋げられていたのです!

 さっきから床に落ちていたのはその断面から漏れてきた血と臓物でした。


「あ˝し˝っ! あ˝し˝っ! あ˝し˝っ! あ˝し˝っ! ほ˝し˝い˝い˝い˝い˝い˝い˝い˝い˝い˝い˝っっっ!」


「ぎゃあああああああああああああああああああああああああっっ!!」


 殺される。

 そう確信したというのに、私の足は逃げることを諦めていた。力はすっと抜けその場にへたり込む。目の前の化け物に無防備な姿を晒す形で。

 襲い掛かってくる。その体の予備動作まで見て取れるのに、逃げることだけは出来なかった。

 死ぬ——っ!


「はいどーーーーーーーーーーーーんっ!」


 吹き飛んだ——さっきの人形よりも派手にその化け物は教室の中に押し込まれ、ガラスを突き破って外まで吹き飛びました。

 誰かが助けてくれた——? あんな化け物に立ち向かえるヒーローのような存在がこの学校にいるのでしょうか?

 その方は座り込む私の顔を上から覗き込んできました。


「よっ。どーもーお嬢さん」


 その顔は、のっぺりと肌色一色——のっぺらぼうでした。

 とうとう私はそこで気を失ってしまったのです。

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