第五話「王城の縫い目、青い逃げ道」
王城の中庭は、夜になると音が減る。広葉樹の葉裏で風が裏返り、噴水の吐息だけが石の皿を撫でる。満ちきらない月は、輪郭を霧に齧られている。歩を進めるほど、足音が布に吸われていく感じがした。ここは「記録」を眠らせる場であり、同時に「記録」を呼び醒ます場だ。縫い目は、世界の布目と布目が重なる場所にできる。
セレスティアが門番に短い合図を送り、俺たちは西の回廊に入った。壁一面に古い織物。王の系譜、戦の図、収穫の礼。どれも色は落ちているのに、糸の撚(よ)りはまだ弾む。ミラが隣で息をのむ。
「——ここ、音がよく通る」
「音は線を揺らす。笛、頼む」
俺が言うと、アリアは首肯し、笛を真綿で拭ってから唇に当てた。
回廊を抜けると、小さなドームの部屋に出た。中央に円形の床。黒石が薄く盛り上がり、同心円状の模様が彫られている。俺は一歩踏み出し、砂時計を返す。《観測》を浅く開いただけで、銀の線がばらばらと立ち上がった。ここだ。王城の「縫い目」。時間の砂が降り、演算の針が上下する場所。
セレスティアが警備配置を確かめ、扉を閉じる。「時間は多くない。外周は封鎖、巡回は最小。——始めて」
頷く。俺は懐から祖父の金属筒——針を出し、掌に乗せて確かめた。冷たい。だが、触れていると、微かな脈が皮膚に伝わる。祖父の手紙にあった言葉が、胸の裏で反芻される。逆演を恐れすぎるな。恐れなさすぎるな。針は両刃だ。
ミラが袋の束から札を選んだ。「『冬至の火』『小路の歌』『踊りの足拍』——“動き”を生む系の欠片を先に縫う。場を呼吸させてから“言葉”を入れるのがセオリーです」
「了解」
アリアが一歩下がり、低く、長く、一音を鳴らした。音はドームの内側で輪になり、石の円に吸い込まれる。銀線が震え、同心円の溝に沿って波紋が走った。
俺は砂時計を返す。砂は重く、落ちる速度は遅い。許容量は「細いが深い」。無理をせず、しかし確実に——祖父の声が手の内側の熱になって残る。
「縫い始める」
金属の針の先を、石の円の縁に当てた。音が変わる。指先の震えと、砂粒の落ちに合わせて、銀線を一本抜き出す。ミラが青い糸を俺の手首に結び直し、結び目を小さく整えた。
「合図は指先二回。逆演に傾いたら、私が糸を引くから」
「頼んだ」
アリアの笛が、拍を刻む。タ…タタ…タ。短い足拍のパターンが床を伝って走り、銀線のいくつかが「歩く」形に整う。ミラが袋の口を開け、欠片を空気に晒した。真空に紙片が吸い込まれるように、音の中に「癖」が混ざる。冬至の火——火に当たる時、人が手を擦るあの動きが、部屋の中に微かに出現した。見えないのに、肩の筋肉がそう動きたがる。
俺は針で銀線を拾い、青い糸を「逃げ道」にしつつ、王城の縫い目に「人の癖」を縫い付ける。布と布を縫うのではない。布目と布目の隙間、演算と演算の間の「紙縒(こよ)り」を、少しずつ増やす作業だ。一手ごとに砂が落ち、一手ごとに砂が重さを増す。許容量の井戸を深くする。
セレスティアが外周を見回し、「今のところ異常なし」と囁いた。だが、すぐに空気が変わった。風が逆に吹く。ドームの上の小窓で何かが動き、光がわずかに痩せる。
「来る」
アリアが笛を止め、短弓を背から外す動きをしかけ——やめた。ここは弓で撃つ場ではない。音で縫う場だ。
先に声が入ってきた。女の声。市場で俺を「始まり」と言って笑った、封糸の使い手だ。姿は見えないのに、声だけが縫い目に垂直に落ちてきた。
「観測士。袋ではなく、人へ縫うと決めたのなら——歓迎する」
「じゃあ、退いてくれ」
俺は針を止めない。
「ただし、条件がある。『袋は誰のものでもない』。つまり、『縫い手は誰のものでもない』」
声が、石の溝を撫でる。「あなたの針を“第三の袋”に預けて。所有ではない。保管」
ミラが顔を強張らせた。「預けると、戻ってきません」
「保管は所有だ」
セレスティアの言葉は鋭い。「王城は所有しない。運用する。——それが“王の役目”だ」
女は笑った。「運用と所有の線引き。あなたたちの『線』は甘い」
風がすっと引き、黒い糸が数本、天窓から垂れた。ほつれた髪のように見えるその糸は、実際には微細な銀糸の束で、触れれば封じ、絡まれば縫い目を塞ぐ。ミラが青ざめ、袋を抱えて後ずさる。
「——アリア、音の“筋”を変えて」
俺は低く言った。「足拍から息へ」
「了解」
アリアの笛が、今度は拍ではなく、浅く短い吐息の連続に変わる。肺の輪郭が部屋に描かれ、銀線のいくつかが「吸って・吐く」を始めた。黒い糸が一瞬たじろぐ。「息」は糸のピッチを狂わせる。
女の声がわずかに笑いを漏らした。「面白い」
遊んでいられる暇はない。俺は針を深く入れ、王城の縫い目の中心——黒石の円の核に触れた。冷たい水に指を浸したような感覚。そこは、記録が演算に入る前、砂が粒であることをやめ、水になる直前の場所だ。針は両刃。触れ過ぎれば、俺の記録ごと再演される。
「ユリウス」
ミラの指が、俺の手首の青い糸に触れる。「……深い。指二回、合図して」
「まだだ」
封糸の糸が、今度は横から来た。見えない手が、銀線の結びに針を通そうとしているのがわかる。同じ言語だ。同じ縫い方。だが目指す布が違う。俺は針先を半呼吸だけ遅らせ、相手の針を「待つ」。糸と糸が交差する瞬間、青い糸を指に絡め、少しほどく。ほどけた隙間に自分の針先を滑り込ませ、相手の縫い目を「こちら側」に折り返す。
「——っ」
女の息が一瞬だけ滲んだ。同じ技術で、今の瞬間だけ、糸の主導権が入れ替わる。セレスティアが鋭く号令をかけ、天窓下の衛兵が長柄の鉤で黒糸を払う。糸は切れず、しかし天窓の外へ逃げた。
「預けて」
声の笑いが消え、硬さが混ざる。「それがいちばん、あなたを守る」
守る? 俺を? 胸の裏で、別の声がする。祖父の、「ほどいたら、息を吸え」という声。
遅れて、逆演の兆しが来た。針を中心へ寄せ過ぎた反動。縫っているはずの「癖」が、俺の手首の方へ這い上がる。冬至の火を擦る手の癖、踊りの足拍の筋、息のリズム。俺のニューロンがその動きを「元から持っていた」と誤認し、針を握る握力が勝手にパターンへ吸い寄せられる。
「今!」
ミラの声が鋭い。俺は遅れず、青い糸を引いた。プツン。手首の結び目が切れる。音が消える。銀線が、一呼吸だけ解ける。逆演の波が、ほどけた隙間に落ちていく。俺はそこで息を吸い直し、針の角度を変えた。
「戻った」
アリアの笛が、拍に復帰する。今度はタタ・タタ、二拍の繰り返し。王城の石が応えるように微かに鳴り、縫い目は安定した谷間に落ちる。
セレスティアが短く頷く。「続行」
封糸の女は何も言わなかった。気配がいったん遠のき、代わりに別の音——革と金属が擦れる音が近づく。ドームの外で、小競り合いの気配。騎士団の配置をかいくぐって、一団が近づいている。
バルトの怒鳴り声が廊下から響いた。「“見物料”は高ぇぞ、お嬢さん方!」
扉が跳ね、二人の影が転がり込む。ガロスとリーネだ。背に埃、剣と杖に煤。追って入ってきたのはギルドの若い連中。ジラが片手で扉を押さえ、片手で手振りする。
「悪いなユリウス、祭りは好きでよ。——何だその顔、怒るなよ。王城が面白ぇ時に行かない手があるか?」
セレスティアがリーネを見る。「援護は歓迎する。だが騒ぐな。ここは音で縫う」
「心得てる」
リーネは杖の先を床に付け、囁くような詠唱に切り替えた。火でも雷でもない。揺りだ。空気を一定に撫でる微細な振動。アリアの笛と干渉せず、封糸の糸のピッチをずらすための、微妙な魔術。彼女の額に、一筋、汗。
ガロスは剣を鞘に納めたまま、扉の前に立って腕を組んだ。「斬る相手は、糸か?」
「斬れない。——だが、足を出させることはできる」
俺は答えながら、針を進める。糸は争いではなく、偏り。偏りを狙えば、居場所ができる。封糸の主はまだ姿を見せないが、糸の緊張は一定の方向から続いている。天窓。天窓に繋がる外回廊。そこに、人の足。
「ジラ、外回り。天窓の縁の影を追え。直接触れるな。視線を置いておけ」
「合点。獲物の影取りは得意だ」
指示が飛び、音が重なり、線が整っていく。砂は、なおも落ちる。だが、不思議なことに、減りよりも深まりを感じる。祖父の書が言っていた。「砂は時間ではなく、許容量」。縫うほどに底が広がる。その代わり、一手の刃が重くなる。油断すれば、針を持つ手が切れる。
——終点が見えた。
王城の縫い目の中心に、薄い膜のようなものがぶら下がっている。昨夜、門前で見た《ヘイズ》の核と似ているが、もっと透明で、もっとまとまっている。王の記録だ。日に焼けた紙片や石板に書かれた文字の「癖」ではなく、王という役割の「歩き方」。国を「歩く」ための歩幅。息の長さ。眼差しの向け方。
そこに、街の「癖」を縫い合わせる。王の歩幅と、冬至の火の擦り手。王の息と、市場の笛。王の眼差しと、踊りの足拍。王を人で縫い直す。袋ではなく、身体へ。祖父の遺言が、針先で形になる。
針を下ろし、最後の一縫いを入れた瞬間、部屋の空気がふわりと持ち上がった。誰かが一斉に深呼吸したような感覚。銀線が、ばらけず、束になって立った。王城の縫い目は、今夜に限り、安定した。
「——成功だ」
セレスティアの声に、僅かな熱が混じる。
拍子抜けしたように、その時初めて、封糸の女が声を出した。「……そう。『人に縫う』を、こんな規模で」
天窓の縁で影が動き、黒い外套の裾が見えた。ジラが「いた」と笑い、しかし飛びかからない。俺の合図まで、待っている。その一呼吸の間に、女は一枚の薄い板を天窓から滑り落とした。紋の焼印。織機の小さな模型。柄板(がらいた)——織りのパターンを記憶させる部品。
「お前たちの“王の歩幅”の記録。……今夜は預けておく」
女の声は、どこか遠い。「近いうちに返しに来る。違う柄で」
「待て——」
セレスティアが声を上げたが、それを遮るように、天窓から薄い黒布が広がり、影の足場を隠した。アリアが笛を切り替え、リーネの揺りと干渉させて布の縁を捉えようとするが、女は糸を断ち切らずに「流して」去る。封糸は力ではなく、逃がす術を濃く知っている。
静けさが戻る。柄板は、俺の足元で止まっていた。拾い上げる。木口は新しいが、刻印は古い。《線守》の古い紋。祖父の店の棚で見た何冊かの背の、奥の奥に印されていたもの。
ミラが震える声で言った。「……おじいさまは、あの人たちとも、話を?」
「わからない」
俺は柄板を裏返し、指でなぞる。指腹に、凹みに沿って温度が残る。誰かの手。最近の手。女の、ではない。もっと粗い、もっと慎重さに欠ける。
ガロスが鼻で笑った。「つまり、内側にも敵(てき)がいる」
セレスティアは表情を固くした。「王城の誰かが“柄”を渡した。封糸は、それを使って侵入経路を作る。……内部調査に入る。だが今夜はこれ以上は動かない。縫い目は安定した。撤収する」
撤収の支度をする間、アリアが俺のそばに来た。笛の管に残った水滴を指で払って、いたずらっぽく笑う。
「ほら、“青い逃げ道”は、うまく使えた?」
青い糸の切れ端が、俺の手首でひらひらしている。わずかに短くなった。
「助かった。あれがなければ、俺の手は冬至の火を擦り続けていた」
「それはそれで、暖かくはなるけどね」
アリアは冗談を言ってから、目を細めた。「でも、それはあなたの“線”じゃない」
ミラが袋を抱え直す。「……青い糸、また結び直します。ほどけやすく」
「頼む」
青い結び目が、俺と世界の間に「呼吸」を作る。ほどけて、吸って、また縫う。祖父の遺言が、手の肌理(きめ)に沁みる。
扉の外で、バルトが肩を鳴らした。「よっこらせ。おい、ユリウス」
「何だ」
「ああいう連中は、必ず『返しに来る』って言った約束を、守るか守らんかの“線”上にいる。期待はするな。だが準備だけはしとけ」
「わかってる」
セレスティアが最後に部屋を見渡し、「王の歩幅」を刻んだ黒石に指を触れた。「——よくやった。『王は人である』。それは多くの者にとって救いであり、同時に恐れでもある」
部屋を出ると、夜気が肌を冷やした。天窓の向こう、雲が裂け、月がわずかに太った輪郭で現れた。霧は薄い。王城の呼吸は深い。街の呼吸も深い。
ただ、遠くの屋根の上、ほんの小さな影がこちらを見ていた。封糸の女——ではない。もっと背の高い男の影。帽子はなく、代わりに額に白い布。輪郭だけで、確信めいた感覚が襲う。あの歩幅、知っている。
「見た?」
アリアが囁く。
「見た」
言葉はそこまでで、影は消えた。風の向きが変わる。柄板の木口が手の中で冷える。
やがて、ギルド棟の前で解散になった。セレスティアは明朝の再会を約し、内務の手続きを言い置いて去った。ガロスたちは「北外周の続きだ」と笑って背を向ける。リーネが振り返り、「封糸の糸は、魔術ではない。つまり、習える」とだけ言って、杖を肩に担いだ。
《線引き》は、俺とアリアとミラの三人で、夜の風をしばらく吸った。誰も話さなかった。胸の砂時計は静かで、しかし、中の砂はもう「砂」ではないような気がした。粒であり、流れであり、井戸であり、呼吸。俺の手の中で、世界の方が息を詰めたり、ゆるめたりしている。
ミラが小さく言う。「おじいさまの、裏帳面……あるはず」
「裏帳面?」
「簿記の裏。封筒の裏に書く、ほんとうの出入り。『誰に何を縫って』『誰に何を返した』。王にも、封糸にも見せなかったやつ」
「どこに?」
ミラは迷わず、俺の家——《ライン書房》の方角を指した。「表でなく、裏の裏。煙突の中」
祖父は、煙で出入り口を隠し、同じ煙で印を付ける癖があった。煤が水に溶けると残る、あの薄い銀。
アリアが唇に笑みを浮かべ、「じゃ、今夜は眠れないわね」と軽く言う。胸の中で、疲労が柔らかく笑った。
「眠らない夜は、縫う夜だ」
俺は祖父の針を握り直す。「袋ではなく、人へ。王でも封糸でもない、『歩く人間』へ」
砂時計を返す。砂は、落ちる。だが今は、恐ろしくはなかった。青い逃げ道が、脈の下で小さく息をする。
誰かの歩幅が、俺の歩幅に少し混ざる。俺の息が、誰かの息に少し混ざる。
それを怖がるな、と祖父は言ったのだろう。
《線引き》は三人で歩き出した。夜の王都は、縫い直されたばかりの布のように、少しだけ手触りが違っていた。
——そして、煙突の裏で見つけた裏帳面の最初の頁に、見覚えのある名が書かれていることを、俺はまだ知らない。
“ヴァイン”。
セレスティアの姓だ。
(第六話「裏帳面の名、王家の負い目」へつづく)
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