第八話「返歌の広場、裂けるコーラス」

 広場に近づくほど、空気が“ひとつの線”に引き伸ばされていくのがわかった。石畳は乾き、露店はもう畳まれているのに、音だけが残っている。歌——けれど歌ではない。合っているのに、合っていない。ぴったり揃うはずの拍が、わずかに“先へ”転ぶ。人の列が、知らないうちに一歩前へ出る。肩が触れ、足が合い、そして、集団が“歩幅”を共有し始める。


 「——これはまずい」

 砂時計を返し、《観測》を沈める。銀線が広場に立ち、歌の基音と高次の撚りが見えた。封糸の“返歌”は、王の歩幅の模倣だ。だが今夜、俺たちは王城でそれを“稽古”に落とした。だから封糸は、模倣の芯に欠けがある。欠けを埋めるために、歌に鋭い先端を付けてきた。人の呼吸を前のめりにし、群れを一個の“足”にする“誘導歌”。


 アリアが笛を唇へ。「拍を壊す?」


 「壊す前に分ける」

 声が自分のものじゃないみたいに早く出た。「単旋律の刃を、二本の対旋律で鈍らせる。——ミラ、『小路の歌』と『踊りの足拍』、薄く撒いて。フロエ、柄板で裏打ちを作れ。セレスティア、騎士は群れの外周に間を置く。ぶつからぬよう“息の道”を確保」


 「了解」

 セレスティアは短く号令し、隊士が人の列の“外側”に呼吸の間隔を刻み始める。肩と肩の間に、見えない間仕切りが立つ。圧は弱まる——が、歌は強い。広場の中央、石の噴水の縁に、薄灰の外套の影が一人立っていた。市場で逃げた女ではない。背は低く、肩にかけた紐に封板を何枚も吊るしている。**“合唱の縫い手”**だ。


 「合唱で“柄”を縫う気か」

 喉の奥が乾くのを感じながら、俺は広場の縁まで出た。女が顔を上げる。目は笑っていない。だが口元には、合唱指揮者のようなわずかな愉悦があった。


 「観測士」

 女は声を張らないのに、音が広場のどこにでも届く。「『王は人である』。——美しい。だから、人を王にする。歌で」


 「歌で軍靴を作るな」

 言い切ると、女は薄く肩を竦めた。「軍靴はあなたが作った。『歩幅』を稽古に落とした——つまり、誰でも履ける靴にした。私たちは靴紐を通しただけ」


 ミラが横で小さく息を呑む。俺は砂時計を握った。逆演の気配が、歌の中に潜む。“王の歩幅”の古い記録が、群衆の脳に“元からあった”記憶として焼き直されつつある。ここで無理に切ると、個々の神経が反動で攣る。


 「……分ける」

 もう一度、強く心の中で言った。分けて、ほどいて、また結ぶ。祖父の針が、掌で冷たい。


 「アリア、**二旋律(ディヴィジ)**だ。低い方は俺と一緒に“息”を刻む。高い方は“足拍”に絡め、前のめりを後ろへ返す」


 「任された」

 アリアの笛が二声を作る。息の浅い下声が石の地面に落ち、軽い上声が屋根の縁で跳ねる。フロエが柄板を二列に立て、音の反射で裏打ちの壁を作る。ミラが「小路の歌」を路地口に、小さく、小さく解いて結ぶ。騎士の列が呼吸を広げ、押し合う肩がひとつ遅れる。


 中央の女が封板を一枚抜き、空気に当てた。閉じる型が歌に重なる。単旋律の刃が、再び鋭くなる。


 「ユリウス!」

 アリアの声。逆演が来る。俺の横隔膜が歌に引かれ、拍を勝手に前へ置こうとする。青い糸が手首でかすかに鳴る。


 「——ミラ」

 言うより先に、彼女の指が青い結びを半分だけ切った。プツ。空気が入り、俺の呼吸が一拍ほどける。そこへ針先を鈍らせて入れる。再演は最小限。単旋律から和声への“曲がり角”だけを撫でる。


 歌が、割れた。

 いい意味で。中央から一枚だった刃が、左右に二枚に裂ける。片方は屋根へ、片方は地面へ。刃は鋭さを失い、布になる。人の列が二つの流れに分かれ、押し合いがほどける。転倒しかけた老婆の体が、隣の青年の無意識の後ろ歩幅で支えられる。


 「やるじゃない」

 封糸の女の目が初めて微かに笑った。「では——三和音」


 彼女の手がまた封板に触れる。今度は三枚。第三音が置かれる。和声は豊かだ。豊かすぎる。人の感情を支配するのに向く。喜びを、誇りを、恍惚に変える。広場に熱が走る。誰かが涙を流し、誰かが笑い、誰かが拳を握る。方向を失った熱は、危険だ。


 セレスティアが低く命じた。「冷ます。水を」

 騎士が噴水の縁を叩き、浅い水しぶきを霧にして飛ばす。水は音を鈍らせる。だが足りない。


 「文(ことば)を入れる」

 祖父の裏帳面が脳裏で捲れた。*場を動かすときは、先に“動き”を縫い、次に“息”を縫い、最後に“言葉”を縫え。言葉は方向だ。*

 「ミラ、『冬至の火』は温い。今は**諺(ことわざ)**を——袋にあったな?」


 「あります」

 ミラの指が札を探り、短い言い回しを取り出す。「『急がば回れ』、『踊る阿呆に見る阿呆』、『一寸先は光』……!」


 「それだ」

 俺は砂時計を返し、『一寸先は光』の欠片を薄く、人の耳の裏に縫う。暗がりの前方に“光の感覚”があると、足は自然と慎重になる。三和音の恍惚に流されず、半拍、間が生まれる。アリアの笛がその間に息を置き、フロエの柄板が裏拍で支える。セレスティアの隊士が間を通路に変える。人の群れは、群れたまま、しかし流動する。


 女は唇を結んだ。封糸は“袋”で支配するのが得意だ。人に返す術は、彼女たちの哲学と相性が悪い。だからこそ、なおさら、このやり方で押し返す。


 「——**独唱(ソロ)**で来る」

 女の気配が変わった。封板を使わない。自分の声で、主旋律を引く。危険だ。封糸の中でも指で縫うより声で縫う者は少ない。その声は、針と同じ。


 アリアが俺の肘を小突いた。視線で問う。どうする?


 「受ける。針をしまって受ける」

 自分で言って、指の震えが止まるのがわかった。針は両刃。出しすぎれば、俺が歌になる。だから、青い糸と呼吸だけで受ける。

 「アリア、応えないで。聴いて、間だけ置いて。ミラ、青い結びを群れの四隅に。フロエ、柄板で輪郭を描け」


 女が歌い始めた。

 美しい声ではない。強い声でもない。だが、芯がある。縫い目に触れる声。広場の空気が一枚の布みたいに引き寄せられる。人々の背筋が伸び、顎がわずかに上がる。**“選ばれた者”**になる寸前の身体の癖。


 青い糸が四隅で鳴る。ぷつ、ぷつ、ぷつ、ぷつ。微小なほどけ。四隅だけ。布は、四隅がほどけると“たわむ”。女の声は中心に針を立てる。俺は立てさせる。立てさせたまま、倒さない。

 「今」

 アリアが息を吸う。音を出さない吸気——だがそれも音だ。無声の合図が広場を走り、無数の胸が真似する。吸う。歌は一瞬、届かない。届かない瞬間に、俺は**“再演”で歌の**“行き先”だけを半足ずらした。


 ——声が空を掴み、石を掴めなくなる。


 女の喉がかすかに詰まる。彼女はすぐ立て直す。さすがだ。だが半拍遅れた。その半拍に、人が帰ってくる。人が自分へ帰る。

 セレスティアが静かに歩を進め、女との距離を詰める。剣は抜かない。負い目を胸に抱いたままの姿勢。女は視線だけで笑った。

 「ヴァイン。負い目を受け取ったのね」


 「受け取った」

 セレスティアは一言だけ答えた。「だから預からない。運用する」


 女の指が封板に伸びる。最後の一枚。俺は砂時計を返した。砂は重い。だが深い。許容量は、今夜、何度も落ちて、何度も広がった。

 「——終わりにする」

 自分に向けて言う。やりすぎない。やり足りないで終える。祖父の声。


 針を出さず、俺は掌で銀線を撫でた。歌の**“柄”をほどくのでなく、“置き場”を横へずらす。女の声の立脚点が半足左へ移動する。セレスティアの右手が、女の封板に触れた**。

 「預けて」

 女は笑う。「保管は所有ではない」


 「所有しない。——預けない」

 セレスティアは封板を受け取り、その端に青い結びを作った。ほどけやすく。そして、俺を見た。


 「あなたに預ける、観測士。人に返すために」


 重さが、手の中に移動した。封板は、閉じる型を持つ。だが青い逃げ道があれば、開く練習にもなる。俺は頷き、封板を布で包む。


 女は一歩下がり、視線で広場を見渡した。もう歌っていない。人々はざわめきを取り戻し、互いの肩をさすり、水を分け合っている。危機は去った。だが、終わりではない。


 「負けではないわ」

 女は静かに言った。「今日、あなたたちは人に縫った。人は忘れる。忘れは裏切り。袋は忘れない。だから、私は歌で袋を作る」


 「歌は袋じゃない」

 フロエが珍しく声を荒げた。「歌は写しだ。練習だ。型は生き物のためにある」


 女は答えず、外套の裾を返した。去るつもりだ。追う? セレスティアが首を振る。巻き込むだけだ。今は縫い留めた“勝ち”を人に渡す。


 アリアが笛を下ろし、深く息を吐いた。「……喉、乾いた」


 ミラが小さく笑って、水袋を差し出す。「冬至の火じゃなくて良かった」


 俺は砂時計を確かめる。砂はまた静かに落ち始めている。逆演の痕は薄い。青い糸が脈を保つ。

 セレスティアが隊士に指示を飛ばし、撤収の導線を作る。「怪我人を家に。独りにするな。歌が残っている」


 ふと、袖が引かれた。昼間の子どもだ。「おにいちゃん、さっきの歌、ぼく、覚えてる」


 胸が、違う痛みで震えた。忘れない。それは、裏切りではなく、希望にもなる。

 「覚えてていい」

 俺はしゃがみ、子の額に指をあてた。「でも、一寸先は光。急がば回れ。——ひとりで歌わない」


 子はこくりとうなずいた。アリアが目だけで微笑し、ミラが青い糸の小さな結びを子の袖に作る。「ほどけやすく」


 その時だ。広場の端、石の書札板に紙が打ち付けられているのが目に入った。灰色の紙。細い文字。

 > 柄は返した。歌は返す。次は、“王であろう者”に歌う。

 > ——封糸の縫い手


 セレスティアが紙を手に取り、瞳が微かに揺れた。「王であろう者……」


 裏帳面の余白が脳裏に浮かぶ。王の負い目は、王家ではなく、“王であろう者”にある。

 「——王城に戻る」

 俺は言った。「今夜は稽古に落とした。だからこそ、歌が入り込む隙がある。柄で守るのでなく、人で守る。王を、人に縫い直した責任だ」


 セレスティアは強く頷いた。「運用の会議を前倒しする。夜明けを待たない」


 フロエが柄板を抱え直し、白頭布の男(間の者)がいつの間にか広場の縁に立っていた。目が合う。男は、僅かに顎を引いた。行くと言わない頷き。


 移動しようとした時、バルトが駆け込んできた。「おい、ユリウス!」

 「ギルド長代理」

 「城下南の門で妙な“見張り歌”が始まった。出入りを止める調子だ。封糸の手合いが二手に分かれてる」


 アリアが口笛を鳴らした。「祭りの続きね」


 「——二手に分かれよう」

 言いながら、砂時計を返す。銀線が王城と南門に別れて伸びる。どちらも薄い。どちらも今。

 「セレスティアは王城へ。負い目はあなたが受け取るべきだ。アリアとミラは南門を。見張り歌は足拍で崩せる。フロエと間の者は——」


 「写しを持って城へ行く」

 フロエが言い、白頭布の男は何も言わずに頷いた。「街柄を王に見せろ。王が人である練習を、王自身に」


 セレスティアが俺の肩に一拍だけ手を置いた。重みと責任の温度。「生きてまた縫う」


 「ほどけやすく」

 ミラが青い糸で俺の手首を結び直す。結び目は小さく、緩く、強い。


 分かれて走る。夜の王都は、さっきより静かで、さっきよりうるさい。静けさの中に残った歌がうごめき、うるささの中に人の息が通る。

 角を曲がるたび、砂時計の砂は落ち、井戸は深くなる。祖父の針が、懐で軽く鳴る。


 針は両刃。

 だからこそ、縫える。

 だからこそ、切れる。

 切り結ぶのでなく、縫い合わせるために。


 ——次章「王へ向かう歌、門で待つ拍」へ続く。

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