第4話「値付けは物語と物流で」

 公開発表の午後、市場の鐘が三度鳴り、白い天幕がもう一段明るくなった。

 布に描かれた文字が一枚めくられる。「最終審査・合格 仮称:辺境塩(B-17)」。

 歓声のような、息の集まりのような音が走り、続いて、わたくしにとっては一番危険で、それでいて一番楽しい局面が始まる。


 値付け。

 旧ギルドの本当の牙は、ここにある。


 マダム・ギータは御者の帽子を伏せて胸に当てると、舞台袖の低い台に跳び上がった。

「諸君、盲目審査は終わった。胃袋は正直だった。次は財布の番だ。——本日は規格書つきの“辺境塩”を、公開入札で扱う。出品量は試験一号の小瓶に限る。落札代は規格書の増刷に回す。文句は紙でどうぞ」


 会場に笑いと野次と、興奮が混ざって渦を巻く。旧ギルドの面々は一歩引いた陰で顔を寄せ合っている。きっと彼らは、価格を崩すか、虚勢の買い上げで“化け物価格”を作るか、そのどちらかを狙うはずだ。

 わたくしは舞台袖の机の上に、価格板を置いた。板の上には三つの欄——上代(料理屋)/仲買(卸)/出荷価(産地)。その下に小さく、「輸送費」「割戻し」「規格外」の欄。


 ギータがわたくしの耳元で囁く。

「旧ギルドは“見たことのない高値”を作って、あとで崩すのが得意。客は“一度見た数字”に引っ張られるからね。あんたの板で、基準の場所をこちらに寄せな」


「寄せるための物語はあります。——“断罪の塩”は使いません」


「賢い。見出しは私に任せな。本文は、あんたの紙で」


 入札は静かに始まった。天幕の柱に沿って、料理人と塩商、そして数人の市井の客が列を作る。ブラインド炊きで舌に覚えのある者たちが最初に値を言い、紙に記す。

 最初の一声は、王都でも評判の小料理屋の若旦那。

「上代一瓶、銀貨三枚」

 細い指に付いた包丁の傷が光る。野次が飛び、旧ギルドの男が鼻で笑う。「田舎の塩に三枚?」

 若旦那は動じない。

「三枚に、店の名を足す」


 ざわめきが一段高い音に変わる。——いい。名は温度だ。板の上の数字が、人の手で温まる。


 二声目は、別の店の女主人。「三枚と半分。ただし、規格書は台所壁に貼る条件で」

 ギータが素早く紙に「規格書掲示」の丸印を足す。

 旧ギルドの男がここで動いた。列を割って前に出、甲高い声で言う。

「銀貨十枚」

 会場の空気が吸い込まれる。狙い通りの虚勢。——十の数字は、偉そうに見える。だが、見た目だけだ。


 わたくしはすぐに板の「割戻し」欄を指で叩き、ギータに目配せする。彼女は唇の片端を上げて頷いた。

「十枚、ありがたい。では落札代のうち、七割は規格書増刷と監査教育に割り当てます。残り三割の半分は輸送費の立替に。産地の取り分は固定、銀貨一枚。——値段を釣り上げても、産地は踊らない」


 旧ギルドの男の顔が赤くなる。

「誰がそんな——」


「紙がそうします。規格の価格表に、**固定の“出荷価”**として記す。入札者は全員、これにサイン」


 ざわめきは野次に変わらない。安心に変わる。高値の虚勢に踊らされないと、客は安心する。

 若旦那が笑って言った。

「じゃあ、銀貨四枚。台所の壁に規格書を貼って、“辺境塩”の名も隠さない」


 入札は上手く転がり始めた。数字は上がり過ぎず、しかし軽くはない。上代が四、仲買が二と三分、出荷価は一で固定。

 板に書かれた数字が、人の顔と一緒に記録されていく。誰が、何のためにその数字を言ったか——値段の背後に物語が付く。


 旧ギルドの別の男が苛立って背を向けたとき、わたくしは板の空白にもう一つの欄を足した。

 先渡し(前受け)。

「辺境塩・正規出荷が月に小瓶百に達したら、先渡し契約を受け付けます。契約は規格の遵守と監査の受け入れが条件。価格は出荷価固定、仲買手数料固定、上代自由。違反の罰則は名とともに掲示」


 ギータが低く笑った。

「“今売る”だけじゃなく、未来も売る。いい度胸だ」


「未来は、紙の上にしか生まれません」


 会場の端で、さっきまで沈黙していた香辛料商が手を挙げた。

「先渡し・十。相互監査に自分も入る。異物混入のチェックは慣れてる」

 リースがすかさず近寄り、「相互監査人」の札を渡し、名簿に名を書かせる。

 ジュードは鉛筆で汚い字を走らせ、その横に線を引いた。汚い字は、強い。


 夕刻、入札は一旦締め切られ、結果が掲示された。辺境塩(試験一号)は銀貨四枚半で落札、落札代の七割は規格書の増刷へ、三割の半分は輸送費立替、残りは公社の帳簿へ。出荷価は銀貨一枚。先渡し契約は十一。

 旧ギルドの顔つきは、朝からずっと悪いまま。値ではなく、土台が崩されたとわかったのだ。


「嬢ちゃん、やるじゃないか」


 背後で声。振り向くと、腕を組んだ男が壁に寄り掛かっていた。職人風、年の頃は四十近く、目の端に煤の跡。

「俺は印刷職人のハンク。ギータの紹介だ。あんたの紙、刷ってみた。手ざわりがいい。字もいい。——ただ、枠が足りない」


「枠?」


「差異の記入欄。現場はいつも“だいたい”だ。だいたいを書け。逸脱と逸脱の許容の枠を、最初から紙に空けとけ。人は空白に惹かれる」


 わたくしは目を瞬き、それから笑った。

「いい提案です。あなたの名を、二版の末尾に“紙の監査人”として入れてよろしい?」


「吝かじゃないね」

 ハンクは煤けた手を差し出し、わたくしは握手した。



 夕暮れの市場は祭の後の匂い。わたくしは人混みを縫って歩き、会場の裏手から細い石段を上がった。そこは城壁の桝形(ますがた)で、さっきの入札が箱庭のように見える。

 ノアがすでに立っていた。背を壁に預け、うっすらと汗の乾いた作業服。光は彼の頬骨で切り取られ、瞳のなかをゆっくり横切っていった。


「値は、決まった」とわたくし。

「道も、引けた」とノア。

 ふたりの言葉が、やわらかく重なる。


「あなたは、火と水の前で静かですね」


「流れを見ているだけだ。水は傾斜に従う。火は空気に従う。人は言葉に従う。——今日、言葉に拍があった。だから通った」


「拍は、あなたが夜警で刻んだものです」


 ノアは少しだけ笑った。

「拍を紙に書いたのは、あなた」


「紙は、あなたの落差と、リースの視線と、ジュードの汚い字と、ギータの腹の太さがなければ、ただの白です。——白を、今日、ちゃんと使えました」


 沈黙が、いちどだけ甘く鳴った。

 城壁の内側から、子どものような笑い声。外では、遠い教会の鐘。世界が別々の拍で鳴っているのが、ここでは少しだけ同じ速度になって聞こえる。


 わたくしは手帳を開き、次工程の欄に三つ、線を引いた。

 一:港の塩倉の再稼働(潮・風・税の計測開始)

 二:先渡し契約の雛形(罰則と名の掲示)

三:相互監査人の育成(読み合わせの巡回、監査人のペアリング)


「明日の朝、王都料理組合に分配モデルの草案を出します。公社の恒久化、辺境出荷の優先枠、減税」


「敵は、紙を読まない者か?」


「読めないふりをする者です。——だから絵もつけます。地図と流れと名前。文字が怖い人にも、ちゃんと伝わるように」


 ノアは「そうか」とだけ言い、視線を遠くの空へ投げた。夕焼けに、港の方向を示す塔の影が浮かぶ。

「港を動かすなら、潮汐の表が要る。王都の港務所は紙を嫌う。荷は好きだが」


「荷の話をしましょう。紙はあとから追いつきます」


 彼がうなずいたとき、下からリースの声が飛んできた。

「セリーヌ! 旧ギルドの連中が、今夜**“値崩し宴”**をやるって噂。わざと下げた塩を出して、“辺境塩はそこまでの味じゃない”って見出しを作る気みたい」


「宴は楽しいですが、悪い見出しは胃にも悪い。——対抗します。こちらは**“読み合わせの宴”。料理と紙と拍**を同じテーブルに」


「宴で紙を読むの?」リースが笑う。

「一枚でいい。“規格の一皿”。味が紙を、紙が味を守ります」



 その夜、ギータの手配で市場外れの大衆食堂を借り切った。表の看板に白粉で書く。「読み合わせの宴 どなたでも」。

 先刻落札した小料理屋の若旦那と女主人が厨房に入る。辺境塩をひとつまみ、規格書の粒度と含水に合わせて使い、ブラインドで皿を出す。

 わたくしはテーブルの中央に二版を置き、**“許容差”**のページを開いた。許す幅が、料理の幅になる。

 最初の一皿は、茹で芋。熱々の芋に、三十呼吸で崩れない塩が、しっとりと乗る。若い職工が目を丸くして頷き、年配の女が「しみる」と呟く。

 二皿目は、焼き魚。焼き上げてから、ふるい五番で止まった層だけを指でつまみ、皮の上に均して叩く。皮が鳴る。塩の音だ。

 食堂の奥で、拍が自然に生まれる。短長短。

 誰かが規格書の端に指を添え、字を追う。読み合わせは歌に似る。言葉が拍に乗って、口の中へ落ちる。


 その間に、旧ギルドの**“値崩し宴”の噂が広がったが、見出しは広がらなかった。胃袋は正直で、足は正直で、拍は伝染する。

 宴の最後、わたくしは立ち上がり、声を少しだけ上げた。

「——名を書いてください。本日、読み合わせの宴で規格書を一行**読んだ人。相互監査の末尾に、名を。字は汚くていい。汚い字は、強い」


 十人、二十人と、名が増える。職工、主婦、行商、料理人見習い。彼らの名は、紙の温度になる。

 ジュードが最後に乱暴な字で自分の名を書き、続けて、少し躊躇して、隣にもう一つの名を書いた。

「老いぼれ親父の名だ。字が書けねえ。だが、今夜、茹で芋を食って笑ってた。——名を書いてやっても、いいだろ」


「もちろん。名は、責任ではなく、誇りの所在」


 リースが頷き、扉を少し開けて夜風を入れた。宴の匂いが外に流れ、外の噂が中に入る。拍は境を越える。



 明けて翌朝、王都料理組合の会議室。石の壁、長机、椅子の脚が擦れる音。

 わたくしは分配モデルの草案を差し出した。公社の恒久化、辺境出荷の優先枠、軽減税。出荷価固定と仲買手数料固定、上代自由。監査は相互・外部・内部の三種。罰則は名とともに掲示。

 役人のひとりが言った。

「前例がない」


「前例は今日から作ります。——前例は、最初の紙の別名です」


 ギータが横から畳み掛ける。

「胃袋は昨夜、前例を作った。満席だよ。読み合わせの宴は、読めないやつにも読ませた」


 会議室の空気が揺れる。長机の向こうで、年配の料理人が「名は重い」と短く言った。

 役人がため息をついた。

「試行で行く。半年。港の塩倉も試験再稼働を許す。ただし事故が起きた場合——」


「三十呼吸で口頭報告、千呼吸で紙。翌日までに再発防止策。名を、誇りとして書く」


 役人の口が、わずかに笑った。

「手続きの詩だな」


「詩は拍がなくては」


 窓の外で鐘が鳴る。開市の鐘。

 わたくしたちは会議室を出、石段を降り、朝の王都の雑踏に溶けた。旧ギルドの影は、壁際に薄い。光の中では影も薄い。影には名がない。


「港だ」とノア。

「港だね」とリース。

「港です」とわたくし。


 靴は、昨日よりさらに汚れた。なら、やっぱり、正しい。


【辺境KPI / 第4話】


塩産出量:0.62 → 0.65(現場は維持運転+王都側での需要見込み増→試験区画の片側増床)


用水稼働率:41% → 41%(変化なし/港計画の立上げにより現場工数を温存)


住民満足度:+0.45(相互監査人 27→41/“読み合わせの宴”参加 73名)


治安指数:49 → 51(公開入札・印の通貨化・宴での混成テーブルにより街区の摩擦低下)


市場指標(参考):上代平均 4.3枚/仲買平均 2.4枚/出荷価 1.0枚(固定)/先渡し契約 11→19

次回予告:港の塩倉、潮と税。紙は波に濡れると重くなる——だからこそ、倉で乾かし、道で運ぶ。旧ギルドの“関税の罠”を、地図と拍で外す。

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