第20話「春支度——種と器の段取り」
――春は、遅れてくる。
雪解けの泥濘、風の冷たさ、苗床の浅い息。
僕は工房の看板を撫でてから、扉に一滴だけ油を差した。いつも通り。けれど今日は少しだけ早足だ。
「まずは“苗の帯”を決める。午前は山→市、午後は市→畑。昼は空」
レイナが地図の隅にさらさら書いていく。字は相変わらず綺麗だ。
「塔は写しと補助。指揮は現場。紙は道具で、主人じゃない」
「第三騎士団は畦道の交差で空を持つ。剣は抜かない」
ベルクは短く言って、外套をはたく。泥がほとんど落ちない。春は泥の季節だ。
フィオは籠を叩いて数え、にやりと笑う。
「余白の粥は苗床の端。器は重ねて“終わりの合図”。芽が起きるまで、人の腹を落ち着かせる」
ミロは子どもたちに鈴を握らせる。冬仕様の名残だ。
「半は一打。手袋が薄くても、声より届く」
僕は一枚、看板に増やした。
《春の三行》
一:苗の帯(午前→空→午後)
二:水の余白(桶は空ひとつ)
三:種の見せ方(黒字・太見出し・斜め)
角は丸く、赤枠は二重。下の余白は広く。改めた名の欄は大きめに。
――ここまでが朝の段取り。ここからが“いつもの番狂わせ”。
◆
午前。畦道の入口。
**《苗の帯》**の札を立てる。午前:山→市(四刻)/空:昼(二刻)/午後:市→畑(四刻)。
帯長ベルク、副帯長イダ、水番マルタ、読み手ラース、歌い手は市童会。
いい感じに回り始めた、そのときだ。
青い箱が、また来た。
「発芽最適匣。——常に最適の潅水と温度。芽は迷わない」
運んできたのは商会の若い算手。箱の窓で針が震えている。側面には細い字で**『空=無駄』**。
僕は笑わない。
ベルクは眉だけ動かす。「停止路義務」
算手は平然としている。「中央の鍵で止まる。現場は流すだけでいい」
レイナが首を横に振る。
「名で止められない最適は、古代で“呪い”と呼ばれた」
匣は柱に据えられ、針が“ちょうどいい”を示し続ける。
で、どうなるか。
最初は芽の機嫌が良い。次の瞬間、空が痩せる。
桶の戻しが遅れ、畦の踏み場が消え、苗箱を抱えた少年が躊躇する。
息は数字にならない。
「半!」
マルタの鈴が一打。
僕は匣の裏蓋を開け、逆刻み界面を探る。あった。冬と違い、今度は温度と潅水の二つ。
「半=日陰。半=桶を空に。二系統に“戻す口”を付ける」
白旗は春の陽で溶ける。冬の墨旗は重い。
だから、今日は若草色の小旗を出す。目にやさしく、遠くからでも見える色。
「僕の名で止める!」
ベルクの声。
「若草半!」
歌い手が低く回す。
「先の名、止め/後の名、待つ/半(若草)/空を出す/終わり、一度」
水は一度引かれ、桶の空が一つ見える。苗床の表面が呼吸を始める。数字は黙る。
算手が近づいてきて、箱の窓を指で叩く。
「最適が崩れる」
「止まれる最適に変わるだけだ」
僕は逆刻みの針を半歩戻す。名を残し、蓋を閉める。
◆
昼の空。
フィオの粥。器の縁があたたかい。
「水の余白、桶は空ひとつ」
マルタが板に太く書く。余白は目で持つ。
子どもが鈴を一打して、得意げに笑う。こっちも笑う。
「午後は“種の見せ方”も回すわよ」
レイナが黒地の札を束ねる。
《種の見せ方》
一:黒字・太見出し(遠目)
二:斜め十五度(反射よけ)
三:読み上げ三行(台本)
シェルが角を丸め、ラースが胸札に台本を印字、トーノが紐を通す。
見せ方は速さ。これはもう、博覧会で証明済みだ。
◆
午後。
畑に予報が来る。
《収穫予報》——来月の実りを今日から薄配。
ああ、嫌な予感。
紙の端がやけに艶やかだ。触ってわかった。遺構の粉が混ざっている。
ディオムが睨む。「……緩衝の輪の残り火だ。前借りの最適に絡めたな」
予報は親切そうに見える。今日は楽になる。明日も楽にする。
けれど“空”が前借りされると、芽は休む場所を失う。
子どもがまた立ち止まる。苗箱が重く見える。
怒号はない。けれど、沈黙が広がる。沈黙は危険だ。
「予報は道具。主人は現場」
僕は胸札を裏返し、太字で書く。
《予報の三行(畑)》
一:今日を確旗(名で確定)
二:明日は仮旗(戻せる)
三:外れの合図(戻す歌)
若草色の仮旗を一本線、確旗は二本線。半は若草小旗。
歌い手が声を整える。
《戻す歌・畑》
きょうは名/あすは仮/はんで戻す/から、ひとつ/おわり、いちど
レイナが予報紙の下部に“名の欄”を強制的に作って、算手の胸へ押し当てる。
「名を残して。返せるお願いで」
算手は唇を噛み、筆を取った。
「収穫予報・担当:ヒサ —— 仮旗運用に同意」
紙の艶はまだ残る。でも、名が一つ乗った。
◆
夕刻。
畦の真ん中で、僕は小さな実験をする。
――苗箱の前で、三十呼吸の余白を置く。
止まると、折れない。
“赦される遅さ”は、ここにある。
「三十は長い?」
と聞くと、ベルクが肩を竦めた。
「鈍ると折れるは別物だ。今日は鈍っていない」
ユーンは苗の影を眺めて、静かに笑った。
「遅さにも階調がある。お前はそれを、歌で数えている」
僕は首を振る。
「名で止め、名で再開してるだけだよ。歌は短い。式は欄外だ」
◆
夜。
畦道の端で“優先種まき権”の札束が動く。
出たな。
取り立て番ルオが前に立ち、黒地太字の免除枠を指で叩く。
「救護/避難/破損。——名を出せ。売買は無効。仮旗→確旗は名+理由」
ブラン(規格局)がすっと横へ来て、短く追記する。
「R1 付録 FR1-畑。今すぐ布告に回す」
札束は掲示板の改めた名に吸い込まれて、静かになる。
ざまぁは、夜風が一枚の紙を静かに寝かす音だった。
◆
深夜。
停止路工房の床下が、また鳴いた。
低い拍。温度でも水でもない。今度は——土。
「土壌緩衝輪……?」
ディオムが耳を澄ませる。「保水の最適を回す輪。空ゼロで土を抱え込む」
抱え込めば、根は一瞬喜ぶ。次に、息が浅くなる。
僕らは紙を一枚、柱に貼った。
《回さない輪・土版》
一:止めの号令(畑主の名)
二:半(若草小旗/鈴一打)
三:空(畝間一足/桶空ひとつ)
四:放つ半(土を開く/鍬一返し)
五:終わりの合図(器重ね/灯三瞬/灰薄均し)
ディオムが配管を指し示す。
「ここが逆刻み。半で“開く”。——土は放つと呼吸する」
ユーンが短く添える。
「半、開く。詩で覚えると早い」
歌い手が合図し、鍬が一度、土を返す。
土の拍が緩み、畝間の空が目に見えた。
◆
明け方。
黒地の見出しが湿り気を吸って、読みやすい。
苗の帯は午前→空→午後で回り、水の余白は桶の空で保たれ、種の見せ方は子の目線の高さに揃った。
若草の半は遠くで一度、鈴は近くで一打。
「止まれる増産」——言葉は少し不恰好だけど、実際にやっていることはこれだ。
宰相からの巻紙は、いつも通り短い。
「R1-春付録 S-Spring1 を採用。
半(若草)/水の空/鍬一返し(放つ半)を必須。
種の見せ方=黒字太・斜め・台本。」
ブランが付録頁を増やし、改めた名に書き込む。
「規格局:ブラン」
「停止路工房:リオン/レイナ/ディオム」
「第三騎士団:ベルク」
「市民:余白番マルタ/取り立て番ルオ/焚き手フィオ」
「監:ユーン(臨時)」
僕は看板を撫で、扉の閂に油を一滴。
今日を楽にする工房。
文字は軽く、泥の重さを小さく割って担ぐ。
――春は、やっと来た。止まれる速さで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます