本論16:冒涜的なアイデア

「呪いとは、ばらまかれるものでは決してない」


 僕が考えている間にも、教授の軽やかな口唇は歌い続ける。


「いや、そもそも感情そのものは無造作に拡散されるものではない。何かしらのベクトルを持つものなのだよ」


 それが箱に使われていない部位や人質交渉に関係があるのかは全く分からない。


「大抵は他の誰かに向かって感情は発信される。ちょうどアンジくんが君に対してバールを振り下ろしたように」


「……ですが今の世の中、感情は拡散されるものなのではないですか? だから人々は思ったことを電波に無造作に流す」


「それもまた同じさ。それには世界に向けてのベクトルが働いているのさ。結局のところ、感情というのは誰かが何らかの受け手を想定して放つものなのだよ」


「じゃあ、呪いを振りまく箱は世界を呪っていたってことですか?」


 あれは対象を選ばない無差別に呪う箱だったはずだ。感情や呪いにベクトルが働いているというならば、そういうことになる。


「違う。そもそも呪いの箱の材料は自分を呪った人間だ。本来ならば呪いが箱の外に出ること自体が不自然だったんだ」


「……じゃあ、その、どういうことなんですか?」


「箱に閉じ込められていた呪いにそういったベクトルは一切なかったということだよ、アンジくん」


「はい?」


 だが、今呪いにはベクトルが働くって……


「だからアンジくん、本来ならそのベクトルを生み出すのは何かということだよ」


「あ」


 足りない部位。

 僕よりも先に何かに気が付いた神父はここに来て驚いたように目を見開いた。


「感情とはどこから生まれ、コントロールされる? 頭を使って考えたまえ」


「足りないのは……脳みそってことですか?」


「ご名答、アンジくん。そう、この箱には絶対に脳みそが使われないのだよ。考える機能を欠片も残さないようにしているのだよ。さて、ここから本題だ。今持っている箱にはその脳が搭載されている。まだちゃんと繋がっていなくて休止状態ではあるが、私がこれを起動すればちゃんと接続されベクトルを持った強力な呪いが動き出す」


 箱にはあのポインターが向けられている。

 だが、僕にはまだ分からない。本題とは人質交渉ということだろう。これが、どう神父にとって脅威になるのだろうか。


「人を加工するということは人を殺すということだよ。さらには脳を使わないということは箱の状態では呪いは産みだされない。まだ生きているうちに呪いを生み出してもらわなければならないのだから、サクッとは殺せないだろう。散々に苦しめてから殺さねばならない」


 教授はゆっくりとポインターを箱から神父へと向けた。それが犯人を言い当てる探偵の指であるかのように。


「そして、殺したのは君だ。この箱が今一番恨んでいるのは自身でも世界でもない……君だ」


「っ……」


 もはや平静を保っていられずに、神父はたじろぎを見せながらわずかに身を引く。

 交渉の質に入れられていたのは、彼自身の命だったようだ。


「自業自得というやつだよ。君が彼らを加工しなければこうはならなかったさ」


 笑いも怒りも悲しみもせずに、冷たく言い放った。いつもはどんな行動にも無駄に感情を入れる教授のこんな表情は見たことがなかった。


「……私に、生きるなと言いたいのか」


「……」


「私は確かに生きたいと願った。それは間違いなくエゴだろう。だが、それは確かに人類のためになると確信していた。現に救われた者が半数はいたはずだ」


「っ! お前——」


 罵りを飛ばそうとした僕を、教授は手で制した。


「私に故郷を失って孤独なまま死ねというのか。ここに私の居場所はないのか?」


「あぁ、ないさ。この星は君がいるべき場所じゃない」


 もう一度、教授は箱にポインターを戻した。


「だから、交渉だ——このままこの星を出ていくというなら君の命までは奪わない。だが、二度と来るな。この箱が働く範囲は地球内に設定している。外では効力がないが、地球内に足を踏み入れれば君は即死するだろう」


「出ていく……もう私に故郷へ帰る力はないのだぞ!?」


「近場の火星はどうだ? なんなら月面でもいい」


「——」


 泣き出しそうな神父の表情。

 どうしてだろうか、こんなにも悲しげな感情を持っているのに、それを箱になってしまった人たちに向けられなかったのだろうか。


「君は、君の故郷以外では生きられないだろう。それほどまでにかけ離れた物の見方しかできない。同類が偶然そこを通る、そんな奇跡が起こるまで君は孤独でいたまえ。それが君に課せられた罰だ」


 わずかにスイッチに伸びる指に力が入る。今にでも箱が意思を持ち、呪うべきものを呪ってしまう、そんな凄惨な末路がより一層近づく。

 神父には、もう道は残されていない。ここで無駄に死ぬほうがきっと非合理的だろう。


「……わかった。従おう」


 彼は力なくそう言う。彼にはやはり、合理的な判断しかできなかったようだ。


 ベりっ!


 その瞬間、彼の体の中心に立て走る亀裂が入る。


 べりべりべりっ!


 その亀裂からゆっくりと皮が剥がれていく。あののっぺりとして無機質な神父の姿が、なおのこと無機質な表皮になって萎んでいく。

 その中からは、我々の身の丈よりも一回り大きい蠅のような虫が現れた。蛹から生まれるように、折りたたんでいた足や羽根を伸ばしていき、萎んだ皮は花弁のようなパラボラアンテナのような放物曲線状の頭部の中心へと収まっていく。

 これが、今の今まで人の姿をしていたのか、そう思うと胃の中まで凍えてしまうような恐怖が這い寄ってくる。そして、地球の外——宇宙にはこういった冒涜的な生物が存在している、そんな気付きを僕は得てしまった


「だが、最後に教えて欲しい——貴様は何者なのだ? 何故そうまでして地球人の味方をする? 貴様はもっと上位の存在だというのに」


「……いい質問だね。この際だから答えてしまおうか」


 教授は両手を広げ、やはり仰々しく語り始める。

 その姿が一瞬、ブレたように見えたのは気のせいだろうか。


「私はね……何でもない。だけども、知能ある物が生まれ私は『混沌』と呼ばれるようになった」


 にやにやと楽しげに笑う笑顔も、教授のものだと認識できなくなっていく。そこにいるのは禁地教授のはずなのに、僕にはそこに誰でもない何かがいるように感じられる。

 僕はこの人を人でなしと罵ったが……実際はそんなレベルではなかった。人外というのも烏滸がましいほど捉えようのない壮大な何か……


「そして、知能ある物が善悪を分けた時、私はこう呼ばれるようになった——『邪神』」


 今、ようやく確信する。

 僕は、この人に関わるべきではなかったと。


「名はない。一にして全。君たちのように種族やその個体なんて概念はなく、私には私に類する者など一人もいない。だから寂しくてここを見守っているのさ」


 神父だったヴュグ星人は、それを聞いて言葉もなく立ち去った。

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