第三十六話「止まれる町、走れる心」
1 休止の床
広場の片隅。
俺たちが置いた遅鈍の床は、まだ薄く呼吸していた。杭の斜、柄板の厚み、塩鈴の辛み、糸の緩み、沈黙の層。
それらが混じり合い、鉄の速さを胸骨に収める一拍を残している。
最初にそこへ座ったのは、荷を落とした子どもだった。
彼は列車の音を聞きながら、小さく息を吐き、止まった。
その姿を見た母親も、続いて腰を下ろす。
やがて十人、二十人と人が集まり、広場の端はまるで「休止所」と化していた。
2 働き手の戸惑い
鉄工場の労働者たちが、煤にまみれた顔で集まってきた。
「止まっていいのか?」
誰かが呟いた。
「止まったら……仕事を追い出されるんじゃないのか」
別の声が震える。
「追い出すのは誰だ?」とセレスティアが返す。
「止まることを秩序に組み込めば、追い出されない。おまえたち自身が、そう決められる」
工匠が杭を一本、広場の真ん中に打ち込む。
「杭が一本あれば、そこが“場”になる。速さの中に、止まれる縫い目を入れるんだ」
人々は杭を囲み、恐る恐る腰を下ろした。
——列車が通り過ぎた。
轟音のあと、誰も倒れなかった。
3 役人との対峙
町の役人が再び現れた。
「止まれば秩序が乱れる。倒れた者を救えば、他も甘える。町が停滞する」
グラールが白紙を掲げた。そこには墨ではなく押し跡が刻まれている。
役人は眉をひそめた。「……何だこれは」
「読むのではない。触れるものだ」
グラールは役人の手を取り、跡をなぞらせた。
鉄の音に混じる、わずかな厚みが指先から腕へ、胸へと伝わる。
役人の表情が変わった。
「……これは、秩序を壊すものではない。秩序を守るための余裕だ」
群衆がざわめく。
「止まれる余裕が……秩序?」
「追い立てるだけが守りじゃないのか?」
4 灰の影の残響
広場の空気が変わろうとしたとき、灰の外套の影が再び稜線に現れた。
「甘える秩序は滅ぶ」
乾いた声が風を裂く。
セレスティアは剣に触れず、静かに答えた。
「滅ぶかどうかは、やり損ねの先をどう縫うかで決まる。境を隠せば裂ける。見せれば、やり直せる」
灰の影は沈黙し、姿を消した。
残されたのは、杭と押し跡と、人々の呼吸だった。
5 町の子どもたち
夜。
休止所の床で、子どもたちが遊んでいた。
列車の轟音に合わせて、三歩走り、一拍止まる。
「走る!」「止まる!」と笑い声が上がる。
俺は砂時計を返した。
粒の落ちる音は速い。だが、子どもたちの「止まる」が、その速さを受け止めていた。
速さと遅さが、遊びの中でひとつになっていた。
6 町の決議
翌朝、町の広場で会合が開かれた。
老工夫が立ち上がり、煤だらけの顔を拭いもせず言った。
「速さは大事だ。だが止まる場も必要だ。走れる心は、止まれる心から生まれる」
人々が頷いた。
役人も沈黙したまま杭を撫で、やがて宣言した。
「……鉄路の町は、広場に一つずつ休止所を設ける」
歓声が上がる。
その声は列車の轟音にかき消されず、厚みを持って残った。
7 次の境へ
セレスティアは静かに俺を見た。
「鉄路は整った。次は——海だ」
工匠が頷き、塩鈴を指で弾いた。
辛みが胸に落ちる。
「潮の拍は、陸よりも速く、遅く、気まぐれだ。受け方を学ぶなら、いまが時だ」
俺は砂時計を返した。
波のように、粒が上がっては落ちていく。
その拍を受けに、次は海へ向かう。
——第三十七話「潮路の布、海を縫うもの」へ続く。
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