第参話 闇夜に舞う蛍
素鵞大社からしばらく歩くと森が途切れ、断崖に至る。ほたるは断崖の淵まで足を進め、眼下に広がる生茂った木々とそれに紛れるように立ち並んだ屋敷や民家、集落を貫いている川に沿って広がる田畑を眺めた。
山間にあるこの集落は、豊原の里の中心であり、出雲大社の神官や里の名家の者が揃って住まう場所でありながら、まるで何かから隠れているように見える。
「不気味な所だ。暗殺者の巣窟だからこの集落は息を殺しているのだろうか。そもそも暗殺者を育てている、その意図が分からない。……出雲の現人神・櫛名田媛命を守るためと聞かされてきたが、ならば何故、代々の媛は守られる側なのに暗殺術を会得してきたのだろう。いや、そもそも媛の護衛目的ならなぜ人の命を奪う暗殺術なのだろう……」
謎だらけだ。――暗殺者、それを守るかのように隠された集落、櫛名田媛の存在、隠された歴史。
「……あっ!」
ほたるの頭にもう一つの可能性が浮かんだ。もし、里が隠しているものが暗殺者の存在ではなく、別の何かだとしたら。その何かを守るために暗殺者がいるのだとしたら。もし、その何かが櫛名田媛という存在だったとしたら……真実を知れば、妹を救う道があるかもしれない。――皆で旅に行けるかもしれない。
「兄上に訊こう。私の頭では、とても真実にたどり着けないな」
新たな一条の希望の光が雲の間から差したように、ほたるの心は僅かに軽くなった。
「僕に用か」
唐突にかけられた声に、ほたる振り向きざま、とっさに懐の隠し刀を抜いていた。ほたるの背後には二本の小径があった。一本はほたるが来た道、そして今、覆面を着けた青年が現れた集落へと続く山道。
「……兄上」
「相変わらず早いな。だが気配を探るのは雑魚だ」
「むっ。なぜここが?」
刀を鞘に納めて、ほたるは訊ねた。
「いや、ただそなたを探しに。今、集落の広場に京から来た芸人一座が来ているから、憂さ晴らしにどうかと」
「や、それは今は少し……」
兄は困ったように少し眉を下げた。ほたるに黒耀なりの気遣いは通じなかったようだ。
「で、そなたの要件は?何か聞こうとしていただろう」
ほたるは兄に心の内に溜めていたものを吐き出した。すべて吐露し尽くした時、すでに日は傾き二人を朱く照らしていた。
「……まずは、里にある書物を調べてみるか」
黙ってほたるの話に耳を傾けていた黒耀が口を開いた。
「かたじけない」
ほたるは、志を受け入れてくれた兄に深々と頭を下げた。
ほたるが消えた――。
奥入りの儀の二日後の朝、いつも通り朝日が東の空に昇った。何一つ変わらない日常。しかしその朝に姉の姿はなかった。この朝から、霞桜の人生の歯車が音を立てて速度を上げ始めることになる。
里の領主の長女、ほたるの君の失踪の噂は瞬く間に里中に広がっていき、里総出の捜索が行われた。しかし不自然なほど領主に連なる名家の者たちの捜索への意欲が低かった。
霞桜は病弱な体を押して、神域中を走り回ったがそれが祟り僅か五日で立ち上がれなくなってしまった。終いには床の中でひたすら姉の無事祈り、無力な自分を呪い続けることしか出来なかった。
霞桜が床に就いてから二日後、霞桜が倒れたことを聞きつけて黒耀が駆け付けてきた。見舞いに来た兄に、八つ当たるように霞桜は不満をぶちまけた。
「なぜ、名家の者たちは姉上を探すのに意欲的にならないのですか?父上ですら、もう諦めてしまっているように見える。神隠しって民が噂しているというのは本当なんですか?絶対神隠しなんかじゃない。姉上は死んでない。……ねえ、信じて兄上。兄上だけでもわたしの言葉を、力を信じて。――たとえ、他に誰も信じてくれなくとも兄上だけは、どうかほたる姉上を諦めないで……」
黒耀は頷いた。
「無論、諦めない。信じようそなたの力を」
兄が優しく微笑んだ。兄の笑顔は人を安心させる何かがある。常人には覆面を着けている黒耀の表情を読み取ることはいささか難しい。しかし霞桜には兄の感情を汲み取ることなど造作もない。兄が微笑んでいること、さらにその笑みが己を安心させるものであることを感じ取った。
「ありがとう兄上。……なぜ父上たちは姉上をこんなに早く諦めてしまったのだろう」
黒耀は何かを思案しているように目を閉じた。妹がここまで勘づいているのなら明かすべきだろうか。陰の世界について、それから――。
「……暗殺者」
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