第四話「祖父の書架、折れた針」

 西区の古書店街は、夕暮れが似合う。看板の金文字は暮色に沈み、ガラス越しに覗く背表紙の群れが、ひそやかな合唱のように黙る。石畳は乾いて、昼の喧噪が引いた後の薄い埃が、靴の底で音を立てる。


 祖父のライン書房は、通りの曲がり角にあった。油の切れた鈴の音が、扉を押すたびに訴えるような鳴き方をする店だ。表口は鍵がかかっている。俺は慣れた手つきで扉枠の上にはめ込んだ薄い板を押し出し、その裏に隠してあった合鍵を取り出した。


 「……慎重ね」


 アリアが周囲を見張り、セレスティアは門衛ふたりと短い合図を交わしてから、視線を俺に戻した。「先導を」


 鍵穴が、耳の奥をくすぐるような乾いた音で回る。戸を引くと、エピタフのような古紙の匂いが溢れた。表紙の角が擦れた文学全集、頁が波打った年代記、市井のパンフレット、古地図、手製の小冊子——あらゆる“記録”が、まだ時間の中で呼吸している。


 「変わってない」

 喉の奥に砂が溜まるような感覚で、言葉が出た。「祖父が倒れてからも、誰かが掃除してる」


 「誰か?」セレスティアの瞳がわずかに細くなる。「家族以外で鍵を握る者がいる?」


 「……祖父の昔馴染みなら」


 奥へ進む。レジ台の引き出しには、二枚の紙片——未払いの伝票と、丁寧な筆で書かれた「仕入れの相談、明夕」のメモ。日付は、祖父が倒れる前日だ。指で触れると、墨はすでに乾いて久しいのに、熱の残滓が指腹についた気がした。


 「裏だ」

 俺はレジ台の横の棚を押す。重い書棚が滑り、わずかに隙間が開く。祖父のやり口。背表紙を抜き差しする順番が鍵になっている。十冊目でカチリと音がし、棚全体が奥へ引いた。狭い通路の先に、扉。そこには、割れた砂時計の意匠が刻まれている。


 「この裏口ね」

 アリアが笛を握り直す。セレスティアは短く頷き、衛兵に合図。「外の警戒を厳に。中は私たちで入る」


 扉は重く、だが軋みは最小だ。祖父は最後まで手入れを怠らなかった。中は小部屋。四方の壁が書架で、真ん中に大きめの作業台がひとつ。針、糸、紙、接着剤、砂時計、拡大鏡。書物の修繕台だ。ただし、見慣れない道具もある。金属の枠に細い糸が張られ、糸巻きに古語が刻印されたもの。紙の折り目に沿って押し当てると、何かを“封じる”機械だと直感でわかる。


 「この匂い……」

 アリアが小声で言う。「糊と、……布の焼けた匂い」


 俺は作業台の隅に置かれた木箱を開けた。中には、昨日王城で見たものと同じ、砂色の粉を入れた小瓶。刻印は《線守》。箱の底に、薄い布に包まれた板状の物体があった。布をめくると、それは割れた砂時計の枠——王城地下の枠片と対になる形状だ。縁に彫られた細工は、片割れの欠け具合と一致する。


 「持ち出されていたのは、ここに」

 セレスティアが息を細く吐く。「だが、芯(しん)は?」


 芯——砂時計の“砂管”。縫い目の核。俺は机の裏側に手を伸ばし、意図的に隠されたスリットを探る。指先に冷たいものが触れた。細い、金属の筒。抜き取ると、光沢はなく、鈍く、しかし、触れた指の鼓動に応じて微かに震えた。


 「見つけた」

 筒には、古語で短い文が刻まれている。《逆演を恐れすぎるな。恐れなさすぎるな。針は両刃だ》


 「祖父の字だ」

 胸がひとつ鳴る。祖父の筆圧は、紙でも金属でも変わらない。硬いのに、どこか慈しみが宿る。


 机の引き出しに、封筒があった。宛名は《ユリウスへ》。震えた指で封を切る。中から出てきたのは、厚手の紙に達筆で書かれた手紙——そして、青い細糸が一本、結ばれた小さな結び目。


 ——ユリウスへ。

 ——お前がこれを読む頃、おれはもう線の外にいるだろう。

 ——言い訳になるが、おれは王の記録庫から針を持ち出した。王のものにしないために。

 ——記録は、袋に留めてしまえば腐る。人の身体に縫えば、痛みもするが、歩く。

 ——お前は線に触れた。お前なら、袋ではなく人に縫える。

 ——ただし、逆演に気をつけろ。線はときどき、お前を縫い返す。記録が、お前を再演しようとする。

 ——その時は、この青い糸を切れ。切ると、線は一瞬だけ“ほどける”。

 ——ほどけた隙間で、息を吸って、また縫い直せ。

 ——それがお前の仕事だ。おれの遺言は、これだけだ。


 文字が、指先の熱でわずかに滲んだ気がした。視界のどこかが急に明るくなって、次の瞬間、すっと暗くなる。アリアがそっと肩に触れ、「読む?」と視線で訊いてくる。俺は頷き、手紙をセレスティアにも渡した。彼女は無表情のまま読み、最後にほんの僅かだけ目を伏せた。


 「男の遺言としては、簡潔で強い」

 セレスティアの声は乾いているが、乾きは冷たさではなかった。「ここに“袋”の代わりとなる術(すべ)が確かに記されている」


 「青い糸、ね」

アリアが指で結び目を弾く。「ほどくための糸。あなたらしい方法だわ」


 「らしい?」

 自分で言って、苦笑が漏れる。祖父はいつも、固く縫った後に一本だけ“抜け道”を残した。「『本は閉じるために閉じない。開くために閉じる』って」


 セレスティアが部屋を一巡し、指で壁を軽く叩く。「ここ、空洞だな」


 本棚の一角——古い百科事典が並んだ背後。叩くと、かすかに音が変わる。俺は《観測》を浅く開き、銀線の密度を見る。そこだけ、線が組み替えられて、隠し継ぎ目が作られていた。祖父の手だ。俺は背表紙を順番に抜き、最後の一冊を引く角度を半端にして止める。小さな「コト」音。棚全体がわずかに後退し、横に滑る。現れたのは、縦長の黒い空洞。梯子が下へ落ちている。


 「地下室?」

 アリアが身を乗り出す。冷気が上がってきた。湿った土と、古い布、鉄の匂い。

 セレスティアが衛兵に目配せし、先に降りる。「下がる。足元注意」


 梯子を降りるごとに、世界の“線”が太くなる感触がした。王城地下で感じた縫い目の近さ。それと似ている。いや、こちらの方が粗い。人の手で継いだ縫い目だ。

 最下段に足をつける。ランプの灯が揺れ、小さな地下室の輪郭が浮かんだ。壁際に棚。棚に並ぶのは、袋。布袋。革袋。紙袋。袋にはそれぞれ、手書きの札が付いている。「小路の歌」「祭礼の掛け声」「船大工の手つき」「冬至の火」「踊りの足拍(あしびょう)」——記録の欠片が、袋に“保存”されている。


 「……祖父はやはり袋を作っていた」

 胸が変な笑いで震える。「王に縫い付けないと言いながら、袋は袋だ。けど——」


 「袋の材(ざい)が違う」

 アリアが札を読む。「これは“人の袋”。人が使う言葉、人が持つ癖、人がやる動作。袋にして、また戻すための袋よ。王の地下庫の“記録”じゃない。街の“記憶”」


 セレスティアが棚の一番下に跪き、ひとつの袋をそっと持ち上げた。札にはこう書かれている。「破袋(やぶれぶくろ)——注意」。

 袋の口が、縫い目ごと裂けている。内側は黒く、ヘイズの粉がうっすらと付着している。


「これだな」

 セレスティアが低く言う。「袋が破れ、霧が喰った。王城の縫い目だけでなく、街の袋も」


 「誰かが故意に」

 アリアが眉をひそめる。「あの女? それとも——」


 俺は破袋をテーブルに置き、砂時計を返した。銀線が袋の口から立ちのぼり、細い綿の繊維一本一本の経路を描き始める。縫い針の軌跡、糸の撚り、締め具合。祖父の手の癖に似ている。だが、途中から変わっている。別人の手が介入した線。そこだけ、微妙に“結び目が固すぎる”。固い結び目は、引っ張られると、逆にほどけやすい。


 「うん……わかる」

 俺は指で結びの線をなぞる。「ほどけやすくしてある。わざと。……これ、内側からほどける設計だ」


 「内側?」

 セレスティアが顔を上げる。


 「袋の中の“欠片”が、一定以上の濃度になると、自重で口を引く。そうすると、この固結びが逆撚りに変わって、糸が抜ける。……外から破ったんじゃない。中身が外へ出たくなる仕掛けだ」


 「誰が、何のために」

 アリアが問う。


 答えは口にしたくなかった。けれど、線は嘘をつかない。「『袋に留めると腐る』。祖父の言葉だ。……誰かが、その思想を“極端にした”。袋は一時のもの。最終的には“人に縫え”。だから、中身が満ちれば袋は自動で破れ、人へ広がるように——」


 「だが、ヘイズが喰う」

 セレスティアが切る。「人へ行く前に、霧が欠片を奪う」


 「設計者は、ヘイズのことを軽く見ていたか、あるいは——」


 「ヘイズと組んでいた」

 アリアが低く吐く。「さっきの女は、『封糸』で霧を避け、別の袋を作っていた。王にも街にも縫い付けない“第三の袋”。……祖父の系譜を騙った人間が、いる」


 胸の奥で、針が折れる音がした気がした。実際に、指先の感覚が訴える。机の上の金属筒が、微かに軋む。俺は深く息を吸い、《観測》を沈めた。銀線が、地下室中の袋から立ち上り、細い河のように天井の小さな穴へ集まっていく。穴は、地上のどこへ通じている?


 「……店の煙突だ」

 俺は上を指した。「祖父は煙突の内側にも“線”を通してた。袋の出入り口を煙で覆うために」


 「つまり、上へ出る線はひとつ」

 セレスティアが立ち上がる。「追う」


 梯子を上がり、裏部屋から表へ戻る。アリアが扉を開け、外気を一口吸う。黄昏はもう夜の縁へ傾いている。通りの灯が一斉に灯る中、煙突から出たばかりの、いつもより冷たい煙が、屋根の向こうへ漂っていく。


 「西へ……市場の上」

 アリアが指で空をなぞる。「まだ“祭り”の余韻がある。糸が揺れる場所へ戻るつもりだ」


 その時、店の鈴が鳴った。誰も扉に触れていないのに。鈴は一度長く、二度短く鳴り、それから沈黙した。

 合図だ。祖父が「客じゃない友人が来たときに鳴らす」合図。俺は胸の内側で何かが跳ねるのを押さえ、表へ戻った。


 扉の前に、影が立っていた。さっき市場で囲んだ女——ではない。もっと小柄で、肩の線が角ばっていない。外套のフードの奥から、若い目が二つ、こちらを覗いている。片手に古びた本。もう片方の手には、青い糸。


 「ユリウス」

 声は震えて、だが芯は強い。「……遅くなって、ごめん」


 アリアが一瞬、弓を探る仕草をして、すぐに笛に触り直す。セレスティアは剣に手を置くが、抜かない。「名を名乗れ」


 「ミラ」

 少女はほんの少し顎を引いた。「——ミラ・ラインハルト。おじいさまの弟子」


 心臓が、一瞬、落ちた。

 ラインハルト——同じ姓。兄弟の子か? 親族か? 記憶を引き上げる。祖父が店で「子どもに読み聞かせ」をしていた背。小さな影。笑う声。

 ミラは本と糸を胸に抱きしめるように持ち、「おじいさまが……袋を破ったのは、私」と言った。


 「待って」

 アリアが一歩踏み出す。「どういう意味?」


 「おじいさまは、袋を“破る時”を決めてた。人が忘れかけた記憶を、袋から出して、人の身体に縫い直す時。けど、それには“合いの手”がいる。糸を切る手。……それを私がやった」


 セレスティアの眼差しが鋭くなる。「意図して、破袋を」


 「違う。……違わない。私は、合図を早まった。王の結界が薄い日に合わせるべきだったのに、“霧の風”を読み違えた。ヘイズが先に来た。袋の欠片を喰らった。……気づいて、封糸の人たちに助けを求めた」


 封糸——市場の女。

 ミラは青い糸を差し出す。「けど、封糸は『王にも街にも縫わない』って。『第三の袋』に入れようとした。おじいさまの考えから外れてると思って、私は逃げた。……逃げて、間に合わなかった」


 胸が軋んだ。俺はゆっくりと手を伸ばし、青い糸を受け取った。指に触れた瞬間、糸がかすかに温かくなった。


 「祖父は——」


 「線の外」

 ミラが目を伏せる。「亡くなる前夜、私に『線を乱すな』って言った。袋は道具だ。人は道。霧は迷い。……ユリウスに会って、渡せ、と」


 青い糸が、手の中でわずかに脈打つ。祖父の文字の呼吸。

 セレスティアが小さく息を吐いた。「謝罪と告白は受け取った。だが、霧は待たない。王城は今夜も薄い。袋の再縫合と、欠片の分配を、今すぐにやる必要がある」


 「やる」

 俺は言い切った。「地下の袋から“まだ喰われていない”欠片を選び、人へ縫う。市場でやったやり方を、王城の縫い目の近くでもやる。……ミラ、手伝えるな?」


 ミラは顔を上げた。目の奥の涙が乾き、そこに細い火が灯る。「はい。私、手が覚えてます」


 「封糸の連中は?」アリアが問う。「邪魔をしてくる?」


 「来る」

 ミラが即答した。「彼らは“袋の所有”に執着してる。袋を持つ者が、記録を持つ者だから。人に縫うと、袋は空になる」


 「なら、なおさら」

 セレスティアが剣帯を締め直す。「騎士団は現場の保護、撤去導線の確保。ギルドは周囲の見張りと、必要なら戦闘。——ラインハルト、《線引き》は縫いに集中を」


 「了解」

 俺は砂時計を握り直す。砂は重く、遅く——だが落ちる。許容量は、まだある。

 机の上で金属の筒が光を返した。祖父の針。俺は針を懐に入れ、青い糸を腕に結ぶ。結び目は小さく、ほどけやすく。


 「行こう」

 アリアが笛を軽く鳴らす。ミラが袖をまくり、糸巻きを腰に差す。セレスティアが扉に手をかける。

 店の鈴が、今度は、風も手も触れていないのに鳴った。短く、一度。まるで、見えない誰かが「行け」と言ったみたいに。


 ——祖父。

 心のどこかで、針が立つ。俺は頷き、扉の向こうの夜へ踏み出した。


 王城の縫い目は、今夜、もう一度、縫われる。袋ではなく、人へ。

 逆演の恐怖は、青い糸がほどいてくれる。

 線は一本じゃない。けれど今は、一本を選ぶ。


 《線引き》は三人になった。

 霧の薄皮が、月の輪郭を鈍くした。俺は砂時計を返し、呼吸を合わせる。


 ——針を入れる。

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