第四十二話「沈黙布との戦い、縫い目の証明」

1 最初の衝突


 灰の宮殿の床が、海の底のように静かに揺れた。

 揺れは音を持たない。それでも確かに、皮膚の裏で起伏を作る。

 その起伏に合わせて、灰布の兵が一斉に踏み出してきた。顔はなく、関節は布の折り目でできている。剣も槍も持たない。ただ、沈黙の帯をまとって迫る。


 「——浮き受け!」

 セレスティアの号令が胸の内側に落ちる。声は外に響かなくても、名は身体に響いた。

 俺たちは、迫る沈黙の帯をはね返さず、いったん宙に預ける。胸骨の裏を軽くし、重みを遅らせて返す。

 布の兵の肩が、わずかに沈んだ。沈黙の圧は、一点で受ければ勝つが、面で受ければ鈍る。


 フロエが柄板を床に置き、足裏で角を探る。「三点!」

 帆、身、底——海で覚えた配列を陸の戦に移す。俺たちの三点が揃う一拍、灰の帯の吸いが緩む。

 工匠の境杭が低く入り、敵の踏み込みに斜を作った。ミラの結びがほどけやすく味方の肩から肩へ緊張を渡す。封糸の女は沈黙を敵の内側に薄く置き、吸いの中心をずらす。

 沈黙は奪う。だが、置き直せる。


2 沈黙の刃


 灰布の兵の一体が、セレスティアの前で裂けた。

 裂け目は黒く、そこから冷たい空が溢れる。

 「……沈黙刃」

 アリアの肩が震えた。呼吸を奪うための裂け目。そこに踏み込めば、胸骨の返りは根こそぎ吸われる。


 「泡返り、零」

 俺は海での稽古を呼び起こす。厚みのない返りは、薄く受ける——つまり、深追いしない。

 セレスティアは踏み込みを半拍で止め、剣を引き、柄だけで裂け目の縁を撫でた。

 打たない。撫でる。

 裂け目の縁が、布の毛羽のように逆立ち、沈黙は輪郭を得る。輪郭を持った沈黙は、もはや空ではない。重さが出る。

 フロエがそこへ弱いンを針の目のように刺す。

 沈黙刃は「刃」から「布端」に変わり、セレスティアの一撃で縫い返された。


3 奪い返す足跡


 宮殿は広い。壁も床も布。こちらの返りは外に出ない。

 外に出ないなら、足裏に残す。

 俺は砂時計を握ったまま、靴を脱いだ。

 足裏に付いた汗が、灰布に薄い跡を作る。

 「工匠、杭は要らない。足跡でいく」

 工匠が小さく笑った。「見える縫い目、ね」

 グラールが素早く白紙を裂き、足幅の型を押し跡で刻む。子どもたちへ渡した「走って止まる」板と同じやり口だ。


 セレスティアの前まで足跡の帯が伸びる。

 その帯は、踏めば一拍止まるように、わずかな滑りを持たせてある。

 灰布の兵がそこへ踏み入った瞬間、止まった。

 止まれば、奪う側の拍も鈍る。

 セレスティアの刃が軽く、確かに、帯の上だけを走る。倒さずに、座らせる斬り方だ。


4 名を掲げる


 灰の王の声が、胸骨の裏を撫でた。

 「名を掲げるのか。争いを呼ぶ旗だ」

 「旗ではない。縫い目だ」

 俺は膝で立ち、掌に押し跡で五つの線を刻む。

 浮き受け——縦。

 三点——三角。

 泡返り——波。

 沈み癖の抜き——矢印。

 雨の半拍——点。

 言葉に頼らず、触ってわかる記号に落とす。

 グラールがそれらを灰布の壁に押し、子どもが読むように指でなぞれる高さに配した。


 灰布の兵が壁を背にして押し寄せると、自分の背に刻まれた記号に触れる。

 沈黙の帯に、薄い戸惑いが走った。

 「思い出す」

 封糸の女が呟く。「名も声も奪われた者が、触覚で“かつての拍”を思い出す」


 立ち尽くしていた一体が、わずかに座った。

 座ると、沈黙の吸いは半分になる。

 奪う力は、座らせるだけで痩せる。


5 内返りの輪


 灰の王は沈黙した。宮殿の天井が一段低く見えた。

 「輪を作る」セレスティアが短く言う。

 俺たちは互いの肩に手を置いた。

 外は奪う。ならば、内側で返す。

 塩鈴の辛みを舌に落とし、アリアが呼吸を配る。吸い、吸い、吐く。——吐きを長く。

 フロエが柄板を足裏から手のひらへ渡し、掌の重さで裏打ちを作る。

 ミラの結びが輪をほどけやすく繋げ、工匠が体重の斜を受け替える。

 封糸の女が沈黙を輪の外に薄く置き、輪の中の声を守る。


 輪の中心に、返りが生まれた。

 音はないのに、胸骨の裏が同じ厚みで膨らむ。

 そこから一拍を引き出し、輪の外へ押し跡のように配る。

 灰布の兵に触れる直前で拍は消える。だが、消える直前の厚みだけは、相手の折り目をわずかに鈍らせる。


6 灰の王の一手


 「見事だ」

 灰の王の声が、今度は薄く笑みを帯びた。

 宮殿の床がほどけ、穴が現れた。

 穴は沈黙より深い。無返りの井戸——落ちれば戻らない。

 灰布の兵が穴の縁に誘導し始める。輪を崩すために。


 「沈み癖の抜き!」

 俺たちは輪のまま、一斉に吐き切った。

 空になった器は落ちない。

 セレスティアが輪の先頭で座り、滑る床に膝を置く。膝は軽い杭だ。

 工匠がそれに重みを乗せ、フロエが柄板を膝と床の間で支点に変える。

 ミラの結びは輪を解かず、緩ませる。締めると折れる。

 穴の縁で、輪は浮いた。


7 奪われた者の目


 戦いの最中、壁の陰にひとつの影を見つけた。

 他の灰布の兵よりも、立ち方が違う。

 三歩目でわずかに深く踏む——あの癖。

 写本砂漠の稜線で出会った男の、それだ。


 「……あなた」

 声は外に届かない。だが、名を呼ばずに、癖で呼ぶことはできる。

 俺は三歩目に遅れを置いた。

 影の足が、揺れた。

 覆面の下の目が、こちらを見た。

 沈黙の鈍い灯が、瞳の奥で一度だけ明滅した。


 「戻れる」

 アリアが輪の中で言った。「触れれば、戻れる」

 封糸の女が沈黙を一枚、そっと彼の足元へ置く。奪うためでなく、守るために。

 男は座った。

 座る最初の一拍だけ、沈黙ではなく疲労が顔に浮かんだ。

 「……聞こえるか」

 俺は胸の内で問いかけた。

 彼は答えない。だが、見える縫い目を見ている目だった。


8 縫い返し


 輪の外で灰布の兵は鈍り、穴は口を閉じきれずに痙攣している。

 「いま」

 セレスティアが立ち、斬らずに縫う動きで前へ。

 刃は布の折り目を割かず、重ねて渡す。

 工匠の斜がその重ねを支え、フロエの弱いンが返りの芯を作る。

 ミラの結びが新しい折り目をほどけやすく留め、封糸の女が沈黙をその上に薄くかぶせる。

 グラールは押し跡で、さっきの記号をその折り目に刻む。

 沈黙布に縫い目ができた。


 宮殿の壁が、音のない音で鳴った。

 それは崩壊の合図ではない。組み替えの兆しだ。


9 王の姿


 灰の王が一歩降りた。

 裾が床に触れるたび、沈黙が深くなる。

 「縫い目は争いの芽だ。ほら、見ろ。座らない者は、斬り合う」

 確かに、灰布の兵の中で、まだ座れない者たちが、縫い目の取り合いに揺れている。

 名は刃にもなる——俺たち自身が何度も学んだことだ。


 「——だから、見せる」

 セレスティアが刀を鞘に納め、腰の柄板を借りた。

 フロエの板を両手で高く掲げ、ゆっくり床に置く。

 「縫い目は、斬り合うための線じゃない。座るための床だ」

 板は音を出さない。

 だが、床に置かれた厚みが、膝の形を呼ぶ。

 座る者が増える。

 奪う者は座らない限り、奪い続けられない。


 灰の王の外套が風もないのに揺れた。

 「……王都の稽古か」

 「外で学び、内で試し、ここで証明する」

 セレスティアの目は静かだった。


10 沈黙の裂け目に名を


 最後の一角に、大きな沈黙の裂け目が残った。

 宮殿の中央、玉座の前。

 ここだけは、何を置いても吸われる。

 「奪われた拍の井戸」封糸の女が言う。「……名を、落とす?」

 名は刃にもなる。だが、ここで刃にするつもりはない。

 俺は掌の記号をひとつ選んだ。雨の半拍。

 点を、井戸の縁に押す。

 点は落ちない。

 半拍「待つ」ための点は、沈黙でも奪えない。奪うには時間が要るからだ。


 点が、縁に留まった。

 点の周りに、座れる僅かな張りが生まれた。

 そこへ、三点、浮き受け、泡返り、沈み抜き——順に薄く重ねる。

 井戸は口を閉じ、縫い目に変わった。


11 証明


 灰の王は長い沈黙ののち、外套の覆いをわずかに持ち上げた。

 瞳があった。

 深い灰の、しかし濁っていない目。

 「……争いを呼ぶ縫い目で、争いを減らした。証明だと言うのか」

「証明の始まりだ」

 俺は砂時計を胸で抱き直す。「やり足りないで終える。次の線が次を呼ぶ。縫い続ける者だけが言える答えだ」


 しばしののち、灰の王は玉座へ戻った。

 「帰れ。王都に。

  おまえたちの布に、この縫い目を持ち帰れ。

  ——ただし、忘れるな。名は刃にもなる。座ることを忘れれば、またここへ落ちる」

 脅しではない。条件だ。


12 退き際


 宮殿を出る。

 入口の灰布は、来たときより柔らかかった。指で押すと、沈むが戻る。返りがある。

 背後で、座ったままの灰布の兵が一体、覆面を外しかけていた。

 写本砂漠の稜線で会った男の目が、再びこちらを見た。

 言葉はない。だが、三歩目だけ深く踏む癖が、確かに残っている。


 外へ出た途端、音が戻る。

 風の擦れ、衣のきしみ、砂時計の粒。

 俺たちは互いの呼吸を確かめ、ひと拍置いてから歩き出した。


 王都へ。

 外で縫った縫い目を、内に織り返すために。


――第四十三話「帰還の織議、名と座の秤」へ続く。

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