第七話「古工房の柄、私兵の影」
北の下町は、夜になると木骨の匂いが濃くなる。梁と梁が擦れ、乾いた呼吸をしている。フロエに先導され、路地を三つ折れ、塀の低い裏庭を抜けると、黒い倉がひっそり口を開けていた。戸口の上に割れた糸巻きが吊り下げられている。ヴァイン家の古工房——王城の制服に縫い付ける織り柄の“型”を管理してきた家内工房だ。
「見張りは?」
アリアが囁くと、フロエは頭布の端を摘んでわずかに持ち上げる。「表にはいない。柄を守る者は“音を嫌う”。耳を塞いで座っている」
「なら、こちらは音で行く」
俺は砂時計を返し、《観測》を沈める。銀線が倉の内側へ滲み、木の継ぎ目、織機の枠、糸の撚り、足踏み板の軋み方を描く。いくつもの織機が、布ではなく“歩幅”を織るための擬似の枠に組まれていて、縦糸の代わりに薄い板——柄板が整列していた。奥にひときわ大きな機(はた)。黒い帷が被せられ、帷の下に、腹を空かせた獣のような“気”がある。
ミラが袋の嘴(くち)を結び直す。「『冬至の火』『足拍』『小路の歌』、いつでも出せます」
「合図は三つ。揺らす、縫う、ほどく。——アリア」
アリアは頷き、笛を唇に当てた。最初の一音は、空気を撫でる程度の浅い音。倉の板壁は音に鈍いが、梁の継ぎ目だけがわずかに共振した。ここから入る。
戸を開けると、薄い香が鼻腔を刺した。樟(くす)の香りと油の匂いが混じっている。中央の織機の前に、紙のように薄い男が座っていた。髪は灰色、頬が削げ、目だけが鋭い。耳には木綿が詰められている。音を嫌う者。
「夜に客とは珍しい」
男の声は乾き、そのくせ芯が通っている。「——記録官補の亡霊に招かれたのか」
フロエが肩をすくめる。「亡霊は写本の隅で仕事をする性分でね。ご無沙汰だ、工匠(こうしょう)殿」
「私を“殿”と呼ぶのは、王の冠に泥を塗られたあとだけにしなさい」
男は木綿を抜かずに、見事に発音する。耳が塞がっていても、口が訛らない。
俺は一歩、前へ出た。「ユリウス・ラインハルト。《線引き》だ。王城の縫い目を、人に縫い直した。今夜は“柄”を返しに来た」
男のまぶたがわずかに引き攣る。「返す? 誰が誰に?」
「私兵の柄を、王から剥がす。王は人だ。人に縫った歩幅を、個の武装に変える“柄”は要らない」
男は静かに立ち上がった。布のように薄い体だが、足は大地に吸いつく。「——ヴァイン家は“王の歩幅”を守ってきた。三代前から。第三隊の長が誰であれ、柄は家で見張る。私兵? 違う。王の“負い目”を家が預かる。お前は何者だ、突然やってきて、夜に“柄”を語る」
「柄板に触ったのは、あなたか?」
俺は包んだ板を少し掲げる。「修繕の跡がある。王城に投げられた“柄”は、片口が新しい」
「修繕した。十七年前に。——それは、セレスティアの父の代だ」
工匠は帷の下の大機に手を置いた。「戦があった。城下に火が見えた夜、王は『歩幅を貸せ』と命じた。私は柄を出した。翌朝、城壁は持ち堪え、人は生きた。……だが、柄は戻らなかった。返ってきたのは、割れた板口だけだ。私は守る相手を、王ではなく“歩く者”に変えた」
「歩く者を守るなら、なおさら『人に縫う』だ」
俺は砂時計に指をかける。「板に閉じて、倉に仕舞って、誰に届く。誰が息を合わせる」
工匠は首を振る。「人は忘れる。忘れは裏切りだ。柄は忘れない。だから守る」
堂に入った応酬に、アリアが笛を一呼吸鳴らし、空気を柔らげた。「……話してる間に、誰かが裏から回る気配。三つ」
封糸だ。倉の外周の銀線が、布の裾のように揺れる。俺はミラに目で合図し、袋の口を開かせた。「『小路の歌』、場に散らす」
ミラの手からこぼれた微かな旋律が、倉の梁を伝って回廊へ広がる。封糸の足音がほんの少し躓き、間が生まれる。「小路の歌」は曲がり角の勘を人に返す欠片だ。侵入者にはズレになる。
「工匠」
俺は再び男に向き直る。「ヴァイン家の工房が“柄で人を守る”というなら、今は手段が逆だ。柄は“稽古”のために外へ出せ。板は《線引き》が預かり、ギルドと騎士団が見張る。所有ではなく運用だ」
男は沈黙し、やがて帷の端を持ち上げた。中から現れたのは、巨大な織機に横向きに据えられた一本の太い芯——王の柄の原型を巻いた*経(たて)*の軸。そこに細い骨のような糸が幾重にも巻かれている。近づくだけで、膝の内側が「まっすぐ歩け」と命じられる感覚が走る。
「これが“王の柄”の中身か」
アリアが低く言い、笛をほんのわずかに下げる。音を一つ間違えれば、足が勝手に歩き出しそうだ。
俺は砂時計を返した。《観測》の銀線が経の軸に集まり、“歩幅”の剛直なリズムを映す。同時に、王城で縫い直した“人の癖”——冬至の火の擦り手、小路の呼吸、踊りの足拍——が、遠い残響として重なってくる。
「……混ぜられる」
指先に、針の重み。「柄を壊さず、“稽古用”に落とす」
工匠の眉が微かに動いた。「落とす?」
「刃を鍛える時と同じだ。焼きを鈍(なま)す。王の歩幅の芯に、人の癖を縫い込んで、芯を折らずに“戻し”をかける。——そのために来た」
そこで、扉板が低く鳴った。中庭側。三つの影が入ってくる。紋章のない革鎧、銀糸の結びを肩で留めた装束——封糸の私兵(しへい)だ。先頭の女は市場で会った女とは違う。頬に白い縫痕。手に持っているのは刀や槍ではない。長い“糸通し”の針。纏う空気が、すでに布のようだ。
「工匠」
女は一礼だけ形にして、すぐに顔を上げた。「約定の品を受け取りに来た。『王の柄』の芯。あなたが『王ではなく歩く者を守る』と決めたのなら、“袋”で保管するのが最善」
工匠は目を細める。「私は袋を信じない」
女は微笑み、けれど目は笑わない。「では、『預けて』。保管は所有ではない」
セレスティアと同じ台詞を、まったく違う温度で言う。俺は砂時計を握り、視線だけでアリアとミラとフロエに合図した。揺らす、縫う、ほどく。
アリアの笛がタタ・タタと足拍を刻む。私兵の歩調がわずかに乱れ、針に添えた指の角度がほどける。ミラはすばやく「冬至の火」をひとつまみ、工匠の指へ縫う。震えていた手が温を得て、“戻し”の感覚を掴みやすくなる。フロエは倉の隅で柄板を並べ、空気の「練習台」を作った。真似るための型。稽古のための場。
女の私兵が糸を投げる。空気中にほとんど見えない線が走り、織機の足場と梁の間を結ぶ。視認しづらいが、音が告げる。アリアの笛がわずかに音程をずらし、糸の張りに波を作る。俺はそこへ針を入れ、“再演”で波を二重にし、糸の結び目だけを前倒しに「ほどく」。女の手元で、糸がふっと息をつくように緩んだ。
「やるわね」
女は感嘆とも、怒りともつかぬ声を出した。「観測士」
「封糸は力で勝たない」
俺は短く返す。「逃がさない」
言葉と同時に、逆演の兆しが来た。王の歩幅の“芯”は、近づくだけで俺の脚の筋肉に命じてくる。“前へ、等間隔で”。手首の青い糸がわずかにきしみ——ミラが即座に結び目に触れ、微小に切った。プッという無音の切断。呼吸が一つ、生まれる。俺はそこへ砂を落とし、針を角度で鈍らせた。王の歩幅の波形に、冬至の擦り手の揺れを混ぜ、芯の「固着」を少しだけ緩める。
工匠が息をのむ。「……戻る」
「戻りすぎるな」
俺は指を二度弾く。ミラが片手で“青い逃げ道”を俺の手首へ結び直し、もう片方で工匠の手首に小さな青い結びを作る。「ほどける道」を二人に配る。
封糸の私兵が二人、左右から滑り込む。糸の針が織機の足に触れる寸前、フロエが柄板を立て掛けてぶつけた。コン。音が糸のピッチを乱し、結びが遅れる。アリアはその一瞬に笛を鋭く入れ、「息」のパターンに切り替える。女の喉の奥が反射で鳴り、糸を引く力が弱まった。俺は針を入れる。いま。
——王の芯に、人の癖を縫い込む。
たった一針で全部は変わらない。けれど、“稽古”に落とすには一針で十分だ。芯のテンションがカクと半拍だけ落ち、剛直の波形が稽古の波に変わる。歩幅を教えるための柔らかさ。押し付けるための硬さではなく。
工匠の目に、初めて生気が走った。「……これなら、倉に閉じずに、人に渡せる」
女の私兵が舌打ちに似た息を漏らし、糸を掴み直した。「駄目よ。柄は袋で眠らせるのが最善。人に渡せば、誰のものでもなくなる」
「誰のものでもないのが、いい」
アリアが笑って言う。「歩幅は、歩く人が決めるもの」
女が外套の内側に手を入れた。黒い薄板——《封板》だ。柄板の逆。縫い目を塞ぐための型。使われれば、この場の「稽古」が封じられ、芯は再び閉じる。俺は針を戻し、砂時計をひっくり返し——指先が凍る。逆演が、今度は針の内側から来た。祖父の言葉が遅れて響く。恐れすぎるな。恐れなさすぎるな。針は両刃だ。
青い糸。
ミラが合図を待たず、俺の手首の結び目を軽く裂いた。ぷ。空気が一口入る。俺はその隙間で、封板の「柄」を読む。封板は“閉じる”だけではない。閉じる型がある。型があるなら、逆からなぞれば“開く”型にもなる。稽古は、閉じるにも開くにも使える。
「ミラ、青い糸を一本、封板に」
言い終えるより早く、ミラは細い青糸を女の封板の隅に“逃げ道”として縫い付けた。アリアの笛がタタ・タタと戻り、封板の「閉じる」型の端を揺らす。俺は針で“開く”側にほんの少しだけ再演を入れる。
封板は閉じないまま音を吸い、女の手で重くなった。女が驚いて手を離す。封板は床に落ち、鈍く転がる。
「撤退」
女は即断した。糸を引けば切れる。切らなければ絡む。賢い選択だ。彼女は外へ飛び、残り二人も滑るように退いた。追えば、外で封糸の糸に絡め取られる。ここは勝ちを縫い留めるのが先だ。
工匠が大機に掌を当て、深く息を吐いた。「……負けた。いや、負けたままにはしない。柄は“稽古”に落とす。板は預ける。運用のために」
俺は頷き、布で包んだ柄板と、稽古に落とした芯から切り取った短い見本をフロエに渡す。「写しを。写本ではなく、練習帳として」
フロエは目を細め、「これなら、写すことが街の呼吸になる」と呟いた。
その時だ。倉の戸が再び鳴り、今度は騎士の靴音が入った。紺の外套、銀の紋章——セレスティア・ヴァイン。彼女の背に小隊の影。俺は裏帳面を懐から出し、最初の頁を開けた。彼女は歩みを止め、俺の手から視線を上げずに一行を読んだ。
《ヴァイン家、第三隊へ“王の歩幅”の稽古を一夜貸与》
沈黙。倉の木骨が、呼吸を忘れる。セレスティアは頁を最後まで追い、小さく息を吐いた。「——父の仕事だ」
工匠が肩を震わせる。「私は反対した。だが、戦だった。私は……」
「責めない」
セレスティアは顔を上げ、彼をまっすぐ見た。「私は負い目を受け取るために来た。家ではなく、私が」
彼女は腰の剣を外し、倉の隅の梁にかけた。「私は柄を所有しない。運用する。王城の縫い目は『人に縫う』で安定した。家の工房は『稽古』の場として残し、監視は騎士団とギルドと——《線引き》に任せる」
俺は裏帳面を閉じ、彼女に渡した。「鎖ではなく、柄として」
セレスティアは受け取り、胸に当てて頷いた。「ありがとう。……そして、申し訳ない」
謝罪は縫い目を弱くする。けれど、自分の口で言った謝罪は、柄になる。俺はただ「続きがある」とだけ言って、王城で見た白頭布の男の影、フロエの昔の所属、封糸の動き、そして今夜この倉に来た女のことを簡潔に伝えた。セレスティアは一つひとつを飲み込み、最後に工匠へ向き直る。
「今夜のうちに、工房の外周に“人の呼吸”を縫い付ける。封糸の糸が“張り”で侵入する前に、“緩み”で受け止める。——手を貸して」
アリアが笛を持ち上げ、ミラが袋を抱え直し、フロエが柄板を並べる。工匠は戻した芯に手を置き、長年の癖で足を踏み板に乗せた。踏むリズムが、軍靴から稽古に変わる。
その時、倉の裏口からひとり、遅れて入ってきた影があった。薄い外套、灰色の瞳。市場で俺たちに言葉を投げた封糸の女——ではない。背が高い。額に白い布。白頭布。フロエがほんの僅かに眉を上げる。
「……来たか」
俺が言うより早く、彼は倉の中心へ進み、膝をついた。セレスティアが手で制止の合図を出しかける。男は帽子も頭布も取らないまま、静かに口を開いた。
「ヴァイン工房の柄、今夜“稽古”に落ちた。ラインの針、見事だ。——返しに来た」
彼は細い木片を差し出した。王城で落とした柄板に似ているが、表の型が違う。角に小さく焼印がある。《街柄》。
フロエが目を見開く。「お前が……」
「人に縫う型だ」
白頭布の男は短く言った。「封糸は袋を欲しがる。私は袋が嫌いだ。王の柄を私兵にするのも嫌いだ。——間(あわい)にいる者として、街の型を作った。使え」
セレスティアがゆっくり立ち、男に歩み寄る。「名は」
男は答えず、代わりに俺を見た。「師匠(ライン老)が言っていた。『逃げ道は必ず残せ』。——今夜、逃げ道を残すのは誰だ、観測士」
青い糸が、手首で微かに息をした。
俺は柄板を受け取り、砂時計を返した。「逃げ道は、みんなで持つ」
音が重なり、針が入る。倉の木骨が、人の呼吸を覚え、織機の足が稽古を踏む。封糸の影は外周で立ち止まり、入る理由を一つ失くす。王の柄は王家の血から外れ、王であろう者の鎧から距離を取り、街の手に落ちる——“落ちる”のではない。“渡る”。
作業が一段落した頃、戸口に一枚の札が挟まれているのに気づいた。誰も見ていない間に差し入れられたらしい。薄灰の紙。細い文字。
> 違う柄で、また会いましょう。
> ——封糸の縫い手
アリアが鼻で笑う。「返してくれるんだって」
「約束は“線”だ」
バルトの言葉が頭をよぎる。守る者も破る者もいる。だが、見張るのは俺たちだ。縫い、ほどき、また縫う。
セレスティアが裏帳面を胸に抱き、工匠と短く言葉を交わす。ミラは青い糸の余りで、倉の戸口に小さな結び目を作っていた。「ほどけやすく。誰でも通れるように。けど、霧は通りにくいように」
フロエは白頭布の男と目だけで何かを語り、男は答えずに背を向けた。外に出る直前、ほんのわずかに顔をこちらへ向ける。影になった額の布の下で、微笑みとは違う、軽い安堵が見えた。
倉を出ると、夜の風が少し暖かくなっていた。王城の輪郭は遠く、街の灯が近い。砂時計の砂は落ち、しかし井戸の底は見えない。深まりは続く。青い逃げ道は、ほどけやすく結ばれている。
「次は?」
アリアが肩で笑う。
「王城の“柄”の内側をもう一度視る」
俺は答えた。「裏帳面のつづきも。——“F”、フロエのページに書いてある『行方不明』の件、封糸の“第三の袋”、そして、祖父が最後に切った糸の行先」
ミラが首肯し、青い糸を指に巻いた。「ほどけやすく」
セレスティアが短く告げる。「明朝、王城で。運用の会議を開く」
頷き合い、解散しかけたところで、路地の角から子どもが一人、駆けてきた。昼間、俺が救い出したあの子だ。息を切らし、手を振る。
「おにいちゃん! おねえちゃん! ひろばで、へんな歌が——」
俺たちは顔を見合わせ、砂時計を返す。銀線が路地から広場へ走り、歌のピッチを描く。胸に、ざらりとした嫌な“撚り”が触れた。
——封糸の返歌。
アリアが笛を持ち、ミラが袋を握り、セレスティアが外套を翻し、フロエが柄板を抱え直す。
俺は祖父の針を確かめ、青い糸を結び直す。ほどけやすく。
《線引き》は、また走る。
街は布。記録は癖。人は柄。
そして針は両刃だ。
だからこそ、縫える。
(第八話「返歌の広場、裂けるコーラス」へつづく)
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